♪2 PUNK ROCK LIFE
青春high-school×music
高校を辞めて、アメリカを放浪
──では、島津さんの人生をちょっとプレイバックして……
島津由行 高校までバンドをやってました。ジミヘン、クリーム系のロックバンドですね。ギターとベースとドラムに、ヴォーカルが別にいて、僕はベース。ヤマハのポプコンに出て、九州地区のロック部門で優勝したんですが、優勝できたのはヴォーカルが良かったということで、トロフィーは本人に持っていかれてしまいました。なにせ、臨時で参加してもらったもので(笑)。
──でも、すごいじゃないですか。
島津 姉貴はつま恋まで行きましたけどね。ポップス部門はつま恋の最終まで行けて、赤ずきんって女性デュオで『あんたとあたい』って曲でデビューしたんです。ちょっとヒットしたんですよ。姉貴はジョニ・ミッチェルとかキャロル・キング、カーリー・サイモン、ユーミンとかが好きでしたね。
──もっとすごい(笑)。
島津 7つ上の兄貴がいて、コピーバンドとかやっていて、音楽とか楽器がいつも身近にあるわけです。最初に自分で買ったアルバムは「Mr.Moonlight」や「She's A Woman」とかが入っている『BEATLES'65』です。7歳ですよ(笑)。それは兄貴に買わされたというのが正解かな(笑)。ビートルズのシングル盤はほとんど持ってます。それで、うちの従兄弟の家が、熊本市でムゲンというディスコを経営していて、そこでバンドの練習ができたんですよ。僕が小5、6年の頃かな、doorsのレコードが置いてあって、doorsにはガツンとやられましたね。
──音楽的にはいい環境にあったんですね。
島津 中学の柔道室で日曜日にミニコンサートをやろうって、リヤカーに楽器一式積んで運んで演奏していたら、体育の先生が追っかけてきて、柔道室の裏がプールでそのまま飛び込んだという、ロックというよりグループサウンズ的な(笑)そんな時代。
──なんだか楽しそうですけど(笑)。
島津 実は僕は16歳の時に一人でアメリカに行ってるんですよ。高校を辞めて、バイトしてお金を貯めて。最初サンフランシスコに入って、LA、メキシコ方面を回って、ニューヨーク、そしてハワイから帰国。当時150万円ぐらい貯めて、それで3ヵ月ぐらい放浪しましたね。『Popeye』がまだ創刊されてなくて、adidasなんて誰も知らなくて、まだ当然1ドル365円時代で、エアチケットもノーマルしかなくてすごく高い。イチゴ狩りや皿洗いを、歳をごまかしてやってたなぁ。
“わさもん”でいこう!
──高校は再入学したんですか?
島津 夜バーテンのアルバイトをしながら自分で行ったんですよ。そのおかげでもう一度アメリカに行けたし。当時、学生服は、メンビギのパンツに、クラークスのデザートブートかコンバース、それに軍モノのシャツを着てたわけです。
──そんな生徒、他にいないでしょ?
島津 これは書いてほしいんだけど(笑)、高校にアイビー先生というのがいて、先生は『VAN』とか『KENT』が大好きなんですよ。それで僕のファッションが気になるわけですよ。その先生がすごいのは、『Regal』のスリッポンのかかとを自分で切って、学校のスリッパにしてるんですよ、変わってたんですよ、新しいですけどね(笑)。どうしてもリーガルを履きたかったわけですよね(笑)。その先生にはお世話になりましたよ。
──着るものもお兄さんの影響とか?
島津 お古の『VAN』は多かったですね。当時、僕は『Mr.VAN』が好きでした。かっこよかったですよ、ちょっとヨーロッパが入っていて。ただし、ロンドンブーツは履けなかった(笑)。
──熊本って、ファッションが「早い」街ですよね。
島津 熊本弁で“わさもん”って言うんですけどね、凝り性というか目立ちたがり屋で、とにかく早いモノに弱いんですよ。僕がファッションに目覚めていくのは、地元で有名な有田さんのショップ「ブレイズ」以前のアウトドアショップの頃で、74、5年に東山さんという人が東京から戻ってきてアワーハウスっていう西海岸の古着を仕入れる店があったんです。
特に有田さんは、おしゃれなアイビー少年が多かった九州学院時代に「IVY SPIRITS FAN CLUB」というのを結成していて、70年ぐらいに『メンクラ』で特集されたんですよ。僕も恥ずかしいんですけど、マチアイには2回ぐらい載ってます(笑)。それでTAKE IVYからPREPPIEに移っていって、熊本は独自の流行をつくっていくんですね。当時買ったリーバイスのブッシュパンツとか今でも履いてます。
──熊本出身のファッション業界人って多いですもんね。それで、高校を卒業して……。
島津 卒業式の日の夜には、東京行きの鈍行の桜島号に乗ってました。あの頃26時間かかったんですよ(笑)。
to be continue……♪3