連載・塚田有一│みどりの触知学 第16回 「雨水」の日曜日
氷も溶けるし、雪も雨になる。雨水は「木の芽うごかし」という名前ももっている
第16回 「雨水」の日曜日
「雨水」の日曜日だった。あまりにも明るい日射しに誘われて、散歩にでかけた。「雨水」は、雪が雨にかわるという日。空は青くて、光が散りばめられたようだ。こんな日は見慣れていたはずの景色がいつもとちがう懐かしさをもつ。
Photographs & Text by TSUKADA Yuichi(ONSHITSU)
それにしても高層の建築群はいまだに増えつづけている
氏神の赤坂氷川神社を抜けると、朝には霜柱が立っていた土が、ふかふかとしていた。境内にずっと住みついていた茶トラの猫の消息を書いたメモがあって、ペットボトルには赤と白の椿が供えられている。
南部坂を降りて行くと、毎年、蔓薔薇が見事に咲く民家の庭先で紅梅が咲いていた。一対の白梅はまだ硬くて、メジロが二羽、いつ咲くの、というように、うすく桃色が滲んだ丸い莟(つぼみ)のあいだを飛び回っていた。
アークヒルズの脇を上がって、スペイン大使館の横を抜けるとスウェーデン大使館の前に出る。そこから遊歩道がゆっくりと神谷町へ向かって下っているのを、まだ枝だけの欅(けやき)や桜の梢を見上げながら歩く。それにしても高層の建築群はいまだに増えつづけている。とくにこの辺りはいまだにラッシュらしい。ホテルオークラや大使館やお寺などはそのままだけど、風景ががらがらと変わって、昔から住んでいるひとたちの住まいは囲い込まれていく。
笑顔や話す言葉が、街を生き生きとさせることもある
たくさんの坂があるこの界隈。細い露地も残っている。上り下りをくり返していると思わぬ風景に出合ったり、かつては江戸の町を見わたせたという「江戸見坂」で振り返って幻滅したり、でも、そのころのことを想像してみると景色は変わる。葺城(ふきしろ)神社という神社に出合って、この辺りはもと葺手(ふきで)町といい、茅葺き職人たちの町だったことなど知ると、ここからも未知の物語に想いを馳せることができる。ナイジェリア大使館を見つけると、今度は大雑把にも“アフリカ”にイメージを飛ばしてみたり。
歩いていると、知らないひとに道を尋ねられたり、知っているひととすれちがったりもする。その両組ともほんの少しの時間、道中をともにした。そうすると街はまたちょっと変わるのだ。笑顔や話す言葉が、街を生き生きとさせることもある。未知の情報に遭遇するのも道なのだ。
梢でさえずる鳥たちのお喋りに耳を澄ませたり、東京タワーが意外なところから姿をあらわしたり(地震で曲がったままの先っぽに気がついたりもした)、ビル工事の仮囲いの、はりぼての道が不思議だったり、突如としてあらわれる野性のみどりにおののいたり、それはこの東京の褶曲(しゅうきょく)した地形のせいなのだろう。案外に深い谷と山が、響き合い、近いようで遠い、不意に立ち上がり不意に消える、遮られた上にまた遮られたり、かと思うと予想とちがう景色があらわれて肩透かしにあう……。水の流れや植生もそのとおりに複雑になっていく。こうした地形は、僕たちの住まいや庭のつくりや、皮膚感覚やこころに、そうとうに影響をあたえているはずだ。
土地には多くの物語がまさに褶曲地形のように、襞(ひだ)の中に折り畳まれていたり、谷底に眠っていたりする。
雨水は「木の芽うごかし」という名前ももっている
そんなことを思いながら、かつての旧道を登ったり降りたり、かくかく折れたりくねくねとカーブしてたら、飯倉の交差点についてしまった。急に日常に帰ってきてしまった。でも、またちょっと逸れると、ロシア大使館の奥には「日本経緯度原点」があったりして、ここが日本の国土の地図上のヘソだということに、不思議な感じがした。あまりにもぽつねんとしているこの景色が、地図上のデータとして数値化されていることに実感がともなわない。こんな場所がぽっかりとあらわれる、東京という都市はつかみ所がない。
帰り道、なんとか日常にもどるまいとする。
でも明日からまた仕事。いつもの花屋さんをのぞく。花を抱えて六本木交差点。
さすがに日曜日の混雑。たくさんの人びとが、それぞれを抱え、それぞれの方向に向かって、すれちがい、行き交う。八街(やちまた)だ。ふと、さっきまでそぞろ歩いてきた時空はここと同時に息づいているのだと、なんだかうれしかった。行き交うひとたちの後ろにもそれがあるのだろう。均一はあり得ない。いくらそちらを目指そうとも。この交差点もあの露地も鳥たちが集うあの木もそのままに、均され切れない世界をそのままで。
音や湿度や、風や光りに、もっともっと曝されたまま、そのままを感じること。地球上にかぎってさえ、遥か遠いところでもすぐそばでも、たくさんの美しさが同時に無数に起きては、崩落をくり返している。その切なさに耳を澄ませたい。
氷も溶けるし、雪も雨になる。雨水は「木の芽うごかし」という名前ももっている。僕の目もくるくるとして、ピカピカ光った、日曜日の午後だった。
さあ、もう春だ。
温室
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