特集|OPENERS的ニッポンの女性建築家 Vol.1 乾久美子インタビュー
Vol.1 乾久美子インタビュー (1)
風景を肯定すること
OPENERSでは、2008年に5人の日本の建築家を紹介する「いま世界が注目するニッポンの若手建築家特集」を組んだ。それはインターネットやパーソナルコンピューターが、誰にとっても当たり前なものになり、情報化が高度に進んだゼロ年代の東京という街における現状を、街のかたちをつくる「建築家」という職能をもった彼らの言葉を借りて具現化する試みであった。それはまた、東京という街を、非現実的なバーチャルに根ざしたものではなく、人間の営みのなかからにじみ出るリアリティあるものによって記述する試みでもあった。
テン年代(2010年代)に入って、経済、政治はますます混迷の度合いを深め、人びとの嗜好やファッションの流行は多様化し、世の中は先のみえにくい時代に突入しているように思える。だからこそいまは、前向きに考えれば、つぎの時代に向けたあらたな好ましい転換期を迎えているともいえるのではないだろうか。
今回の建築家特集では、日本の5人の女性建築家を紹介する。いずれも、東京という都市の現状を見据えながら、地方や世界にその視野を広げ、建築家にしかできない方法で、グローバルな活動をされている方々ばかりだ。本特集の5人の建築家の言葉のなかから、これからの東京(=都市)の姿と、OPENERS読者の皆さまにとっての未来のあるべき姿を少しでも浮かびあがらせることができたのなら、幸いである。
インタビュアー、まとめ=加藤孝司
街と風景を優しくつなぐ建築
集合住宅『アパートメントI』や『Dior Ginza』『Louis Vuitton Taipei Building』などの、風景と建築が一体となったような印象的なデザイン。そこにある目にみえないものをひもときながら、空間というかたちで具体化していく乾久美子氏の建築は、街と風景を優しくつないでいく。今回のインタビューでは海外メゾンの店舗のファサードデザインから、建築家からみた日本の都市の現状、最新作まで、じっくりとお話をうかがうことができた。
──建築との出会いを教えてください。
子どものころ、親が週刊新潮という雑誌を読んでいました。いまではもうないのですが、当時ずっとつづいていた連載で「マイプライバシー」というコーナーがありました。そこには住宅の平面図が小さく掲載されていたのですが、それが大好きで、毎週楽しみにしていました。その「マイプライバシー」を見ながら、「間取り」っておもしろいなと思うようになりました。そのページには平面図だけではなく、外観や内観の写真も掲載されていたので、このような間取りではこういうかたちの建物が建つのだなと、間取りの意味を自然と理解していくようになりました。ときどきそれを真似て、平面図を書いたりしていました。
私は末っ子で、そのせいか自分の部屋がなかったんです。姉と兄にはそれぞれ自分の部屋があるのだけど、私は姉の部屋の片隅に仮住まいさせてもらっているような状態で、そのことを子どもながら不本意に思っていました。その気持ちのあらわれなのか、妄想的に、家を建て替えて、自分の部屋をつくることを計画したりしていました。妄想とはいっても、その計画はわりとちゃんとしていて、敷地の寸法をはかってから書いているようなものでした。
そうした計画を何度も練りながら、家を建て替えてほしいようなことを親に言いましたが、さすがにそれは無理ですよと、当然ながら断られました。それで、現状の間取りを検証して、物の入れ替えをすることで物置があくのではないかということを証明することができて、当時物置に使用していたちいさな部屋を手にいれました。
──それはどのくらいの大きさだったのですか?
4畳の部屋でした。狭いです。ベッドと勉強机をいれたらそれでおしまいです。それでも快適な部屋をつくるべく、当時流行していた妹野河童さんの『河童が覗いたトイレまんだら』の影響を受けて、上から俯瞰した部屋の絵をかきつづけながら、部屋の使い勝手などを考えたりしていました。つまりは、家というものを考えることが子どものころから好きだったのです。ただ、建築家という職業があるということは、当然ながら子どものころは知りません。ですので、そのころは建築家になりたいと思っていたわけではありませんでした。
中学・高校のころは、絵を描くことが得意でしたので美術部に属していました。気が早いのですが、高校1年生のときに美術大学に行こうと思いまして、美術系の予備校に通いはじめたんです。どの科に進むのかはよくわからないけれど、とにかく美術大学に行こうと心のなかで決めたわけです。しかし、高校2年生くらいのときに、ハタと、絵の才能がないことに気づいたんです。そのくらいの年齢になると、技術的に絵のうまいひとと、ひとがいいなと思う絵を描くひとの差が見えてくるのです。すると私は前者ではないかと。技術的にはうまいのだけど、絵とはそれだけで成立しているわけではないとわかってしまったのです。美大にいってもこのままでは自分はモノにならん、と落ち込んだわけです。
ちょうどそのころ、美術大学に建築科があることを知りまして、しかもそこには絵の試験があるらしいと。それならいままで磨いた絵の技術を活かせるじゃないかと思いました。そして建築科を受験した次第です。
Vol.1 乾久美子インタビュー (2)
レム・コールハースの出現
──高校は普通科だったのですか?
理系の普通科でした。数学と物理だけは点数がよかったので、先生にも相談したところ、たしかに、それならば建築はいいのではないか、ということになりました。
──当時、身近に建築の仕事をしていた方はいたのですか?
親せきの伯父さんに建築士の方はいますが、そこまで近い存在ではなかった。
──乾さんが小さなころに間取りをデッサンされていたようなものを、伯父さんに見せたり相談したりというようなことはありましたか?
それはないですね。
──その当時描いていた絵を褒められた、ということもないのですか?
ないですね。すごい上手いなあとか、いい間取りだな、と自己採点してひとりで感心していました(笑)。暗い子どもでしたから、わざわざ他人にみせて、ということはしたことはなかったんですよね。いまでも、自分がどういう間取りを描いたかを思い出すことができます。
──それはいまの設計のお仕事に繋がったりしているのですか?
いや、それはないです。当時考えていたのは、オーソドックスな中庭タイプとか、誰でも考えられるような素朴なプランですので、いま思い出してもそれほどおもしろくはないです。
──子どもなりの夢の家、というか、夢の間取りというものですね。
いや、いわゆるファンタジーではないのです。提案としておもしろくはないのですが、ちゃんと現実的なんですよ。つまり、子どもっぽくないことに熱中していたのです。
──そうですね、まず既存の敷地もあってと、そもそもの発想からして実際的でしたね。
そうそう。スケールもありましたし。
──では、いよいよ大学で建築を専門に学ぶようになるわけですが、そこではどのようなことをされていたのですか。
運よく芸大の建築科に入ったわけですが、さすがに小学生のころから間取りを描いていただけあって、クラスのなかでも、設計はまあまあうまいほうなわけです。まとめるのがうまい、ソツのないタイプの学生でした。だけど、高校のときにぶち当たった限界とおなじで、自分はやっぱりうまいだけなんじゃないかと、ハッと、気づいたときがあったんです。たとえば、プランはうまくまとまっているけれど、それが本当にいい建築なのかみたいな。あるいは、これは建築としておもしろいのかと。建築がなんとなくわかりはじめた3年生くらいのときに思い悩むようになりました。
おもしろい建築と、おもしろくない建築というのが世の中にはあって、このまま上手いだけの設計をつづけていくと、どう考えてもおもしろくない建築しかつくれなくなるだろうと思ったんです。そこで、このままではいかんと、反省するんですね。とにかく自分の殻を破ることを考えて、いろいろなものを見る努力をしました。
──実際に見ることは大切ですよね。そのなかで、現在につづく、自分にとって影響を与えたものであったり、ひとであったりするものに出会えましたか。
90年代前半あたりに学部時代を過ごしまして、そのころの建築の主流というのは、バブル経済に影響をうけた建築物が建つ最後の時期で、そんななかで妹島和世さんが作品を発表しはじめた、というような時代です。そんな時代でしたので装飾的な建築が多く、思想的にも、表層的なものがむしろもてはやされるような時代でした。もちろん、いまから考えるとそれはそれでおもしろい建築なのですが、学生の身分からすると、ちょっとついていけないというか、これを真似していてもなあ、というようなものに映りました。当時は心をぐっと捉えるようなものというのが、なんとなく少なく感じる時期だったわけです。
どのような時代をすごすのかというのは、学生にとっては死活問題です。自分は悩んでいるのだけど、その自分を救ってくれるような示唆を与えてくれる建築がないわけですから、下手をすると、設計そのものが嫌いになってしまう。私はかろうじて設計への興味をもちつづけることができましたが、とはいっても、ずっと悶々とした気持ちを抱えたまま学部の残りの日々を過ごし、最終的に、海外留学を決めて、アメリカの東海岸にあるイエール大学にいきました。イエールに在籍したのが92年から96年です。90年代も半ばになってくると、オランダの建築家であるレム・コールハースのOMAの活動が活発になってくるんです。その活動をいろいろ見たり調べたりしていくうちに、ようやく同時代の建築がおもしろいと思えるようになったんです。ちょうどそのころは、OMAのつくり方というのが、建築のつぎの時代を切り開いていった、という時期でした。
──それをアメリカで同時代の出来事として熱狂していたんですね。
その熱狂はアメリカだけではなく、オランダを中心に、日本をふくめて、世界中で興奮していたわけですが、それをたまたまアメリカから見ていたという感じですね。この時代、建築を志している学生であれば誰もがOMAから影響を受けていたと思うのですが、私もそのひとりだったのです。
Vol.1 乾久美子インタビュー (3)
プランニングとプログラム、構造と表層の関係
──そこで、OMAの活動や、世界的な同時代の建築の動向を知っていくなかで、いよいよ、乾さんなりの建築の方法を考えて、構築していくようになったと思うのですが、それはどのように考えていかれたのでしょうか?
そこはなかなか難しくて、学生時代はOMAを知ることで、建築のおもしろさに気づくところで精一杯で、自分なりの建築の方法などまだまだの状態です。そのあと日本に帰ってきて、96年から青木 淳さんの事務所に入りました。青木さんも、その当時のスタッフも当時OMAの考え方に影響を受けておられたので、いろいろとおもしろい議論をしながら、実務の勉強をさせていただきました。青木さんのところでありがたかったのは、OMAだけではない、建築の広がりのようなものを、たくさん教えていただいたことです。
その後、2000年に独立して自分の事務所をはじめました。すると入ってくる仕事が、インテリアや外装など、いわゆる建築のプランニングとは関係のないプログラムのものしかないんですね。ですが、当時、主流だったのはプログラムのことを考えて、そこから建築を構築していくような手法です。その考えは、インテリアや外装といった、建築の機能を解かない建築未満のものには、あまり役立たないんですね。つまり、自分のなかにそれを解くためのツールがない。「突然、インテリアですか……」ということになり、いままで一生懸命考えてきたことがまっさらになるような状態になるわけですよ。
そこでいったん自分の考えを白紙の状態にもどして、インテリアやエクステリアで、いま自分ができることはなんなのか、というようなことを、自分の狭い思考回路のなかで構築していくにはどうすればいいのか、と考えるようになりました。そこから徐々に、オリジナリティというほど強くないのですが、傾向と呼べるようなものが出てきたんじゃないかという気がしています。
具体的にそれがどういうことかというと、いくつかのポイントがあるように思います。インテリアや外装ではほとんどプランニングみたいなものはできない。とくに商業のインテリアになると、どこになにを置くかということはすべて経済の論理でできてしまっている。そこで建築家ができることは、お化粧のような表象のことでしかない場合が多い。そのように「表面だけをいじってください」といわれているような状況で、表面だけを本気で操作する。すると、じつはそうした表層的な操作が、空間の深層の部分まで変えてしまえるかもしれないのではないのか。そういうことを考えてみたのです。
建築を学ぶということ
そういうふうにしてできたのが、『ヨーガンレール丸の内店』です。あの計画ではプランニングはあまり重要ではないのです。そのかわり表面だけに着目して、特殊な手法でぺたぺたと塗ることで、訪れた方々にあたらしい快適さを味わってもらえるような場所になることを考えました。
外装の場合ですと、そもそも外装には機能はなく、表面をどのように見せるかということだけが問題です。そのなかで気をつけなければいけないのが、きれいにつくっておしまいになることです。きれいなものをつくるだけであれば、べつに建築家がやる必要はありません。建築を学ぶこととは、たとえば歴史であったり、都市の問題、コミュニティの問題であったり、さまざまな問題を考えながら建築を考えることを叩き込まれることです。すると、表面をいじるだけでも、都市の問題に対してアプローチする方法はみつけられないだろうか、というようなことを考えてしまうわけです。そうした視点がないものをつくるのは、恥ずかしいという気持ちがあるのです。
たとえば、『Louis Vuitton Taipei Building』という台北にあるファサードを例にしますと、台北は木々の緑がとても多くて気持ちのいい街です。それに対して、ルイ・ヴィトンという存在は、その言葉を聞いただけでなにか具体的なものを思い浮かべることができる記号的なもので、台北の生きた街並みとの接点はありません。ですから、記号的なものをそのまま外装として表現してしまうと、それがつくられる街がもともともっている歴史とか、物理的な細やかさに対して、強すぎるものになってしまいます。それはいかんだろうと。たとえ、ルイ・ヴィトンという強いイメージの店であっても、そこにもともとある街並みのあり方に対して、もっと細やかに反応するようなものはつくれないかな、と思っていました。
ここでやったのは、ダミエという市松模様の四角の大きさをいろいろと変化させることで、遠くから見たときに見えてくるような、大きな市松模様をつくりました。さらに、その大きな市松模様の四角の大きさを変化させ、やわらかくまだら模様をつくることで、周辺環境にある木々のシルエットに似させて、建物の外装が周囲の環境を圧迫することなく、もともとそこにある木々の緑のようにふわっとあらわれるようにしています。
ルイ・ヴィトンがもっている市松模様というパターンを使っているのだけれど、木がもっているシルエットに呼応するようなものになれば、街並みに連続するものになっていくんじゃないかと考えました。そんなふうに、これからつくられるあたらしいものと、そこにある環境とが、どこか一点でいいから、なにか論理的な結びつきみたいなものをつくることを一生懸命考えていたのです。
──それは、表層的なものが多く街中に溢れていた90年代初頭に乾さんが感じたのとおなじような苦悩、つまり10年間さまざまな経験を積み、その後ひとりの建築家として独立してふたたび、表層の問題に対峙したということですね。
ふたつの時代で表層の意味はちがっていると思いますから、あまりそこを結びつけて考えていませんが、結果そういうことになっているのかもしれません。いずれにせよ、たとえ表層の問題を扱っていたとしても建築的な主題を盛り込んでおく、ということを心がけるようになったわけです。
──それは、90年代半ばにOMAを知り、青木 淳さんと出会い、10年間悩みつづけながらも、建築家として都市の問題に向き合ってきたからこそもち得た問題意識だったわけですね。
そうかもしれません。
──たんなる表層の操作だけではなく、街の歴史であったり、建築の歴史を踏まえたうえで、そういくことができるようになってきたということですね。
いまから考えると、果たしてこれが最善の回答だったかは疑問なのですが、とにかく、なにか一点でも街と関係するということが重要だろうと、このころから思っていました。そして、その関係が密になればなるほどいいだろうと、このころは考えながらやっていました。
Vol.1 乾久美子インタビュー (4)
建築のおける秩序について
──以前に乾さんの著書(『そっと建築をおいてみると』 INAX出版)のなかで、そこにある日常に無意識に溶け込んでいる豊かさのような秩序を、建築がもっているおおらかさで表現したい、というようなことを、おっしゃっているのを読んで、なるほど、と思いました。乾さんが考えていらっしゃる、その秩序についてお話いただけますか。
秩序というものはどこにでも見つけることができて、さきほどの『Louis Vuitton Taipei Building』ですと、台北では建物などが集積する姿が混沌としています。そのなかで、うっそうと茂る木々が、街並みにある秩序を与えています。木が在ってはじめて成立する風景だと思い、そこに着目するべきだろうと思いました。
『そっと建築をおいてみると』のなかにもありますが、「片岡台の幼稚園の改装」の場合ですと、最初に改装を依頼された事務室を訪れたとき、いろんなものが雑多に積まれていて、その秩序のなさに閉口しました。一般的な建築家的視点に立つと、その整理のされてないようすに納得ができないのですが、そこで生活している先生方はさして問題に感じることなく過ごしているんですね。しかも、幼稚園という社会性のある活動を問題もなく運営できているわけです。その無秩序と社会性の成立とのあいだにあるギャップに最初驚きました。ですが、目でみえる秩序と、目でみえない秩序というのがあって、おそらく彼らはその目に見えない秩序というものを互いに共有していて、それがなにかうまく物事を動かしているのだろうと思いました。その象徴的なものとして、書類がうずたかく積まれた下に、幼稚園で飼育しているうさぎ小屋があった、ということがありました。
──そのうさぎ、という存在さえ許容してしまう雑然とした空間のなかにある、部外者には一見とりとめのない秩序というのは、いったいなんなのでしょうか。
ひとことでいうならば、体験の共有の蓄積、みたいなものでしょう。そうしたものが目にみえない秩序として、先生方のあいだで共有化されているわけです。その共有化の跡のようなものは、空間のさまざまなところにちりばめられているわけです。書類の下にあるうさぎ小屋をみて、やっぱりそれをきちんと見ないといけないんじゃないかな、という思いがでてきたのです。
いままで建築は、見た目でぱっとわかるような、一元的な秩序に偏りすぎていたんじゃないだろうか、ということに気づいたわけです。たとえば、わかりやすい例をだすと、景観論なんかがそうだと思います。いまはもう流行ってませんが、一時期、電柱や看板などをやり玉にあげていましたね。あれこそ表層的といいますか、ビジュアルのことだけを取りあげて、良い悪いを仕分けしているわけです。しかし、街の秩序というものは、そういうものだけで決まっているのではない。少なくとも日本は一見ぐちゃぐちゃな節操のない都市ですが、しかし、見た目と裏腹に、かなり秩序だって運営されているわけです。そのことをきちんと評価しなくてはいけません。
──人間のルールみたいなものも、まだまだ秩序だっていることが多いですね。
そうですね。そういうものが背景にきちんとあるからだと思うのですが、そのような秩序というものが、さまざまなレイヤーで層になってあることに気づくということが、そこをデザインする人間にとって重要なんじゃないかなと思うんですね。
──でも、デザイナーである以上、自分のかたちを残したいとか、イメージに対する強い気持ちもあると思います。そんなことをふまえて、乾さんの、そこにある風景を肯定する力強さというか、優しさなのか、あるいは、弱さみたいなものというものは、どうやって生まれてくるのでしょうか。
風景を肯定することは、アメリカに行ったことが大きく影響しています。イエール大学があるニューヘブンという街は、それこそ悲惨な街だったんです。大学関係者は学生もふくめ、私立ということもあり、金銭的に問題のない暮らしをしているのですが、大学のあるエリアから一歩外に出ると、廃墟になった建物があたりまえのようにならんでいて、殺人事件が多発しているよう街だったんですね。キャンパス内外を隔てる塀はなく、街に溶け込んでいるようなキャンパスでしたから、どこまでが安全で、どこを出たら危険というような境界線が非常に曖昧だったんです。いまではどうかわかりませんが、当時はほかの州に遊びにいっても、かならず、荒れ果てた感じの街区がありました。その悲惨さを目の当たりにすると、日本はまだまだいいな、それを否定する理由はないよな、と思うようになったのです。
──そういう体験を経て、まず、そこにある風景を肯定的に見てみようと。
そうですね。話はとびますが、世界中を旅してまわりながら、アフリカなどの土地で農業を体験してまわっていた方の本を読んだことがあるのですが、その方が旅の途中で気づいたのは、日本はとてつもなく肥沃な土地だ、ということなのです。日本ではとりあえずどこにでも植物を植えることができるわけで、それは、私たちにとっては当たり前のことです。先ほどの話はそれに結構近くて、そんな日本の風土を否定する必要はまったくない。そんな感じですね。
Vol.1 乾久美子インタビュー (5)
建築家として風景とかかわっていく方法
──多分、僕らは些細な日常を積み重ねて、それを自分の暮らしに結びつけながら、都市とか、建築とか言っているのに、どうも近ごろ、都市とか、建築がそこに暮らしているわれわれからは遠いものになっているような気がしています。僕は昭和40年生まれなのですが、かつては都市というか街というのは自分がそこにアプローチしていけば、どんどん意味が広がっていくようなそんなイメージをもっていたのですが、どうやらいまではあまりそうも感じられない。建築も、自分の日常の延長のなかにあったように思っていたのですが、古くて良いものが、再開発を理由にどんどん壊されていってしまう風景をみて、それは建築個々の問題とはちがうのかもしれないのですが、それはなんなのかなあと、ずーっと考えていました。
都市も、建築も遠いイメージのものになっていると。そうかもしれませんね。かつてのスラムクリアランスではなく、問題のない場所までどんどん改変されるのをみていると、都市は誰かに荒らされている、という印象を覚えても不思議ではありません。都市の経歴というか歴史の重みよりも、経済のほうが強くなっている状況は、誰にとっても不幸だと思います。
──そういった現状に対して、ひとりの建築家として切り込んでいくための手だてを考えることはありますか。
不動産開発という経済活動はあまりに巨大で、いままではひとりの建築家としては太刀打ちできない問題として、あきらめみたいな感じがあったんです。つまり、個人の建築家がそれに対してなにができるかといえば、ちょっと無理かなという気持ちだったのです。ですから、その問題に対して自分がなにかを考えることは半ば放棄していました。ただ、ここ2~3年、日本の企業活動が疲弊してきていますね。
──経済も人口も縮小してきていますね。
そのことを諸手をあげてよろこぶべきではありませんが、社会の仕組みが抜本的に変わるチャンスというか、つぎの一手を考えるタイミングなんだなと思っています。具体的に自分がいま、なにをするかはわからないのですが、戦後経済が成長していくなかで、失ってしまったものを取り戻すためのいい時期なのではないかと思っています。
Vol.1 乾久美子インタビュー (6)
建築とメディアの関係
──僕たち書く側の責任でもあると思うのですが、日本の都市や経済の衰退と合わせるようにメディアの衰退もいわれて久しいです。建築とメディア、というか建築と批評の関係は、戦後の建築界を振り返っても、互いを鼓舞しあうような良い関係性をもっていました。そのへんはどのようにお考えですか。
それはとても大切なことだと思います。建築にはいまだ、それなりに批評のようなものが成立していて、批評という存在をとおして世代を越えたコミュニケーションが成立しています。たとえば伊東豊雄さんの作品に対して、20代から80代ぐらいまでの方々がよろこんだり、反感をもったりとなにかしら興奮し、議論をすることができるわけです。それに対して、比較論になるのですが、聞いたところによると、たとえば、現代美術にはその世代間のコミュニケーションがほとんど成立していないらしいのです。現代美術というジャンルが拡散しすぎていたり、マーケットが強すぎるからか、批評そのものが成立しにくくなっているからなのでしょうか。
建築というものはもうすこしオーソドックスなもので、どのような建築にも共通してやらなきゃいけないことがある。そうした意味で建築は批評という場を強固に保ちつづけることができるのだと思います。つまり、まだまだ良いほうだと思うのです。ただ、建築が向かう方向性はさまざまに拡散しつつあって、そのことで批評のようなものが成立しにくいような状況はあるのかもしれません。
──僕が思うのは建築というものの一方に建築学といわれるものがあって、それはもちろん僕たちも学ぶべきもので、街や都市に暮らす以上知っていたほうがいい大切なものだと思うのですが、建築がある風景が人びとの暮らしの日常の積み重ねの先にある、もう少し身近なものであってもいいのになあ、と考えることがあります。
そうですね。どちらも重要なのです。そのふたつをバランスさせることが大切で、そして難しいのです。どの学問もそうだと思うのですが、この20年ほどで、いろんな学問が急速に高度化しているように思います。そのようななかで、専門家以外の市民が置いてきぼりになっている気持ちになっていると思うんです。医学でも、経済学でもなんでもそうなのではないでしょうか。
建築学でいうと、一般のユーザーがわからないぐらいに高度化していると思います。安全に、快適にという方向を突き詰めていったために、簡単な説明では理解することが不可能なほど高性能な建築ができてしまった。専門家の視点からすると「なんの問題もないですから、気にせず、安心して使ってください」となるのだけど、使う側からすると、「本当かしら」という疑念がわくわけです。医療などでもおなじことがおこっていますね。その疑念を放置しておくと、いつかは不満が爆発します。そのときに大切になるのが、当たり前なのですが、わかりやすく伝達する時間と努力です。たとえばワークショップのようなものは、その方法のひとつでしょう。
──そのへんに理由があるとすれば、建築が機能も見えがかりもハイテクになりすぎてしまって、僕たちの理解を超えてしまったところにすでにある。デザイナーやデベロッパーの側からの説明不足もあると思うのですが、かたや、それを伝えるべきメディア側の問題もあると、自戒をこめて僕は思っています。建築はうまくつきあうことができれば、誰の暮らしにも有益になるものだけに、伝えるということにこだわっていきたいですね。
本当に難しいですね。土建国家とか、ハコモノ行政という言葉があるように、建設というものは政治に直結しています。そうした視点から建築をつくること自体に悪という考え方や、あたらしく建てるということ自体にウンザリしているひとも多いというのも私の実感としてあります。そのなかで、どうやって建築の純粋な楽しさやすばらしさをつくりだし、伝えるかは建築家としての課題ですね。
Vol.1 乾久美子インタビュー (7)
東京とそれ以外の街
──それでは少し明るい話題を……
いや、これは別に暗い話題ではないんですよ。この話は一見暗いようにみえて、要するに、建築はいま、なにやら嫌われモノの立場に置かれているけど、これ以上嫌われることはないんじゃないかというところがあって(笑)、底が見えたという明るさがあるのです。いままでのレベルの配慮ではもうだめで、つぎに行くためのさらなるアイデアの力とか、体力とか、胆力のようなものが必要なのです。そのことがはっきりした、というだけの話なのです。物事がはっきりしてきたぞ、と明るい気持ちになっていいのです。
──では(笑)、先日プロポザールで勝利された共愛学園前橋国際大学4号館についてお聞かせください。
2千平米くらいの大きさの、プログラムとしては学生食堂を中心としたコミュニケーションの場と、メディアセンターや自習スペースなどのラーニングの場という、ふたつの機能をもった建物です。上からみると、5つの建物に分かれたようなかたちをしています。ひとつひとつの建物は帯状で、なかには壁が立っているだけです。そうしたものがよせ集まっているという建物です。そしてよせ集まることで、必要面積から割り出される偶発的な壁柱の配置によって、平面でみるとあみだくじのように、向かいあった部屋同士の関係が多様化します。
すると向かいあった部屋同士にいくつかの繋がり方の選択が生まれ,大きな部屋になったり、小さな部屋になったり、おなじ空間なのに、部屋同士の関係性によってそのたびごとにあたらしい空間が生まれてくるような計画になっています。
そのように、ひとつの空間をフレキシブルに使い分けることを、大学側は「重ねづかい」というユニークな名前で呼んでおられます。それはコンペ段階からあったもので、大学の先生方が考えられたのですが、そのアイデアそのものがとてもおもしろいのです。予算は潤沢にあるわけではありませんが、大学側としてはやりたいプログラムをたくさんもっている。それを解決する方法として、いま言ったような「重ねづかい」をしようとしているのです。もともと概念でしかなかった「重ねづかい」というものに、なんとか形を与えようとしたのが私たちの提案なのですが、一風変わったフレキシビリティみたいなものを全体で生み出そうとしているわけです。
それとキリスト教主義の学校なので、トップライトから降り注ぐ光や大階段、壁と床の重なりによって十字架のモチーフを浮かびあがらせたりと、キリスト教的な精神が自然とあらわれるようなものを目指しています。
──今後チャレンジしてみたことはありますか。
建築のことだけで頭がいっぱいです。建築家として、事務所の規模を大きくしていくことが目標ではないのですが、ただ、規模が大きくなると必ずあたらしい視点というものを得ることができますから、ある程度の規模のものまで考えてみたい気持ちはあります。
──では最後に、乾さんの東京観を教えてください。東京みたいな大きな都市ですと、建物にかんしていえば、もうつくらなくていいというくらいにたくさんあります。ですが、戦後65年経って、確実に一世代まわってきて、たとえば学校建築にしても物理的な建て替えの時期を迎えています。これには歴史的な建物の保存の問題など、デリケートな問題をたくさんふくんでいますが、いかがお考えですか。
東京の好きなところは、街並みがとても小さく細分化されて、履歴のようなものとしてバラかまれていることです。巨大なビルの横に木造の一軒家の集落が建っているような風景にはいつも驚きます。東京は碁盤の目状の街並みではないので、思わぬ角度から思わぬ風景がみえてくるような体験が永遠につづくイメージです。私の生まれた大阪は碁盤の目状ですから、もっと整然としているわけです。
──たしかにひと昔まえに僕たちが描いた21世紀の都市像というのは、超高層ビルが建ち並び、カプセルのなかに入った人びとが空中を移動するような風景です。しかし、実際の21世紀の街並みは、乾さんがおっしゃったように、夢に描いた超高層ビル群のある風景と昭和な木造建物や、猥雑な立て看板とが共存した風景ですね。
「東京」だけを取り出して考えることに、じつは、私はあまり意味を見いだせないのです。反対に、日本全国を見わたしながら地方と都市の関係を考えるようなことを、建築や都市問題の専門家だけでなく、もう少し広い範囲で議論していかないといけない時期にあるんじゃないかと思います。いま地方は大変です。悲惨な状況にあると思います。東京はこの先何十年かは、ほうっておいても富みが集まる場所でありつづけるでしょうから、そういう意味では東京はこれ以上考えなくてもなんとかなるとは思うのですが、そうではないほかの場所のほうが、いまは気になりつつあります。
──現実問題として、東京とそれ以外の街をどう繋いでいくかという問題ですよね。
そろそろそういうことを、私も、考えるべき時期なのかと思っています。
──今日はどうもありがとうございました。
乾久美子|INUI Kumiko
1969年 大阪生まれ。1992年 東京藝術大学美術学部卒業。1995年 イエール大学大学院建築学部修了。同年より青木 淳建築設計事務所勤務。2000年 乾久美子建築設計事務所設立。主な作品に、『ヨーガンレール丸の内』(2003年)、『Dior Ginza』(2004年)、『Louis Vuitton Taipei Building』(2006年)、『アパートメントI』(2007年)、『フラワーショップH』(2009年)。『スモールハウスH』(2009年)、『TASAKI銀座本店』(2010年)。2008年 新建築賞受賞。
http://www.inuiuni.com