田名網敬一は最初にアンディ・ウォーホルのなんたるかを理解した日本人アーティスト|MEDICOM TOY

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2019年8月24日

田名網敬一は最初にアンディ・ウォーホルのなんたるかを理解した日本人アーティスト|MEDICOM TOY

MEDICOM TOY|メディコム・トイ

ギャラリー「NANZUKA」オーナー南塚真史氏インタビュー(1)

メディアやジャンルにとらわれず半世紀以上にわたってアートシーンを牽引し続けるアーティスト、田名網敬一。83歳を迎え、その勢いは止まることを知らず、イマジネーション湧くままにペインティング、コラージュ、立体作品を次々と発表。今春の「アディダス オリジナルス(adidas Originals)」とのコラボレーションやTBSテレビ「情熱大陸」出演も話題を集めたばかりだ。極彩色で表現されるサイケデリックでシュールな世界。今回はMEDICOM TOYから田名網敬一ワールドを凝縮したBE@RBRICKが発売されることを記念して、2007年より田名網作品を取り扱っているギャラリー「NANZUKA」のオーナー南塚真史氏にお話をうかがった。

Photographs by OHTAKI Kaku Text by SHINNO Kunihiko

田名網先生の作品を扱いたいと直談判しました

「NANZUKA」とは、田名網敬一をはじめ、空山基山口はるみ佐伯俊男横山裕一といったアーティストと手を組み、海外のアートシーンにも積極的に進出する、いま世界が注目するギャラリーである。

──南塚さんは早稲田大学で美術史を学んだのち、クロスジャンルに活躍するアーティストの作品を発表するギャラリー「NANZUKA」をオープンされました。ところで、なぜ、ギャラリーだったんでしょうか?

南塚 まず美術史という学問自体が歴史学なので、現在生きているアーティストは研究の対象外になってしまうことが挙げられます。作家が亡くなって50年とか生誕100年といった区切りが、美術史学の基準になっており、では生きているアーティストは誰がサポートしているのか、と考えました。

いまでこそ日本でも現代美術の展覧会が珍しいものではなくなりましたが、僕が大学にいた1990年代後半から2000年代初頭は、公共の美術館が現役アーティストの企画展を開催することは、大きなチャレンジだったのです。なぜなら、美術館の学芸員は美術史を研究してきた人たちで構成されていますので、現役アーティストのことをあまり知りません。むしろ歴史学的な基準で捉えれば現代美術は芸術(ファインアート)とは呼ばない、と言っても過言ではありません。僕は単純に生きている作家と仕事がしたかったんです。

もうひとつは美術史学の研究は基本的に資料を読み解くことなのですが、アーティストが書いたものなどを一次資料と呼び、最重要視します。インタビューで何を言ったとか、日記で何を書いていたとか。それを疑ってはおしまいなんですが、文献に依っているだけでは本質に近づけないんじゃないかという思いが、僕の当時の皮膚感覚にはありました。

というのも、少なくとも僕の知る限り、アーティストは必ずしも毎回本心を言うわけではない。奇をてらって意図的に嘘も付くこともあります。いいアーティストは常に人と違うことを考えている。だからこそ、面白い作品を作るわけです。

そうしたアーティストの裏側を見たい、作品ができるまでの過程に携わりたい、と思ったことがギャラリーを始めた一番の理由です。当時、日本の先輩ギャラリーたちが、ちょうど世界に出て行き始めた時代だったことも後押しになりました。

──オープンから現在まで「NANZUKA」は一貫して変わらないポリシーを持っていますね。
南塚 現代美術をそもそも「ファインアート」と定義する必要がないというのが、僕のギャラリーの立ち位置です。

ファインアートの世界からすると、グラフィックデザイナーとか、イラストレーターといった商業美術をやっていた人たちは、アーティストではない。もちろんストリートもアートではない。これは、もはやレッテルと言っていいと思うんですが、僕はその枠をとにかく広げて解釈しよう、と考えました。現代美術をフラットに見たときに、イラストレーターだって、グラフィックデザイナーだって、ストリートアーティストだって、アート的な評価の対象になり得るんじゃないか、と。

そこに社会的に重要な意義があり、きちんと紐解くべき文脈があれば、研究の対象になる可能性がある。そのポリシーでもってギャラリーを作り、それを続けています。

──南塚さんの活動が本格的になる中で田名網敬一さんとの出会いは大きなものと思いますが、そもそもどういう経緯があったんですか?

南塚 2005年、ライブストリーミングメディア「DOMMUNE」をやっている宇川直宏さんと、NANZUKAの第1号アーティストであるモリマサトaka MUSTONEが所属していた「他社比社」とチームアップして、「NANZUKA UNDERGROUND」というギャラリーと「Mixrooffice(マイクロオフィス)」という名のスタジオが融合したハコを作りました。
宇川さんと他社比社とは当時アンダーグラウンドなクラブでイベントをプロデュースしていた時に知り合い、何か一緒に東京にコアなスペースを作れないかという話になり、僕がカウンター的なギャラリーをやりたいというアイデアを出した事に呼応して、宇川さんが「じゃあ、その隣にアーティストスタジオとパーティースペースを作ろう」と、プッシュしてくれました。それが「Mixrooffice」で、週末になると宇川さんがブッキングしてきた錚々たるメンツのDJたちがお忍びで来てプレイをしていました。

マイクロオフィスは2008年でクローズし、その後宇川さんがDOMMUNEを立ち上げるんですが、この3年間はファインアートもクソもない、権威やルールを壊しにいくような活動をしていました。

その宇川さんが師匠と仰いでいるのが田名網敬一先生で、僕も長年のファンだったことから懇願して紹介して貰い、スタジオに行きました。当時、既に田名網先生はグラフィックデザイナーとして、アートディレクターとして非常に有名ではありましたが、僕としては日本ではなく世界のアートシーンに切り込んでいきたい、と直談判をしました。いま考えると、ギャラリーを開けて1年程度の小僧のオファーを、よく受けてくれたと思いますが、これは宇川さんが背後でお墨付きを出してくれたおかげです。

ギャラリーを2005年10月に開けて、2006年春に田名網先生を紹介してもらい、最初に田名網先生の展覧会をやったのが2007年の「DAYDREAM」です。そのとき僕は「新作のペインティングをお願いします。キャンバスに描いてください」とお願いしました。田名網先生も最初「なんで描かなきゃならんの? プリントじゃ駄目なの?」とおっしゃっていたのですが、逆に僕は世界のアートシーンのど真ん中に田名網先生を持っていくことを考えていたので、いったん田名網先生に王道に戻ってもらう必要性を感じていました。

田名網先生は昔からたくさんの絵を描いているのですが、そういうことも全然知られていませんでした。田名網敬一の歴史的背景をきちんと説明をするために、まずは一番強力な武器で攻めたい、とお願いをしました。最終的に、田名網先生に納得してもらい、2007年春のアートフェア東京で、新作のキャンバスペインティングを2点発表しました。それがスタ-トです。
個展「DAYDREAM」(2007年)
──2007年に上海で初開催されたアートフェア(「ShContemporary2007」)参加を皮切りに、香港、ジュネーブ、ベルリン、ロンドンと積極的に海外展開されていますね。

南塚 先ほど申し上げたように、田名網敬一という伝説的なアーティストが、きちんとグローバルなアートシーンの中で評価されるためには、とにかく海外に出るしかないと思ったのです。日本では、「どうせデザイナーでしょ?」とか「若者がやってるストリート系のギャラリーだよね」といった評価しか得られないことは分かっていたので、とにかく海外に行こう、と。外に出ていって、そこで評価を得て逆輸入すれば、日本人は後からついてくる。そのように割り切りって、徹底的な海外志向を持っていました。

最初のきっかけは2007年の4月、「アートフェア東京2007」に出展した際、そこに「ShContemporary」という上海で開催されたアートフェアの立ち上げのためにスカウトに来ていたフェアのスイス人ディレクターの目に止まったことです。うちのブースが面白いということで、そのまま9月のフェアに出ることになりました。その上海で、今のアート・バーゼル香港の前身となるART HKというアートフェアの話が来て、そのフェアにもそのままジョインして数珠繋ぎ的に広がっていきました。海外のフェアはコストも高額なので、作品を販売するのに必死でしたが、同時に海外のギャラリーとのコネクション作りに注力しました。自分のアーティストを売り込むためです。
──アジア圏でのアートフェアの興隆とも重なったんですね。そうした海外での評価が現在の精力的な活動につながっていったと思いますが、ここで南塚さんの考えるアーティスト田名網敬一の魅力について教えてください。

南塚 おそらく、田名網敬一の全貌をきちんと俯瞰して理解している人はほとんどいないと思います。

最初のキャリアは1958年、武蔵野美術大学在学中からプロとして雑誌のアートディレクションを手掛けるかたわら、赤瀬川原平荒川修作らとネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成した篠原有司男と交流を始めるんですけれども、非常にインテリでアートのことに熟知した上でグラフィックデザインの仕事に携わり、そうしたアーティストたちと一緒に展覧会に参加して自身のアート作品を発表しています。
田名網先生は、おそらく最初にアンディ・ウォーホルの、なんたるかを理解した日本人アーティストだと思います。というのも、アンディ・ウォーホルも、もともとはイラストレーターであり、コマーシャルアートにおけるメソッドやプリント技法を戦略的にファインアートに持ち込んで革命をもたらした人です。ウォーホルがやったことはデザイン界では別に珍しいものではなかったのですが、シルクスクリーンのプリントをキャンバスに刷ってファインアートに持っていったことが新しかったわけです。そこで、“キャンバス”が重要な要素としてひとつ出てくるんですが。

あとは戦略的なプロモーションという、広告代理店が考えるようなことをウォーホルはやりました。有名人のポートレートや世の中に溢れている商品のイメージなどを大量に刷っていくことによって、大衆に向けたアートという文脈で切り込んだのです。その戦略と手法を、アーティスト田名網敬一は、自分が商業美術の世界にいたからこそ、誰よりも早く正確に理解しました。田名網先生は、ウォーホルの影響を受けて、1965年の時点で、アートとデザインの境界を超えて表現をする、というステートメントを残し、自分の肩書きを表わすふさわしい言葉がなかったため、イメージ・ディレクターと名乗ったりもします。

田名網先生は、’60年代から’70年代にかけて、カウンターカルチャーを体現するグラフィックデザイナーとしてメジャーになっていった人ですが、’80年代に入ると神秘主義的な作品を数多く残しています。絵画や立体作品、映像作品など、よりアート的な作品を製作し、展覧会も積極的に行なっていますが、決して自分を芸術家だと名乗ったりはしませんでした。アートとデザインは上下の位置関係ではなく、並列して存在するものだという自身のポリシーを貫くためです。

2000年代に入り、インターネットメディアの情報力とリンクしたスピーディーでフレッシュな感性が、田名網敬一という存在に気づき、再発見しました。いま田名網先生は、世界中の若者に支持されているのです。
──ご本人は変わらないまま、時代がようやく追いついたということですね。

南塚 アンディ・ウォーホルの薫陶を受けたから、アーティスト田名網敬一はそこに居続けられた。どのような肩書きで呼ばれようとも、自身の信じる作品を変幻自在に好きなように製作を続けてきた。自身のポジションを変えずリアルであり続けたことが、若者の尊敬と共感を集めているのだと思います。

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ギャラリー「NANZUKA」オーナー南塚真史氏インタビュー(2)

アートディレクターとも違う、グラフィックデザインをベースにしたアーティスト

──田名網先生の原動力はどこにあるんでしょう?

南塚 田名網先生は夢日記を付けています。朝起きると自分が寝ている間に見た夢を書き留めるんです。過去に、それをやり過ぎて不眠症になりドクターストップがかかったため、最近はたまに面白い夢があったときしかやらないと言っていますが、その記録は作品の重要なソースとなっています。

また、田名網先生は、幼少期に戦争を体験しています。空襲から逃げ回る人々、防空壕での記憶、空襲後に見た悲惨な光景など、一見陽気に見える田名網の作品の中には、こうしたモチーフが描かれています。田名網先生の作品は、トラウマ体験や夢の記憶、そして現実の体験などが複雑に混ざり合って構成されています。その深淵は、他の誰か覗いてみても、決して全貌を把握することはできません。

田名網先生は、表現者として自分の蓄積をすべて吐き出して作品を制作しています。そのストイックな姿勢は、少なくとも僕が知る限り、他の誰も真似はできない領域に達していると思います。まさに巨人です。
──ものすごいパワーだと思います。近年の活動の中でも特に今春のアディダスのファッションライン、アディダス オリジナルス(adidas Originals)」とのコラボレーション「adicolor by Tanaami」は若者を中心に話題になりました。これも「NANZUKA」が主導されたそうですね。

南塚 アディダスのPRを担当している加瀬くんという友人がいまして、「田名網先生と何かやろうよ」みたいな感じの投げかけは、5〜6年前からしていました。

adidasも、今ではカニエ・ウェストやファレルとのコラボレーションが大きな成功を産んでいますが、以前は企業もアーティストとの協業には、あまり価値を見い出せていなかったと思うんです。ただ、ソーシャルメディアの拡散によって、逆に社会がどんどん保守的になり、弱者の攻撃的な意見が取り上げられやすい環境の中、聖域的にアーティストのクリエイティブが、自由を象徴するものとして評価されているのだと思います。さすがに、ビッグブランドはそうした時代の流れに敏感で、今回のadidasとTANAAMIのコラボも、こうした文脈に即したものだと思います。

このプロジェクトのボスに中濱淳星さんという日本人リーダーがいまして、淳星さんは本国のアディダス本社の6人いる副社長の1人なんです。今回のプロジェクトは淳星さんが「日本に田名網敬一という素晴らしいアーティストがいる。この人とコラボレーションするべきだ、責任は持つから」と稟議を通してくれた、と聞いています。プロジェクトトップの愛があったところからスタートしたので、田名網先生も快く進めることができました。アディダスとのコラボレーションは第2弾も控えているので、ぜひご期待ください。
──楽しみにしております。そしていよいよ本題です。MEDICOM TOYから8月に発売される「BE@RBRICK 田名網敬一」の製作背景についてお聞かせください。

南塚 実は、これでもかなりおとなしめになったんです(笑)。当初、田名網先生はもっとすごいデザインをあげていて、色数ももっと多く、ディテールの描き込みも非常に細密でした。しかし、印刷技術的に難しいという問題があり、それでもMEDICOM TOYさんがものすごく頑張って、ここまでもってきてくださった。たぶんここまで色数を使っているBE@RBRICKは、あまり他にないと思うんです。ものすごい版の数なので。
──テーマは決めていらしたんですか?

南塚 テーマというよりは田名網先生が日常的に描いているキャラクターを、BE@RBRICKに落とし込んでいきました。このニワトリや金魚、目の表現など、田名網作品の典型とも言えるものです。実は田名網先生、おもちゃがとても好きなんです。
──それは意外でした。

南塚 昔から自身のコレクションや、過去に作ったものをアーカイブ的にスタジオに飾って置いています。先生は、ずらっと一堂に会して並べるのが好きなんです。ちょうど、ギンザ・グラフィック・ギャラリーで開催した展覧会(2019年7月5日(金)~8月21日(水)「田名網敬一の観光 Keiichi Tanaami Great Journey」では、こうしたスタジオのコレクションを大量に並べた展示をしていました。
──田名網さんは2005年に開催されたBE@RBRICK WORLD WIDE TOUR(世界中のアーティストが1000%サイズのBE@RBRICKをキャンバスにした作品展覧会)にも参加されています。南塚さんからご覧になってBE@RBRICKとはアートピースとしてどういう存在だと思われますか?

南塚 以前、赤司社長がBE@RBRICKは、Tシャツのオモチャ版として開発した、とおっしゃっていました。どんなグラフィックも落とし込める可動式のオモチャというコンセプトですね。Tシャツも気軽に着れるアートピースとよく言いますが、BE@RBRICKもその可変性が大きな魅力だと思います。同じ形でも全然違うイメージになる。身近にクリエイティブを楽しむアイテムとして非常によくできていると思います。ヒット商品だというのもよくわかります。

実は、BE@RBRICKが作った土台は、現在のアートシーンに非常に大きい影響力をもっています。KAWSがあれほど大きな存在となった背景には、MEDICOM TOYさんとのコラボレーションがあることは言うまでもありません。

いまアートを買っている世界中のヤングリッチたちは最初おもちゃのコレクションから入った人が非常に多い。限定品を買い集めているうちに、オリジナルの1点ものの作品が欲しくなる──その段階を踏んでアートのコレクターになる人がとても多い。その意味で、BE@RBRICKの功績は非常に大きいと思いますし、間接的かもしれませんが僕も恩恵を受けている感があります。
──ありがとうございます。最後に今後、NANZUKAでは田名網作品をどのように展開されるご予定でしょうか。

南塚 9月にニューヨークのジェフリー・ダイチという伝説的なギャラリーで新作による個展があります。ペインティングは一番大きいもので4×2メートルという大作を含めて7点。それからキャンバスのコラージュ作品が6点、あとは立体作品とドローイング作品という感じで、結構なボリュームになると思います。

ジェフリー・ダイチはまさに僕がやっている「NANZUKA」の先駆者的なギャラリーで、オーナーのジェフリー・ダイチはストリートをハイエンドに昇華して、アートの文脈に置き換えたギャラリストなんです。

90年代以降、バスキアやウォーホルなど、アメリカのストリートアートとポップアートを複合的に再解釈し、2000年代初めにはNYを代表するギャラリーになりました。2010年に、経営危機にあったLAのMOCA(ロサンゼルス現代美術館)の館長を務め、その任期が終わった今、自分のギャラリーを復活させて新たなプログラムを組んでいます。

ジェフリーが手掛けた一番伝説的な展覧会が、2000年にNYで開催された「ストリート・マーケット」ですね。バリー・マッギースティーブ・パワーズトッド・ジェームスの3人がグラフィティに溢れるNYの裏路地を再現した壮大なインスタレーションです。いま、KAWSがアメリカを代表するポップストリートのアーティストとして評価されていますが、その根底にあるのはジェフリーがつくった「アメリカのアートはポップであり、ストリートだ」という文脈に基づいた部分です。
──由緒あるポップアート、ストリートアートの本拠地で展示されるわけですね。

南塚 まさにベストマッチングだと思い、展覧会の話を持ちかけました。あとは既に発表されていますが、いまEXILEの若手グループのGENERATIONS from EXILE TRIBEドームツアーのアートワークをやっています。
──田名網さんがGENERATIONSのアートワークを? それはすごい!

南塚 GENERATIONS from EXILE TRIBEのホームページに、田名網先生の手掛けたロゴタイトルが出ていますので、ご覧になってみてください。HIROさんからは『少年ジャンプ』のようなイメージのグラフィックデザインがほしいというお題がありまして、それに対する田名網先生の一発回答に、デザイナーとしての強度の高さが分かるかと思います。田名網先生の恐ろしいところは、どんな球が来ても打ち返す変幻自在性と、完成したイメージが必ず田名網作品になっていることです。ここが普通のデザイナーとはレベルがまるで違う。アートディレクターとも違う、まさにグラフィックデザインをベースにすることで辿り着いた、現代の究極のアーティスト像だと思います。
「BE@RBRICK 田名網敬一 100% & 400%」は赤と黒の2種展開。メディコム・トイ直営各店舗及びオンラインストア各店、他一部店舗にて2019年8月発売予定・各1万4000円(税別)。
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