第2回 オリエンタリズムに彩られたテーブルウェアたち
Design
2015年5月15日

第2回 オリエンタリズムに彩られたテーブルウェアたち

text by KANAZAWA Ariadnaphoto by Jamandfixedit by TAKEISHI Yasuhiro

ジェイドカラーの由来

1994年のニューヨークにおける出合い以来、ミルクグラスの虜となった私は、その歴史を辿るうちに歴史書をひも解くような興奮や深まる謎への探究心を覚え、収集するたびにそれが何であるのか、どんな時代背景をもとに製造されたのかを整理するべく、さまざまなデータと格闘するようになりました。そして年に数回アメリカ各地で開催されるグラスショー(グラス関連ならなんでもあり)に出向き、各地のディーラーやコレクターと親交を深めていったのです。

最初は皆、ロシア語が母国語の私を不思議がっているように思いましたが、本当は“ミルクグラスについて質問を浴びせる東京から来たロシア系日本人”に興味をもったようです。そのおかげか、私の知識は格段に飛躍し、コレクターの主人さえも知らなかった奥深い知識をたくさん吸収することができました。当時出会ったディーラーやコレクターとは旧知の仲となり、いまだに深い友情で結ばれています。今回はそんな仲間たちから得た知識などをもとに、私がまとめたジェイドカラーの歴史についてお話しましょう。

“Jadite(ジェイド)”、のちにミルクグラスの代名詞となったこの魅惑的なカラーの発祥は、1893年のシカゴ万博の頃にまでさかのぼります。当時アメリカではオリエンタリズムが台頭し、日本をはじめとしたアジア諸国、とくに中国への関心が高まっていた時代でした。そんななかで中国の伝統的な宝石である翡翠、または翡翠を用いた玉彫工芸の美しさに、多くの人々が魅せられていたのです。そうした時流から、いくつかのグラスカンパニーがこのオリエンタルの象徴である宝石、翡翠を模倣したカラーのテーブルウェアを試作するようになりました。すでに耐熱性を備えたミルクグラスの製造法は確立されていましたが、本格的にジェイドカラーの製造が開始されたのは20世紀に入ってからだったようです。

アール・デコの影響とマッキー社

また、そこには同時にアール・ヌーヴォーからアール・デコへと芸術様式が変遷する、ヨーロッパの時代背景も大きく影響を与えました。そして1920年代に入り、マッキー社が一般家庭をターゲットにしたジェイドカラーのグラスウェア製造に乗り出します。多くはアール・デコの様式を下敷きにしていますが、ヨーロッパと違い、どれも繊細とは程遠い荒削りなデザインでした。金型成型という量産方式ではありましたが、そうしたグラスウェアは消費者にも非常に好意的に受け入れられたのです。ただし価格は当時の一般的な家庭が簡単に購入できる価格ではなく、ジェイドカラーのテーブルウェアはアッパークラスの楽しみでもあったようです。

写真のマッキー社製品は、そうした当時の流行を色濃く物語っています。フラワーベースはライトに改造されてリビングルームのコーヒーテーブルを照らし、直立しないワンショット用のタンブラーは使用されることなくバーカウンターに飾られていました。私がはじめて手に入れたミルクグラスはファイヤーキングの「アイボリー Dハンドルマグ」でしたが、やがてジェイドカラーを知り、歴史をさかのぼった結果このマッキー社に行き着いたことは、私の興味対象を増幅した一因だったように思います。

マッキー社のグラスウェアについては、1970年代にはすでに辞典のようなコレクターズガイドも発売されていました。こうしたガイドには、アメリカにおけるコレクター層の厚みを感じます。装丁、カバーのカラーがジェイドというこのガイドは主人から譲り受けたものですが、'90年代にはアメリカでもほとんど手に入らなくなった貴重な資料のひとつです。

そんなマッキーに追随するように、ジャネット社やアンカーホッキング社など他のメーカーも次々とジェイドカラーのグラスウェアを販売するようになり、ジェイドはミルクグラスの代表的なカラーとなっていきました。そして世界的なコレクターズアイテムとなったジェイドカラーのテーブルウェアは、マーケットとしては1996年頃までさほど大きな変化を見せぬままでしたが、以降本国アメリカで意外な展開をみせていきます。

次回はもう少し、マッキー社とジャネット社についてお話したいと思います。そして意外にも本国アメリカで活性化を始めたジェイドカラーのテーブルウェア、その大きな理由について触れていきましょう。

           
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