戸田恵子 連載|追悼──師・野沢那智さんを偲んで
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2015年4月17日

戸田恵子 連載|追悼──師・野沢那智さんを偲んで

戸田恵子|追悼──師・野沢那智さんを偲んで

教えは舞台において毎日ブレないこと、そのための稽古(1)

その訃報を知ったのは韓国にいるときでした。話題のミュージカル『ビリー・エリオット』を観終わり、興奮覚めやらぬ移動のバスのなかでした。報道ニュースよりはやく新聞社などから社長の牧野に私のコメントを求める留守電がたくさん入っていたのでした。

文=戸田恵子

闘いが一方的に終わってしまった

ミュージカル『今の私をカバンにつめて』の上演中、私はすでに関係者から容態がかなり悪いことは知らされていました。しかしながらこういった訃報はいつだって突然感がある。びっくりしたのと同時に、その瞬間、私のなかで演出家との見えない闘いが終わってしまった、そんな気がしたのです。いままでの自分の芝居すべてが、野沢さんに向けて闘ってきたような気がしたのです。劇団を退団してからほとんど音信不通でした。野沢さんの住まいも電話番号も、今日までまったく知らずにおりました。退団後、私の舞台は一度も観ていもらえていません。それがどうのこうのとはもちろん思わないけど、それでも私はつねに心の奥底で闘っていたのだと、その瞬間気づいたのでした。

在団中も、無論退団後も芝居を誉められた記憶はほとんどないけれど、厳しい演出家(野沢さん)に“Yes”と言ってもらうため、うまくなったなと誉めてもらうため、そしてどこかで認めてもらいたい、そのためだけに演じてきたような気がするのです。実際にもうこの先野沢さんの声で評価をもらうことはないんだ……。だから闘いが一方的に終わってしまった、そう思えたのです。

19歳の終わりごろ、歌手で挫折した私を、“ひとに媚びないおもしろそうな子だから”と野沢さんが座長を務めていた劇団 薔薇座に誘ってくれました。はじめてのレオタード、はじめてのコーリューブンゲン、はじめての外郎売り──はじめてづくしの毎日に私は胸を弾ませ、劇団研究生生活をスタートさせました。単独感の強かった歌の世界から一転、劇団では“仲間”感が味わえました。とくにダンスに興味をもった私は、ものすごい勢いでレッスンを受けていました。クラシックバレエ、ジャズダンス、タップダンスなど、劇団で1日2クラス受講したあと夜はよそにも通ったりして、1日3クラスなんて日もありました(笑)。

戸田恵子|追悼──師・野沢那智さんを偲んで

教えは舞台において毎日ブレないこと、そのための稽古(2)

VS 演出家

研究生のカリキュラムをこなすことは楽しい日々でした。レッスンの空き時間にはみんなでパチンコに行ったり、お茶を飲んだり。やがて舞台に立つようになると、どっぷり稽古に明け暮れる日々になり、楽しい気分はどこへやら。野沢さんのエンドレス稽古に閉口しながらも食らいついていた時期。冗談ではなく物も飛んできたし、朝までの稽古なんてザラ。毎日毎日、何度も何度も繰り返す、ただひたすら。なにがいけないのか? どこがいけないのか? まったく理解できず、黙々と演じていました。もちろん、なにが? とか、どこが? とかいうレベルの問題ではなかったのです。いまにして思えば、ただ“下手くそ”だったんです。稽古場から初台駅までの道のり、くたくたになった私たちの文句がどれだけ落ちていたことでしょう(笑)。

入団して1年ちょっとで私は幸運にも主役の座につき、1年のほとんどを劇団に、いや、20代のすべてを劇団とともに歩みました。公演中は本番舞台が終わっても稽古場に帰り、稽古をしていたことが思い出されます。オールスタッフ、オールキャスト、もう全員ヘトヘトでした。連日徹夜の稽古、道具づくりや衣装づくり、チケットノルマにも奔走し、若いとはいえ余力も声も残っていませんでした。

本番中は舞台袖やセット裏で寝ているひともいました。しかしながら野沢さんはそんなことなどお構いなし!(いや、わかっていたとは思うが)それほどに私たちの芝居が気に入らないというか、できが悪かったのだろう。私は劇団時代、観に来てくれたお客さんと一緒に帰るとか、ご飯を食べるとか、ゆっくり話をする機会にあまり恵まれませんでした。稽古がなくてもダメ出しが長くありましたし、それが当然だと思って過ごしてきました。それは厳しかったという一言では言い尽くせない、闘いだったように思えるのです。

なのに10年以上も食らいついていました。“魔力”ですね。そんな魔力のなかで、私は声優の道をつけていただきました。といっても、マイクの前にどのくらいの距離で立つのとか、どうやって画面と合わせるのかなど、ノウハウはなにも教わらず、ただスタジオに放り込まれただけですが……。しかし、これまでの辛抱実ってか、私はわりとはやい時期に声優として自立できるようになりました。ありがたいことに声の仕事が週5~6本のレギュラーと、劇団での稽古を掛けもつ日々。すでに忙しかったです。

劇団時代のことは当然ながらともに過ごした劇団員にしかわからないことことばかりで、言えることもあれば言えないこともあり、また、言わないほうがいいと思うこともある。私にとってはカオス。いまとなっては美しきカオスの時代とでも言いましょうか。

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教えは舞台において毎日ブレないこと、そのための稽古(3)

私の芝居はまちがいなく、野沢流なんです

野沢さんの口癖。そこそこ稽古が上手くいったときでも“段取りはそういうことだ!”となかなか誉めてはもらえない。そんななか、はっきり記憶していることが2度。ミュージカル『孫悟空』で三蔵法師を演じたさいに新宿の劇場袖で唐突に“上手くなったな”と言われて驚いたこと。在団中に外部プロデュース公演『ミュージック・マン』に出演したときに“よそではうまく演るんだな!”と変な誉められ方をしたこと(笑)。劇団を離れて舞台に立つたび、私は誉められるという快感にしばし酔いしれた。よその演出家はそれはそれは誉めてくださるのです。“なんだ? このむずむずした感覚は?”。私は自分のなかでなにが起きているのかはじめはよくわかりませんでした。やがて“ああ、私誉めてもらったんだ”と認識。劇団時代の私はきっともっと誉めてもらいたかったのかもしれませんね。

退団後の出演舞台でたくさんいただいたアメとムチでいうところの“アメ”──このアメは劇団時代のムチがあったればこその甘さ。格別の甘さです。そしてこれからは逆にムチをもらうことが少なくなること、それもよくわかっていました。だから自分で叱咤しなければと。過酷な稽古で培った忍耐力! いまでも誰にも負けないと思っています。感謝です。でも一番感謝すべきはやはり“芝居”を教わったことです。男座長のもとなので、“女らしさ、色気はよそで教わってこい!”と言われたこともありましたが、私の芝居の土台はすべてここにあります。私の芝居はまちがいなく、野沢流なんです。

退団から早20年以上が過ぎ、何度かスタジオですれちがったりもしましたが、ごあいさつ程度でした。アンパンマンにも一度いらしてくれました。たくさんの方から野沢さんがことあるごとに私の話をしてくださっているとも聞いておりましたが、直接お話することはありませんでした。

帰国後ご葬儀に参りましたが、“お顔は見ない!”と固く決めていました。そのほうがよかったのです。私のなかではこのまままだ遠くで生きていて、私は勝手に闘っていたいと思ったからです。だから少し遠くから“ありがとうございました。さきに逝った劇団の先輩たちと一緒にまた徹夜でお芝居やっててください”と手を合わせてきました。心よりご冥福をお祈りいたします。

訃報を聞いても、ご葬儀でも、私は泣きませんでした。

けれどこの原稿を書いてるいま、涙が溢れてなりません。

合掌

           
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