特集|OPENERS的ニッポンの女性建築家 Vol.2 大西麻貴インタビュー
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2015年3月6日

特集|OPENERS的ニッポンの女性建築家 Vol.2 大西麻貴インタビュー

Vol.2 大西麻貴インタビュー (1)

繋がる建築の未来

建築とは、その設計を通して、街とひとと建築家とを繋ぎ、ひとりでは描けない夢や、かかえきれないような思いを共有するプラットフォームである。学生時代から数々の賞を受賞するなど、近年活躍がめざましい若手建築家のなかでも、いまもっとも注目を集める建築家のひとり、大西麻貴氏。大学在籍中に手がけたいくつかのインスタレーション、最近着工したばかりの初の住宅作品について、そしてこれからの時代の都市開発のあり方について話を聞いた。

インタビュアー、まとめ=加藤孝司

建築を志したきっかけ

──現在、ご自身の設計活動をしながら、大学の博士過程にも在籍中と聞きました。

はい。でも最近は、ほぼ設計活動に専念しています。

──ご自身の設計活動と大学での活動ということで、たんに個人の設計事務所を運営しているのとは少しちがう、活動の幅のようなものがあると思うのですが、いかがですか。

私の場合は、修士のときにいくつか実現を前提としたプロジェクトにかかわる機会がありました。建築というのはひとつの建物が建つまでに一年、二年と、どうしてもひとつひとつのスパンが長くなります。修士を出てから就職したいとも考えたのですが、辞めるタイミングを逃してしまいました。いまは藤井 明先生の研究室に在籍しています。もともと博士課程に在籍しながら自身の設計活動をはじめる先輩方が多く、また、先生のお人柄もあって、自由に好きなことに取り組める研究室だと思います。その環境に後押しされて、活動をつづけることができています。

──建築を学ぶ環境として恵まれていたのですね。

はい。最近、京都大学の友人とはじめた嵯峨嵐山のリサーチ活動なども、大学にいなければ挑戦してみようと思わなかったかもしれません。まだはじまったばかりの活動ですが。

大西麻貴|建築家 01

『千ヶ滝の別荘』 (2008年・百田有希と共同設計)

──建築を志したきっかけを教えてください。

じつは建築学科に進みたいと思ったのは、ものづくりをしたいという漠然とした気持ちがきっかけでした。実際、設計を学びはじめてからのほうが、それまで想像していたよりも何倍も楽しくて、こんなにおもしろいことが世の中にあったのだと感動したくらいです。

──大学で学んでいるあいだにそう思うようになったんですね。

そうです。はじめは、なにがなんでも建築というわけではなかったように思います。

──ものづくりといっても、工業製品であったり、クラフトやファッションであったり、いろいろあると思うのですが、建築を選んだのはなぜでしょうか。

そうですよね。なぜでしょうか(笑)。

──いま、建築家を志す女性が増えていると思います。僕の偏見かもしれませんが、建築って、どちらかというと男の世界という荒々しいイメージがあります。

とはいえ、中学生くらいのときから、漠然とではありますが、建築の道に進もうとは思っていたんです。でも、それにはこれといった明確な理由があったわけではありませんでした。絵を描くことや、美術が得意というわけでもありませんし。

Vol.2 大西麻貴インタビュー (2)

大学時代の京都で感じた、日々の行事や、暮らし

──ご出身はどちらですか?

名古屋市内です。東山動物園などが近いです。

──あの辺りは駅前や栄といった都心部の大きな規模の建物が建ちならぶエリアとは異なり、比較的小さなスケールの住宅がつづくヒューマンスケールが心地よい街ですね。また、大きな幹線道路が東西に何本も通っているせいか、都心と郊外という大きな建物があるエリアに向かってある連続性をもちながらゆるやかに繋がっていく、その中間のエリアという印象があります。そのような比較的小さなスケールの居心地のよい街で生まれ育ったことが、現在の建築家への道に繋がっているのかなと想像しますが、いかがですか?

不思議と建築を考えはじめたときから、いまおっしゃったような小さな建築や住宅というよりも、なにか長い時間を経たカテドラルや、神殿、大伽藍のような、巨大で、かつ人間という存在を超えたスケールをもつ建築に惹かれているんです。住宅がつくりたくて建築の道に進んだというよりも、建築でしかなし得ないような巨大なものをつくりたいというイメージがありました。

──それは意外ですね。では、いずれそういった巨大なスケールのものをつくりたいと。

つくりたいです。この世界のなかで、建築を通してのみ表現できるスケールを、生み出してみたいと思っています。

──大学生時代は京都で過ごされたそうですが、京都を選んだ理由は?

大西麻貴|建築家 02

『地層のフォリー』 (2008年・百田有希、小川勇樹、熊澤智広、南方雄貴と共同設計)

京都って、街そのものにとても魅力がありますよね。ですから、まずは京都に行ってみたいという気持ちがありました。私は京都にとって外国人のようなものですから、京都という街に対して、過剰に「古都」をイメージしていたのですが、訪れてみると意外と大きなビルもたくさん建っていて、最初は京都も普通の街に近いのかな? と思いました。でもしばらく暮らしていると、日々の行事や、暮らしを通じて、京都のひとたちが季節の移り変わりをどのように感じとろうとしているかといった、細かな心くばりみたいなものがだんだんと見えてきて、「ああ、やっぱり京都だ」と思える瞬間があるんですね。それは住んでみないとわからないことだなとつくづく思いました。たった4年ですけれど。

──名古屋からみて、京都は東京と比べて物理的な距離が近いということもあると思うのですが、なぜ東京ではなく、京都だったのでしょうか。東京の人間として気になります。

京都の街や、お寺が好きだったということもあり、京都という街の魅力に惹かれました。古いものとあたらしいものがうまく共存しているところとか、歴史のあるものが上手に受け継がれているところとか。それに、実際に行ってみて、京都は学生に優しい街だと思います。

──京都で過ごした大学生時代の4年間は、大西さんの建築観にさまざまな点で影響を及ぼしているようですね。

私の人生のなかで、はじめて京都でひとり暮らしをはじめて、自転車さえあれば街の隅々まで行けることもあって、ほとんど毎日お寺へ行ったり古本屋さんをめぐったりしていました。じつはすでに東京で暮らしている時間のほうが、京都で暮らしていた時間よりも長いのですが、東京の全体というのはいまだに把握できていません。京都はほとんど自転車でまわっていましたので、だいたいわかります。建築を学びはじめた時期に京都にいられたことをとても幸せに思います。


Vol.2 大西麻貴インタビュー (3)

建築家が街と共有すべきもの

──建築の世界だと、学生時代の活動が社会的にもメディア的にも注目を集めるといったことがあります。大西さんも学生時代から注目を集めていた方のおひとりだと思います。

学生時代には、共同設計者の百田有希さんと一緒に知人の別荘の計画などをしていました。それと、当時九州の大学院生だった仲間と5人で福岡の公園にフォリーをつくりました。そのときは建築家の伊東豊雄さんと、矢作昌生さん、構造設計家の新谷眞人さんにいろいろと教えていただきました。

──そういった意味でもこれまでのさまざまな経験や、学生時代に出会った人びと、実際にかかわったプロジェクトなどをつうじて、現在の大西さんのスタイルがかたちづくられてきたと思うのですが、そのなかでも影響をうけた方はいますか。

やはり、伊東豊雄さんと、京都大学で教わった竹山聖先生にとても影響を受けています。

──それは具体的にはどういったところですか。

大西麻貴|建築家 03

『都市の中のけもの、屋根、山脈』 (2008年・多摩美術大学長谷川ゼミ企画展ダブルクロノス展インスタレーション)

伊東さんは私が大学2年生のときに非常勤でいらしていました。語る言葉がものすごく力強かったのを覚えています。当時私は生意気な学生だったので、伊東さんに、「昔のお寺やカテドラルのように、何百人の人びとの思いと、何十年という時をかけてつくった建築に敵(かな)う建築を、いまつくることができるのか」というような質問をしたら、伊東さんが、「いまの時代だからこそできる建築が必ずあるんだ」と力強く話してくださいました。伊東さんが話をすると、私をふくめそのまわりにいるひと全員が、おなじ方向にむかってまとまっていくのです。建築家はこうやってまわりの人びとを巻き込みながら、おなじ夢をみることができる職業なんだということを目の当たりにし、考え方が大きく変わりました。

──僕たちが思いもしないようなすごい体験や仕事をされている方の言葉には、一瞬ではつかみづらいかもしれないけど、こちらがそれについて考えていけばいくほど言葉の意味が広がっていくような深い言葉がありますね。

京都でのかかわりでいうと、お寺の和尚さまにお話をうかがいにいくと、現代建築について、否定的な意見をもっておられることが多いのです。でも、そうした和尚さまが住んでおられるお寺というのはたいてい誰の目からみても豊かで、そうしたところに住むことが日常になっている方々に私たちがこれからつくろうとしているものの良さとか、必然性をどうやって伝えられるのだろうかと悩んでいました。いつになるかわからないのですが、そういう方々にも、これだったらいいなと思ってもらえるような建築をつくりたいと思っています。

──そのことは、自分のお母さんのような、建築学をわからないようなひとにもよろこんでもらえるような建築をつくりたい、という大西さんの建築に対する考え方と繋がりますね。

そうですね。たとえば、奇抜な住宅は飽きやすい、と言われます。奇抜なものをつくろうとは決して思いませんが、でも私は、住宅だからこそ、たとえそれが見たことのない空間であっても、多くのひとがそこに住まうことをより具体的に想像できるのではないかと思うのです。たとえばここにコップがひとつありますが、「コップの中に自分が1/100の大きさになって住むということを考えてください」と言われれば、おばあちゃんでも子どもでも、どんなハシゴをかけて、スラブをかけて、どこをベッドルームにしようか、と考えられるのではないでしょうか。そのような暮らし方を、普段なかなか考える機会がないけれど、きっかけさえあれば、多くのひとが想像できることだと思います。まだ発見できていないけれど、あたらしく、そして豊かな住まい方をお施主さんと一緒に発見していくことができれば、一番幸せです。そんなふうに、誰もが気がついていないだけで、じつはとてもあたらしいし、豊かだ、という建築的な発見を、住宅だけでなく、もっと大きな図書館とか美術館などの公共建築にまで広げていくことができればいいなと思っています。

──まさにおっしゃる通りで、家であっても街であって、なにかしらのイメージや感情移入する方法を互いが共有することで、その対象やつくり手とユーザー双方が共有するものは、ぐんと広がっていくように思います。

そうですね。嵐山のプロジェクトもそうなのですが、最初は提案してやろうという意気込みだったのですが、それはとてもおこがましかったんです、やっぱり(笑)。その場所については当然ながらそこに実際に住んでいる方のほうがいろいろご存知ですし、そこでいろんな方とお話すればするほど、もっと誠実にやらなければいけない、と思います。

──でも僕も浅草に住んでいると、自分が狭い情報しか知ろうとしないところがあるので、外部のひとからの視点というのが、自分の街を考えるうえでとても参考になります。ですので、ましてや建築や都市についての専門家からの意見はとてもうれしいと思いますよ。

私が建築をやっているひとがいいなと思うのは、鳥瞰的な視点と身近な視点とをわりと自由に行き来できることです。たんに建物を設計したり、イベントを企画したり、リサーチする以外に、そういった身近なものから少しひいてみて、街の構造や成り立ちといった鳥瞰的な視点をもつことが重要だと思います。

Vol.2 大西麻貴インタビュー (4)

繋がるネットワーク

──大西さんは建築家として、鳥瞰的な視点と身近な視点という対比的な視点はいつごろから意識するようになりましたか?

設計をするひとなら誰でも、空間のシークエンスといった、内部空間的な視点と、図面を見たり、コンセプトを考えたりする俯瞰的な視点の両方をもちあわせているように思います。ですので、設計をしながら自然に得た感覚だと感じています。

話は変わりますが、以前美術館の仕事で東京の木場に、ほぼ毎日通っていたことがあります。地下鉄の駅から外に出ると大きな幹線道路があって、とても蒸し暑いのですが、一本裏手の下町らしい細い路地に入ると、すうっと気持ちのよい風が吹いてきて涼しいのです。そんなとき、昔木場にはその名前のとおり貯木場として整備された大きな池がいくつもつくられていたことを知りました。また、その池を繋ぐように水路が町中に張り巡らされていて、そこにしかない魅力的な風景をつくっていました。

あるときふと、この町には3つのネットワークがあることに気づきました。ひとつは幹線道路のネットワーク、もうひとつは昔ながらの細い路地のある下町らしいネットワーク、そしてもうひとつは水路のネットワークです。幹線道路沿いには経済の論理によって高層マンションが建ちならんでいます。下町らしいエリアには、小さな家々や飲食店、あたらしいギャラリー、ショップなどができはじめていて、町の力強い営みを感じることができました。水路のネットワークは現在一部を残し、分断されたり、埋めもどされたりと、その影をひそめています。この水路のネットワークを復活し、たとえば東京都立現代美術館と清澄白河の辺りに点在するギャラリーを繋いだら、ここにしかない景色が生まれるんじゃないか。何度もその町に通いながら、そんなことを想像したことがあります。

──街を歩きながら、小さな発見を積み重ねていくと、あるときそのいくつかが、鳥瞰的にふっとつながる瞬間があります。そういう思考の仕方そのものが建築家にとって特徴的なものなのかなと思うのですが、いかがでしょうか。

でも、それはまさに物理的にもそうですが、時間もそうですよね。いまこの瞬間から考えて、未来を考えたり、イメージのなかで過去を参照してみたりする。それがある種優れた建築家がもった職能なのかな、と思いますね。

──大西さんのような、その土地に対する嗅覚がとても優れた方が将来、都市計画をされたら、まったくあたらしい街ができるようになるかもしれませんね。木場の辺りというのは、いまのように美術館やギャラリーができる以前、同潤会の古いアパートメントが建ちならぶ近代的な下町らしさの残るエリアでした。どうしてもいまの時代ですと、都市開発というと、マンションが建ってショッピングセンターができてと、都心、郊外の区別なくすぐに郊外型の開発になってしまうイメージがあります。経済も建築もすべてが縮小傾向といわれている現在、都市や建築ももう少しヒューマンスケールな開発ができないかな、と想像することがあります。その土地にもともとあった記憶のようなものに、もっと我われは意識的になったほうがいいと思うのですが。大西さんはどのように考えますか。

大西麻貴|建築家 04

『都市の中のけもの、屋根、山脈』 (2008年・多摩美術大学長谷川ゼミ企画展ダブルクロノス展インスタレーション)

そうですね。いまおっしゃったような開発というのは、上からどっと降ってくるようなものですよね。それに対して私のような存在がなにをできるのかということはまだまだわからないのですけれど……。しかし私はやはりひとつの建築や、ひとつの活動から出発したいと思います。ひとつひとつの活動を積み重ね、それぞれをネットワークで繋ぎながら、鳥瞰的な視点にたってそこに構造を見出すこと。それは既存のネットワークに、異なる視点をもたらすこともふくまれます。ただ優しいだけではなくて、内発的なものと、構造的なものがうまく結びついた街づくりができたらいいな、と思います。

──そのとき大切になってくるのが、いまそこにいるひとたちとかかわりながら、ということですよね。

はい。でも難しいですよね。それよりももっと早いスピードで都市は郊外化していってしまうわけですから。それにどう対応していくかがとても難しいです。どう思いますか?

──たしかに難しいですね。住民の意識としてなにを求めているかで方向性が決まっていくところがありますから。たとえば、僕が住んでいるのは浅草という下町エリアなんですが、80年代から90年代にかけて、下町は田舎だなんて意識をもちながらも、浅草こそが都心だなんて変な気分をもっていた時期がありました。そこでよく口癖のように言っていたのは、浅草にはデニーズもガストもない、それがあるのは郊外だ、ということです(笑)。

ですが、いまでは浅草の街のど真ん中にデニーズが2軒もあります。それは経済の論理でただ向こうからやってきたのではなくて、ある意味、そこに住む住民が求めているんですね。浅草は観光の町だから、訪れてきたひとからしてもそういった施設が居心地がいいというのもあるのですが、地元の人間も便利なものを求めているからなんですね。100円ショップやコンビニエンスストアがどの街にもあるのは、それが必要とされているからです。もう僕らはそれなしでは生活できない、というところまできているところがあります。

情報化社会が高度に進行していて、文字通り価値観が多様化している現代ではすべてが拡散傾向で、それを物理的に束ねることも建築家個人では難しいことも充分承知していますが。都市開発もふくめ、大きな物語が描きにくくなったと言われるようになって久しいのですが、インターネットでのツイッターのつぶやきのように、そこに小さくても物語を描けるのであれば、その小さな物語の繋がりが大切だと思っています。

繋がりや、ネットワークはとても気になります。いまの私たちにはひとつ与えられたものを一番豊かに、一番美しく、一番大切につくろうと努力することしかできないのですが、それらがいくつか集まることができれば、そのあいだにネットワークが生まれます。ただ群発的にやっているとそこで終わってしまいますが、その繋がりまでデザインできるとおそらく少しずつ街や、都市全体を変えることができるのではないでしょうか。そこに建築家としての構造的な視点が必要になってくると思います。

──その構造的なものというのはどのようにできてくるのですか。

それは場合によって異なると思いますが、街の既存のネットワークに意識的であること、そこにあらたな活動を起こすことによってそのネットワークをどのように変化させるのか、についてつねに考えたいと思っています。

──建築を手がける建築家でありながら、かたやミュージアムでのインスタレーションを手がけるアーティストのようなふるまいを求められることもあるかと思いますが、そういう難しさとかはあったりしますか。

インスタレーションをするときは、できる限り実験的でありたいと思っています。

──それは実際の建築にフィードバックする実験ですか?

そうですね。たとえば、スチレンペーパーという普段構造体としては使われないものを構造体として使ってみたり、落ち葉を作品に貼るというものすごくヴァナキュラー(風土に適した)なことをしてみたり。普段建築をつくりながら迷っていることを表現してみる場だと思っています。

Vol.2 大西麻貴インタビュー (5)

二重螺旋の家について

──最近着工したばかりの初の住宅作品についてお教えください。

東京の谷中に計画中の住宅です。お施主さんは30代の若いご夫婦で、小さなお子さんがふたりいらっしゃいます。ご夫婦の「ギャラリーのような家をつくりたい」という言葉から設計がはじまりました。敷地が旗竿敷地であったため、路地からはじまった廊下がそのまま家にぐるぐると巻きつく構成となっています。廊下は幅や勾配を変えながら、ギャラリーや図書室、ちょっとした勉強スペースとなります。

中心には生活に最低限必要な機能が配置されるホワイトキューブの空間、そのまわりに巻きつく廊下は、谷中の路地のような、たとえば植木鉢を置いたり、絵をピンナップしたり、その場所にモノが付加さることによってより魅力的になる空間としています。廊下の部分は、屋内だけでなく、屋根の上もテラスとして使われるため、空間の構成として、屋内の螺旋、屋外の螺旋の二重の螺旋の空間が絡み合っています。それが「二重螺旋の家」という名前の由来です。

この土地は、もともとまわりの敷地をふくむもっと大きな土地だったものが切り売りされて、生まれた土地です。いまは空地になっている場所にも将来全部建物が建って、外観のない家になることが予想されます。ご覧のとおり、この家は全体像がとても特徴的なかたちをしていますが、同時にこの家の、廊下があって部屋があってまた階段へとつづいていく……という空間構成は、とても内部空間的だと考えることができます。

この家を考えているとき思い浮かべていたのが、フランスの小説家マルセル・プルーストの『失われていた時を求めて』という小説にある、主人公が一杯の紅茶を飲むことで、幼いころ過ごしていた場所の記憶が蘇るという一節です。そのときの空間の思い出し方というのは、かつて過ごしていた家の総体が一気に思い出されるのではなく、まずひとつの部屋が、そして町の広場が、空の色が、通りが、という順番で、まるで舞台装置のように、すべての空間がずるずると繋がって出てくるのです。そうして考えると、この家の内部空間の構成は、まるで記憶のなかに蘇る空間をそのまま立ち上げたような家、といえないでしょうか。

──まさにこの家についての大西さんのお話をきいていて、まだ実際には見て体験していないこの家の空間というのが、あたかもプルスートの小説のなかの登場人物の体験のように目の前に鮮やかに広がってきました。それは夢を思い出すことのように、まずディテールを思い出して、それがやがて全体に繋がっていく、というような作業に似ていて、建築っておもしろいなあ(笑)と思いました。

私の解釈があっているのかはわからないのですが、その文章を読みながら、私にはまさに、一杯の紅茶から空間がずるずると引き出されてくるのが見えたような気がしたんですね。そういうイメージに今回の家は近いです。

──螺旋にするということには、構造的なこと以外にどのような物語がありましたか。

大西麻貴|建築家 05

『二重螺旋の家』 (百田有希と共同設計)

路地のついた土地、という敷地のありかたに大きく影響されています。はじめてこの敷地を見たときに、将来周囲がほかの住宅に囲まれるということを考えると、ユートピア的というか、秘密の花園のような、閉じられた場所であると思いました。と同時に、路地がついていて、前面道路の延長のようでもあり、連続的なイメージももちあわせている不思議な場所でした。ですので、コアとなるホワイトキューブはものすごく閉じた空間なのですが、同時に廊下の部分は谷中の路地のように町に繋がっていく、という両方の性格をもった住宅にできたらいいなと、思っていました。

──なんとなく無限につづいていく音楽の旋律を思い出させるかたちをしていますね。

そうですね、螺旋状に上がっていく廊下の終点をどう設計するかというのはものすごく悩やみました。細かい話なのですが、設計のとき、私はだいたいまずはじめにすごくごちゃごちゃした雑多なイメージから出発し、それをスタディする過程で少しずつシンプルにそぎ落としてしていくのですが、いつもどのくらいまで抽象化するか悩むんです。学生のころに手がけた千ヶ滝の別荘も、最初は全然かわいらしくない、縄文的なかたちをしています。自分では「かわいらしいフクロウのような模型ができた」とよろこんでいたのですが、先生のところにもっていったら「里芋のようだ」と一蹴されました(笑)。そしてこれはもっと抽象化しなければならないと思って、いろいろな要素を削ぎ落としていって、最終形のようなかたちになりました。二重螺旋の家にしても最初はもう少し複雑なイメージからはじまっていて、それを整理しつつ、必要でない要素は削っています。毎回それをどこまでやるのかというのは迷います。ルールを決めて、できる限り説明ができるようにつくっていきます。

──初の実施プロジェクトということで、二重螺旋の家にかんしては先日地鎮祭がおこなわれたとうかがいました。建築家としてこれからどんどんあたらしい経験をされていくと思いますが、現在の心境は、建築家としての意識に変化はありますか。

そうですね。やっぱりすごくうれしいですね。地鎮祭のときは本当に建つんだと思って感動しました。同時に気も引き締まりました。

──竣工はいつごろになりますか?

来年の2月か3月くらいの予定です。

──今後のご活躍を楽しみにしています。今日はどうもありがとうございました。

(2010年9月14日代々木上原にて)

大西麻貴|建築家 006

Photo by Kato Takashi

大西麻貴|ONISHI Maki
1983年 愛知生まれ。2006年 京都大学工学部建築学科卒業。2008年 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。2008年 同大学博士課程在籍中に百田有希とともに、大西麻貴+百田有希建築設計事務所設立。主な作品に、「千ヶ滝の別荘」、「地層のフォリー」(2008年・共同設計)、「都市の中のけもの、屋根、山脈」(2008年・多摩美術大学長谷川ゼミ企画展ダブルクロノス展インスタレーション)、「PUBLIC ‘SPACE’ PROJECT 夢の中の洞窟」(2009年・東京現代美術館)。
http://oaharchi.exblog.jp/

           
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