Diary-T 187 “ゆう然”
縁あって小布施に出向き、
図らずも高井鴻山を知ることになった。
高井鴻山(文化3年~明治16年/1806~1883)
鴻山は、幕末維新の激動期に、その時局の変化に対応しつつ、陽明学(儒学の一派)の教え「知行合一」の精神で“国利民福”の信条をつらぬいた人である。
知行合一(ちこうごういつ)は、中国の明のときに、王陽明がおこした学問である陽明学の命題のひとつ。
論語の為政第二にある「先ず其の言を行い、而して後にこれに従う」が元になっている。
王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、実践重視の教えを主張した。
ここ数年江戸時代の文化を書籍を通じて楽しんでいるが、
…事業家としては無能であり、京や江戸では勉学の傍ら、花柳界で金持ち・御曹司と乱痴気騒ぎをし、自ら「放蕩宗」と称して多くの友人を作っていった。
「放蕩宗」
高井鴻山のことをもっと知りたいと思った。
その豪快な書に心が躍ったからだ。
今なら世間様は”芸術家なのね、”で済む話が、
当時の社会構造や風潮を思い浮かべれば、
芸術と放蕩は分ち難い関係にあったのではないか。
つまり金や世間を気にせずに好きな抱け好きなことをする。
遊び尽くす= 書、画、思想、建築、女、食、酒、…
学問と芸術を思う存分遊び尽くすことが放蕩であり、
そこから生まれるものが、
今日芸術と呼ばれるものだったのではないか。
晩年の高井鴻山の脳裏に浮かんだものはなんだったのだろうか、
思い通りにならない人生を儚い夢と憂い、
失意のうちにその人生を終えたのか…
はたまた、人生のすべてを受け容れ、
発露としての芸術を放蕩し尽し、
人生を喜びで満たし生涯を終えたのか…
悠然楼
鴻山の祖父作左衛門( 1753 ~ 1826 )が隠宅として
建てた二階建の建築物を、鴻山が書斎として使ったもの
で、中国明時代の文人陳文燭の書斎にあやかってこの
名称が名付けられた。
鴻山は、ここで書画や絵画に専念し、鴻山の招きで訪
れた葛飾北斎や佐久間象山ら幕末の志士らと語り合った
と伝えられている。
"ゆう然"とは
物事にとらわれず、思いのままに進退すると言う意味がある。
さて、そろそろNHKでスティーブ・ジョブズ「世界を変えた男」が始まる。
いよいよ今年もあと僅かだ、
来年も、来年こそ、悠然と、ゆうぜんと、
生きていきたいものだ。
来年もどうそよろしくお願いします。
皆様、よいお年を。
高井鴻山
http://byp.web.infoseek.co.jp/takai.htm
王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、実践重視の教えを主張した。
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