連載・塚田有一│みどりの触知学<特別編・2012秋 パリ> 谺する森 声の 登る
「旅」は「賜(た)べ」。旅に憧れ、恋して旅に出れば、何か賜る
<特別編・2012秋 パリ> 谺する森 声の 登る
着いた翌日、パリの空は曇り。セーヌ川を渡って、ノートルダム大聖堂を見上げていた。壁に彫られた聖人たちや、ガーゴイルなど森の精霊たちに守られたゴシックの聖堂を目の前にして感じたのは、これは石でできた杜、切り出された古代の森なのではないかということだ。
Photographs & Text by TSUKADA Yuichi(ONSHITSU)
目を閉じて聴いていたら、いつか深い森の中に、立っていた
中に入るとはっきりとわかる。薄暗がりの内部空間は森に入った感じそのものだし、同時に懐かしい胎内でもある。ステンドグラスの光は木漏れ陽といったところか。聳え立つ列柱は、巨大な森の樹々そのもの。太い幹から枝を広げ、空を支える。天蓋にはフレスコ画で満天の星が瞬く。祭壇は、かつて祈りの儀式がおこなわれていた森の奥の巨石を彷彿とさせる。
「ノートルダム」とは、フランス語で「我らが貴婦人」。つまりマリアさまのことらしい。ステンドグラスにも聖母が纏うラピスラズリの青が多いようだ。雲間からこぼれた陽が薔薇窓を撫で、石壁に青や赤の光が颯と翳ろう。
モスクに入ったときも思ったけれど、ドーム状の天蓋とその高さ、反響を幾重にも拡幅する壁のつくりなど。そこでは声や歌、奏でられる楽が倍音となってどこまでも届く。身体感覚に支えられ、かつこの森の谺を、もっと強くもっと多くのひとへ、よりたしかに届かせようというパッションが凄い。
ちょうど、小さなミサが執りおこなわれていた。彼らの唱和する聖書の言葉や聖歌は、蔦のように壁を伝い、幹を駆け上がり、枝葉を振るわせ、ドームでクルンクルンと交差し向きを変え、降ってくる。石の地面に届き、また跳ね上がっていく。石の襞にぶつかり、鳴り交わす。
目を閉じて聴いていたら、いつか深い森の中に、立っていた。もしかするとこの石の建築は、森を切り開き、森をなくしてしまった民の、ノスタルジアから生まれたのかもしれない。まさに森は、聖母の仲間である女神たちの多く住む場所だったのだから。
「歌(うた)」の語源は「打つ」とも言われる。「訴える」も語根は一緒だろう。和歌は多く「恋(こひ)」を歌う。季節の平穏なめぐりをねがうこともする。「こひ」は「乞う」こと。歌を歌うことで、乞い、訴える、打つことで、何かを振るわせ、境界を破り、何処かと交信するのだろう。歌はともに歌う人びとをつなげ、時空を跨ぐ力をもっている。
石は硬く冷たく、死を象徴する
ホテルに戻って、浅いお風呂に身を投げ出し、聖歌の響きを思い返した。自然を抽象化し、上手に編集し、あれだけの空間を創りあげる精神。その歌や声や言葉を、一体どこまで届かせたいのだろう。
それに比べると鎮守の杜は裸だ。沖縄の御嶽はそのままだ。鳥が鳴き、蝶が舞い、蟻が這う。その場所ではひとだけでなく無限の生命が無数の宇宙をずっとずっと昔から語りつづけている。聖なるものたち、精霊達はそこで生の営みをくり返している。ユーラシアの東と西。ちがっていたり、似ていたり。
「旅」は「賜(た)べ」。旅に憧れ、恋して旅に出れば、何か賜る。ゴシックロマンなノートルダム大聖堂は、遥か古代のヨーロッパの森を見せてくれた。石の森ではあるが、いや、だからこそ歌や音楽が奏されれば目覚め、命が吹き込まれ、躍動する。なるほど石は硬く冷たく、死を象徴する。そこに入って聖書やコーランを詠み、唱和し、告白し、光を感じ、浄められ、再生する場。それも本来、森など自然の力でもあった。
不安に対する拠りどころ、心をもった私たちにとって、どうしても必要なものなのかも知れない。
温室
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