連載|スイスで活躍する日本人時計師
ラ・ショー・ド・フォン国際時計博物館の時計修復師〜金澤真樹さん〜
金曜日の昼下がり。訪れる人のほとんどいないひっそりとした博物館。 静けさの中響く時計のチクタクの音。数世紀の歴史を刻んできた音だ。ここはスイス ラ・ショー・ド・フォンの国際時計博物館。その一角にある工房で、金澤真樹さんは、4000点にのぼる館の収蔵品の修復、研究・調査に取り組んでいる。
Text by SANO PERRET Tomoko
有能な時計師は不足しないはずのスイスで日本人が抜擢
ラ・ショー・ド・フォンは隣接するル・ロックルとともに、古くから計画的な都市計画がされた時計製造都市として、ユネスコの世界遺産として登録されるほど歴史ある街だ。
そのラ・ショー・ド・フォンの国際時計博物館は、歴史的な時計の宝庫であり、スイス時計製造の歴史博物館のような役割も担っている。運営はラ・ショー・ド・フォンのコミューン(スイスの自治体)によって営まれており、金澤さんはスイスの公務員として働いている。
有能な時計師には不足しないはずの機械式時計の国・スイスの博物館の時計修復師はふたりしかいない。そのうちの一人が、金澤さんだ。なぜ日本人の金澤さんが抜擢されたのだろうか。
「時計との出会いは、テレビのドキュメンタリー番組がきっかけでした」(金澤さん)
1998年、栃木で工業高校2年生になり、やがて機械を扱う仕事につくことを頭でぼんやりと思い描いていた頃。スイスのドキュメンタリー番組で、衝撃的な出会いを経験する。気の遠くなるような時間をかけて作り上げる機械時計の職人たちの番組が放映されていたのだ。金澤さんは、迷うことなく時計師へと進路を決めた。
「どうせなら本場に行って学びたい」という彼に、両親は賛成してくれた。こうしてまずフランス語を勉強するために18歳の金澤さんはパリへと旅立った。
パリ、ボルドーの語学勉強を終えると、スイス ル・ロックルの時計学校に入学。3年で時計師の資格をとった後、さらに複雑時計・修復科へ2年間通った。
時の縁で結ばれた博物館
学生時代の金澤さんの休日の楽しみは、博物館を訪れることだった。ラ・ショー・ド・フォン博物館には、大型の掛け時計から懐中時計、かつての船舶用に作られたマリン・クロノメーターなど現代では見られない希少な時計が展示、保管されている。それらをどうやって修復していたかを知りたかったのだ。
博物館では時計学校の複雑時計・修復科を卒業した生徒を研修生として、年間1〜2人、6カ月間受け入れる。もちろん、金澤さんも応募。そのほかにも休みを利用しては研修を受け、彼の技術と人柄は博物館スタッフの知るところとなった。
2006年時計学校卒業後、時計博物館での6カ月間の研修を経て、2007年に異才の独立時計師ヴィンセント・ベラール氏のアトリエに入る。そこでは永久カレンダーとクォーターリピーター機能を搭載したクワトロ・セゾン・キャリアージュシリーズの「春」のモデルに続く、「夏」、「秋」、「冬」のモデルを任される。 ところが4年後、いよいよブランドの本格的な世界展開という時に突然襲ったリーマンショックの影響で、アメリカの親会社がブランドの閉鎖を決定。精魂こめて作り上げた時計を世に出すことができない悔しさを29歳の金澤さんは味わうことになる。
自由の身になった金澤さんが、ふと思い出したのが、国際時計博物館にあった1900年初頭のグラン・ソヌリのことだった。館の収蔵庫には、完成品が一個と、同じモデルだが部品がバラバラになってしまったエボーシュと呼ばれる半完成部品が数個、手をつけられないまま10年近く放置されていたのだ。
設計図や組み立てに関する資料がないので、一個を完成させるのにどのくらい時間がかかるのか、まったく想像がつかないという状態だったという。今のように便利な機械がない当時、作業の段取りは今日とまったく違っていたと推測される。とにかく各々の部品をざっくりと作り上げてから、手作業でそれぞれの形に刻み込み、磨き入れることにした。
エボーシュ(半完成部品)を一個完成させてみたい
金澤さんはこの放置されたグラン・ソヌリの修復作業を企画書にまとめると、ジュリアス・ベア賞に応募した。ジュリアス・ベア賞とは、有望な若い時計師に対する奨学金制度のことで、見事にジュリアス・ベア賞を獲得する。当時の地元の新聞はこう伝えた。
「栄誉あるこの賞の受賞者は、若き日本人時計師。今まで誰も手をつけようとしなかった、狂気の沙汰ともいえる超複雑時計のパズルを解きあかせてみせる、というのだ」(アンパーシアル紙)
こうして2011年、国際時計博物館で、 金澤さんは半完成品のエボーシュの組み立てに着手した。約300個の部品から、欠けている部品がどれかを突き止めなくてはならない。しかも組み立てている最中に、パーツの欠陥を発見してしまう。文献をいろいろと探してみたが、まったく見つからなかった。手探りの中、一個だけ残っている完成品だけがたよりだった。
そうして完成したのは、当初予定していた6カ月は遥かに超えた10カ月後のことだった。
プロジェクトが終わるのを待っていたかのように、金澤さんの噂をきいたフィンランド出身の独立時計師カリ・ヴティライネン氏が「うちに来ないか」と声をかけてくれた。しかし彼の工房に入って一年しかたたないうちに、国際時計博物館の修復師が引退するので後継者の募集があると知らされる。
これには金澤さんの心は大きく揺れた。多くの人が「超人」と称するヴティライネン氏の元で学ぶことは多かった。さらに、常に朗らかで穏やかな彼の時計師としての品格に惚れ込んでいたという。結局迷った末、金澤さんは古巣ともいえる博物館で働く道を選んだのだった。
博物館の時計修復士に抜擢された経緯に関して、金澤さんへ質問したところ、こんな答えが返ってきた。
「時計に関する知識や技術において、私のぐらいの技量の時計師は大勢いると思います。ただ、この博物館を愛する気持ち、そして博物館をよりよくしたいと願う気持ちが、ほかの人よりも強かったのかもしれません」
時計の聖地、スイスのラショー・ド・フォンへ行く機会があれば、ぜひ時計博物館を訪れてほしい。金澤真樹さんが愛する機械式時計の世界をきっと体感できる。