MUSIC|2011年夏のYellow Magic Orchestraレポート Part-II
2011年夏のYellow Magic Orchestraレポート Part-II
2011年8月7日 ワールドハピネス2011(1)
Yellow Magic Orchestra(YMO)の本拠地ともいえるワールドハピネス。いよいよ今年もYMOがホームに帰還した。
文=吉村栄一
2011年のYMOの夏も、この夜で終わりだ
これまでのワールドハピネスは、多少の例外はあったが、年に一度のYMOの再結成の日といっても過言ではなかった。多彩なソロ活動をしている多忙な3人が、このワールドハピネスの日にはYMO(以前はHASYMOという名義だったが)として集結する。しかし今年はちがう。
6月末にアメリカ西海岸、日本でもフジロックとNHKの公開収録と、まとまったライブをこなしてきての、いわば2011年のYMOのツアー最終日となったのがこの日のワールドハピネスなのだ。
ホームの観客はそれをよく知っている。長いロードに出ていた自分たちのチームがホームに帰還したのだ。その寿ぎをするために、今年は例年以上のひとがワールドハピネスに詰めかけた。
それはもちろん、YMO以外のラインナップがさらに充実したせいもあるだろう。ほかのフェスであればヘッドライナーをつとめられるようなアーティストがずらりと揃ってもいる。
しかし、観客のみならずそんなアーティストたち自身までもがYMOの帰還を心待ちにしていたような空気が見られるのが、このワールドハピネスというフェスの特徴でもある。
誰にも内緒でいきなり「東風」のカヴァーを披露したサカナクション、坂本龍一が苦笑したという坂本龍一の歌モノ「サマー・ナーヴス」をDJセットのトリにしたテイ・トウワ、いたずらっぽく自曲に「TOKIO!」のかけ声を挿入していったYUKI……。若手から中堅アーティストにとっては、ステージよりもバック・ステージのほうが(YMOがいるから)緊張するというワールドハピネス。
そうしたホームのなかのホームで、まさに満を持して登場したYMO。午後に観客を苦しめた雷雨も上がり、夜空にはサーチライトが照らされている。2011年のYMOの夏も、この夜で終わりだ。
2011年夏のYellow Magic Orchestraレポート Part-II
2011年8月7日 ワールドハピネス2011(2)
復興・復活・再生のモチーフである『火の鳥』を曲に
サンフランシスコの夜からつづいてきたオープニングの即興演奏とは、あきらかにちがうセッションからステージはスタートした。
YMOがこの日のために、いや、3・11後の日本のためにつくった新曲の「Fire Bird」だ。今年のワールドハピネスのキー・ビジュアルは手塚治虫の名作『火の鳥』。
復興・復活・再生のモチーフである『火の鳥』を、YMOは曲にした。その意図がどこにあるかは明白だ。3・11を境に、はっきりと変わってしまった日本の社会と、そこに暮らす人びとの生活。あえて言葉のない、インストゥルメンタル作品でYMOは力強いメッセージを打ち出した。
ワールドハピネスのような非日常のフェスも、終わればみな日常に回帰していく。それは観客もアーティストもおなじだ。いまは、帰るべき日常は決して平穏なものではないが、そこ以外に帰る場所はない。火の鳥のバッジを胸につけ、「NO NUKES MORE TREES」の旗を振って演奏するYMOの3人にとっても同様だ。
高橋幸宏の提案で創作することが決まったという「Fire Bird」の世界初演でスタートしたYMOのワールドハピネスでの公演は、まさに2011年のYMOの総決算だった。
誰もが知る名曲から、マニアのみ知るレア曲まで、サービス満点。先にNHKの公開収録で、彼らのライブの歴史上はじめて披露された「アブソリュート・エゴ・ダンス」も、この日のホームの観客たちはそのサプライズにあちこちで歓声を挙げる。
新曲「Fire Bird」と「アブソリュート・エゴ・ダンス」以外では、ここ1~2年のYMOのフィジカルでファンクな演奏のなかでは、いまひとつ浮きつつあったエレクトロニカ版「ライディーン」が、このワールドハピネスのセットからはついに外れたということも、旧来のファンには衝撃だったかもしれない。
21世紀YMOの復活のきっかけともなった「ライディーン」だが、YMOがあらたな段階に入ったいま、きっとまたあらたなアレンジで甦ってくれるにちがいない。
初年度以来、奇跡的に天候に恵まれてきたワールドハピネスだが、今年は猛暑と途中の雷雨でコンディションとしては決してハピネスなものではなかった。が、天候が回復して、YMOによる日本の復興への気持ちが込められた「Fire Bird」がはじまったとき、日本の現状と会場の空気がほのかにシンクロして感じられた。そこには困難ではあるが、かならず日本はこの災厄から立ちなおるのだという希望の灯がたしかに見えたように思えたのだった。