Diary-T 177 シャングリラ
ここには、一つの深い謎がある。自然法則に従って変化する、広大な宇宙。その中に生を受け、懸命に活き、やがて死んでいく私たち。意識をもった私たちの中に顕れ、通り過ぎていくさまざまな現象。客観と主観は、いったいどのように結びついているのだろう。
対象から、自分を離すこと。その「ディタッチメント」の精神にこそ、私は感染したのではなかったか。
茂木健一郎 クオリア日記より一部抜粋
クオリア日記
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/12/post-df38.html
毎朝茂木さんのつぶやきを感じクオリア日記で感動する。
ありがたい時代に私は生きている。
枯れてしまいそうな植物が水を吸い込むように、
茂木さんを初めとする賢者たちからのメッセージは私にとっては命の泉だ。
「自説の反対者と生産的な対話をなす」
日本の政治的危機の核心をなしていると僕は思います。
「呪いの時代」内田樹著より
今まさに読書中の「呪いの時代」内田樹著から湧き出る
硬質な泉は、普段からの手入れを甘え渇ききってしまった私の心の土壌をがつんがつんと鋭い鍬で掘り起こすようにじわじわと厳しく潤してくれる。
農薬や枯れ葉剤を使って土地をフル稼働させてしこたま稼ぐ悪徳商人のように、所詮私のように一毛作でいっぱいいっぱいの頭を二毛作三毛作させたいと気張って知識をいくら頭に詰め込んでみたところで、身体がそれについてこなければメタボ脳になっていつかはボケ脳人になることは目に見えている。
これまでも内田さんの書かれた書籍を二十冊近く読んできて分かったのは、知識というものは血液の循環と同じことで、頭のてっぺんからつま先まで全身につつがなく血液が行き渡ることが肝心だということです。
私がこうしておこがましく話すまでもなく、内田樹さんは合気道の有段者であられるから、身体的な思考という人間本来のあるべき姿を通して私たちに生きる上での哲学や思想を語って下さる。
どこか他の賢者と違うかというと、つまり、地に足がついた語り口だと言うことなのです。
脳の中?で気持ちよく整理整頓されている、まるで高級おせちの重の一分の隙もなくきっちり詰め合わされた料理ではなく、取り立ての新鮮な素材を生かした豪快な大皿料理のような開放感と野生の息吹を感じるのです。
身体が理解しないものは口にしない。
頭で食べる料理は身体に悪い。
つまり、内田さんの言論は、
私たち生きる上で否が応でも起こる不安や恐れを無頓着に煽るような文章を扱わない。ということに尽きると思う。
言葉にしたり、文字にして気持ちのいい文節というのは内田さんにはたぶん禁じ手なのだ。
ということは、読者である私は、内田さんが論考するどんなに険しい問題に接したとしても、決して奈落の底に突き落とされるということがないのだ。
一時だけ気持ちの良くなる処方箋を書くことのない稀に見る信頼のドクターなのだ。
身体の悪いのは私の生活態度だ。ということをやんわり教えてくれる。名医とは内田樹さんのような人のこと言う。
世が世なら武芸者としても後世にその名を残すことは間違いない。
それにつけても、読書とはなんとシャングリラの安楽よ。
甘露、甘露…
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