フェラーリの聖地、マラネッロを行く Vol.5|Ferrari
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2015年4月10日

フェラーリの聖地、マラネッロを行く Vol.5|Ferrari

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フェラーリの聖地、マラネッロを行く Vol.5(最終回)

モンテゼーモロが遺したもの

連載最後となる今回は、昨年10月を以てフェラーリを退いた元会長、ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ氏にフォーカスしたい。創業者エンツォ・フェラーリ亡き後、23年という間で氏が築き上げた現代のフェラーリとはどういうものだったのか。そしてこれからどう進化を遂げていくのか。フェラーリの未来を探る。

Photographs by Ferrari S.p.AText by Akio Lorenzo OYA

Vol.4 フェラーリの聖地、マラネッロを行く

女性週刊誌の常連でもあったエグゼクティヴ

フェラーリを会長として23年にわたり導いてきたルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ氏(67歳)が2014年9月10日退任した。

モンテゼーモロ氏は1947年ボローニャ生まれ。ローマ・サピエンツァ大学の法学部を卒業後、米国コロンビア大学の修士コースで学び、フィアットに入社した。1973年には、傘下のフェラーリ社に移籍して創業者エンツォ・フェラーリの側近となった。つづいてF1スクーデリア・フェラーリのマネージャーを務め、1975年にニキ・ラウダをドライバーズチャンピオンに導いた。

1991年、フェラーリ会長に就任。同社の財務状況を劇的に改善するとともに、F1ではジャン・トッド監督とともに奮闘し、2000年に21年ぶりのドライバーズ選手権をもたらし、2004年から2010年まではフィアットの会長も務めた。

フェラーリの聖地、マラネッロを行く

フェラーリF1チーム「スクーデリア・フェラーリ」のマネージャーも務めた若かりし頃のモンテゼーモロ氏

フェラーリの聖地、マラネッロを行く

1996年の加入以降、シューマッハー選手とともにF1黄金期を築き上げたことは、まだ記憶にあたらしい

同時にイタリア工業連盟会長も務めたほか、高級靴メーカー「トッズ」のディエゴ・デラヴァッレ会長とともにイタリア初の高速鉄道会社を設立するなど、イタリア財界で八面六臂の活躍をみせた。

その端麗なルックスから、ヴァカンスを過ごす姿などで女性週刊誌のグラビアをたびたび飾ったほか、イタリアを代表する物真似芸人、ダリオ・バランティーニの持ちネタにされた。そうしたことから、自動車ファン以外のイタリア人にも広く知られていた。

モンテゼーモロ氏の今後については、いまだ明らかにされていない。だが、イタリア国内では2014年、エミレーツ航空と提携した新生アリタリア航空の会長に就任するのではないかとの説も少し前に浮上した。

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フェラーリの聖地、マラネッロを行く Vol.5

モンテゼーモロが遺したもの(2)

慣習を破る人材育成システム

かくも華やかなキャリアに彩られたモンテゼーモロ氏だが、フェラーリ会長在任中に実現した功績のなかには、地道なものも少なくない。

そのひとつが人材育成で、彼はさまざまなアイディアを導入した。たとえばフェラーリのファクトリー従業員は高校卒以上を条件としているが、同時に適性検査によって事務職への昇進制度を設けて、モティベーションの向上を図った。

「オペライ」といわれるファクトリー従業員と、「ディペンディティ」と呼ばれる事務職の間で、厳然たる壁が存在する、古い社会イタリアで極めて画期的なプロジェクトであった。

フェラーリの聖地、マラネッロを行く

フェラーリの聖地、マラネッロを行く

また、世界各国の有名大学と産学共同研究も進めてきた。あるスタッフが明かしてくれたところによると、直近のテーマのひとつは、3Dプリンターの技術開発であるという。

モンテゼーモロ体制では、インターン制度も充実が図られ、人気を博してきた。直近の募集には、世界80の国と地域の大学生から5,000通の履歴書が送られてきたという。当初の募集人数は5名だったが、急遽15人まで受け入れ枠を拡大。彼らは半年にわたる実地研修に携わる。

量産ブランドならともかく、年間生産台数約7,000台のスーパースポーツカーメーカーが、こうしたモダーンな人材育成制度を採り入れていることは、特筆に値する。

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フェラーリの聖地、マラネッロを行く Vol.5

モンテゼーモロが遺したもの(3)

背景にあるのは、イタリアの美意識

イタリア・マラネッロにあるフェラーリ本社のファクトリー内を見学していて驚くのは、そのモダーンな建築物である。設計はレンツォ・ピアノ、マルコ・ヴィスコンティなど、当代一流の建築家たちによるものだ。

それらはモンテゼーモロ会長(当時)主導のもと、1997年から順次建設されたもので、コンセプトは「可能な限りファクトリーらしくないファクトリー」であったという。

フェラーリの聖地、マラネッロを行く

「リストランテ アズィエンダーレ」と呼ばれるマラネッロ本社にあるスタッフのための社内レストラン

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これまでの自動車産業界にはなかった別次元の価値観を持ち込んだ、マラネッロのファクトリー

本連載の第1回で紹介したとおり、ファクトリー内には熱帯植物が植えられている。天井からは自然光が降り注いでいる。騒音もできる限り抑えられ、臭いさえも厳しくコントロールされている。

社員レストランもセルフサービス式でありながら、ショッピングモールと見紛うような高い天井の、独立した一棟が充てられている。名前もイタリア語で一般的に“社員食堂”を指す「メンサ」ではなく、「リストランテ アズィエンダーレ(社内レストラン)」と呼ばれている。

自動車ファクトリーとしては、過剰ともいえるスペックの背景には、イタリア人の建築に対する美意識がうかがえる。一般にイタリアの都市では、壮麗な建築物を何世紀にもわたって修復しながら使い続けている。そこそこのレベルの建物を何十年かごとに建てかえてゆくのとは、別次元の価値観が存在する。モンテゼーモロ氏は、その概念を自動車ファクトリーの世界に持ち込んだのだ。

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レンツォ・ピアノ、マルコ・ヴィスコンティなど、世界屈指の建築家たちによってデザインされたファクトリー内の建物

フェラーリの聖地、マラネッロを行く

最後の日、モンテゼーモロ氏は全従業員の前に、こう語った。「優秀なスタッフに支えられた、世界一素晴らしい企業だった」と。

近代的手法で後継者を育て、価値ある環境を手渡す――。モンテゼーモロ氏の時代は、モダーンなマネジメントと、イタリア人の伝統的美意識の、巧みなミクスチャーだった。イタリアが生んだ稀代の自動車ビジネスマンが創造し、遺したカルチャーが、いかに次のフェラーリを生んでゆくのか。いまから楽しみではないか。

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