ワインカーヴをテーマに新設計されたOTTO SETTEのダイニング。アーチ型の空間に、この夜のために18名が集った。
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FEATURES
2026年4月3日
メーカーズディナー、それはワインに恋する幸せな時間なのです
LOUNGE FEATURE|キスヴィン×リゾナーレ八ヶ岳
ワインの味は、恋に似ている。相手のことを知れば知るほど、その魅力は深まっていく。造り手の顔を知ること、その哲学に触れること、ブドウが育った土地を自分の足で踏むこと。それらの経験が重なった時、グラスの中の液体はまったく別の輝きを放ちはじめる──。2026年3月、山梨・八ヶ岳のリゾートホテル「リゾナーレ八ヶ岳」にて、新進気鋭のワイナリー「キスヴィン・ワイナリー」と組んだ一夜限りのメーカーズディナーが開催された。参加者18名が体験したのは、単なる「美食の夜」ではなく、ワインの物語そのものに恋する時間だった。
Text by TSUCHIDA Takashi
企画構想2年がかりの一夜のはじまり
2024年4月にリニューアルを果たしたリゾナーレ八ヶ岳のメインダイニング「OTTO SETTE」の空間のテーマは、ワインカーヴだ。砂利を敷き詰めたような床、ブドウの葉を纏ったカーテン、外を見ればブドウ畑を思わせる景色──そのすべてが星野リゾートらしい上質なトーンで、気分はワインのテーマパークである。
総支配人の高橋氏は開会の挨拶でこう語った。
「リニューアルからもう2年経つんですが、今日がここで行う初めてのイベントです」
この夜は2年の歳月をかけて丁重に準備された企画だった。リゾナーレ側が最初にキスヴィンへ打診したのも2年前の秋。意気投合した両者がサプライズをそれぞれ持ち寄り、「どちらかが一方通行じゃないのがよかった」と、リゾナーレスタッフは振り返る。その対等な関係性が、この夜に特別な空気を与えていた。
バスに乗り、テロワールを頬の風で感じる
ディナーに先立ち、参加者たちは山梨県甲州市塩山のキスヴィン・ワイナリーへと向かった。ブドウ畑とワイナリーを見学したあと、帰路にサプライズが待っていた。
帰路に案内された先に停まっていたのは、WILLER株式会社が開発したレストランバスだった。この車両が山梨県内を走るのは、この日が初めて。一日のためだけにナンバーを取得し、運輸局への申請手続きをすべて通したという。そのことを知れば、乗り込むだけで胸が高鳴る。
向かった先は「牛奥みはらしの丘」。甲府盆地を見渡し、晴れた日には富士山まで望める高台で、キスヴィン醸造総指揮の斎藤まゆ氏がグラスを掲げた。「キスヴィン・ブランに、乾杯!」──その声とともに、旅が動き出したのである。
テーブルに並んだ6品は、OTTO SETTEのシェフが丁寧に作り上げた料理だ。山梨県産の淡水エビ「信玄えび」を使った海老のフリット、山梨の郷土料理「アワビの煮貝」をイタリアンのトルタ仕立てにしたもの、旬の菜の花のスフォルマート。青空の下、塩山の風景を眺めながら口にする「Kisvin Blanc 2024」は、20数種類ものブドウをフィールドブレンドした、このシチュエーションのためにあるような爽やかさ溢れる味わいだった。
キスヴィンがなぜ注目されるのか? シンデレラストーリーのその先へ
キスヴィン・ワイナリーの始まりは、一人の若手農家の野心から生まれた。甲州市塩山で代々続く「荻原ぶどう園」の3代目・荻原康弘が、「ブドウの世界で、世界一になるにはどうしたらいいか」と考え、食用ブドウをワイン用品種へと転換し始めたのが2005年ごろ。醸造所を構えたのが2013年のことだ。
転機となったのは、マスター・オブ・ワインであり世界最優秀ソムリエの称号も持つジェラール・バッセ氏との出会いだった。来日する彼との食事に招かれた斎藤氏と荻原社長は、準備万端で特急かいじに乗り込んだ──はずが、電車が遅延し、名刺を忘れたことも発覚。斎藤氏曰く、「釣りバカ日誌みたいに」車内販売のビールで気持ちを立て直しながら、財布に偶然残っていた3枚の名刺を握りしめて東京へ向かったという。
席上でキスヴィンのシャルドネを口にしたバッセ氏は、頬をピンク色に染めて「何本作ってるの?」と言った。「1,700本です」と答えると「1,500本、俺が買う」という。斎藤氏は間髪を入れず「売り切れております」と返した。そのヴィンテージは本当に完売していたのだ。
そんなやりとりがあった後、キスヴィンのボトルを手にするバッセ氏の写真を撮っていいかと尋ねた斎藤氏。バッセ氏は「I am expensive(私は高い存在ですよ)」と言い返す。「Our wine is expensive too(私たちのワインも高いんですよ)」──互いの仕事への敬意が通じた瞬間だったという。バッセ氏はその夜、斎藤氏の名を世界へ向けてSNSで発信した。
しかし、キスヴィンの本質はそんなシンデレラストーリーに留まるのではない。その後も続く、飽くなき挑戦の姿勢にある。
ブドウ畑では、一文字短梢と長梢を組み合わせたハイブリッドの仕立てを実験中だ。甲州特有の病気リスクを軽減しながら、棚の空間を最大限に活用する方法を追求している。鉄パイプを使った棚は高さを変えることができ、雨除けのビニールは光の透過率を毎年検証しながら品種ごとに使い分ける。醸造所では、複数メーカー・複数トーストの樽をあえて混用し、多層的な風味を設計する。
「教科書に書いてあることも、畑に当てはめてみると実はうまくいかないことがたくさんあるんです。だから私たちはすべてを試しています」と斎藤氏は語り、こう続けた。「真似をして、し尽くして、やり尽くしたところに自分たちのオリジナルが出てくる」。
練りに練ったペアリング。ワインを主役に据えた厨房仕事
「本日のお料理は、キスヴィン・ワイナリーさんのワインを主役として開発してまいりました」
OTTO SETTEの料理長・鎌田匡人氏は、全8皿に込めた意図をそう語った。
甲州レゼルブ2022には、山菜のトルタが合わせられた。ウドとフキノトウの苦みにタレッジョとパルミジャーノをたっぷりと加え、ワインの樽香と生地の香ばしさが重なるよう仕上げた一品だ。「最初はサラダのようなものも考えていたんですけれど、ワインの中に樽の香りが出ているということで、生地を焼いて揚げたりというアイデアに育てていきました」と鎌田氏は振り返る。
シャルドネとシャルドネ・レゼルブの2022年ヴィンテージには、手長エビのトンナレッリが供された。食べ進める途中でゼラチン状のカプセルを崩し込み、濃厚なエビのビスクソースをパスタ全体にまとわせる仕掛けだ。スタンダードのシャルドネが呼応するシンプルな旨みから、レゼルブの骨格と渡り合う奥行きへ──ひと皿で「味の二段変化」を体験する設計は、精巧の一言だった。
牛フィレ肉のじゃがいも包み焼きは、目の前でのデクパージュ(切り分け)とともに供された。ほうれん草で巻いたフィレ肉の外側をスライスしたじゃがいもで覆い、中心温度55度で丁寧に火を入れた一皿。「これを仕上げるために30回ほど練習しました」という言葉が、その完成度の重みを伝えていた。
ペアリングを設計したのは、ソムリエの加茂文彦氏だ。パリのミシュラン三ツ星「リュカ・キャルトン」で5年間シェフソムリエを務め、フランス農事功労章シュヴァリエを受勲した加茂氏は、長年にわたって斎藤氏と「一緒にイベントをやりたい」と語り合ってきたという。デザートのコースにスパークリングワインが合わせられると知った斎藤氏は「心が通じ合っているパートナーってこういうことなのかな」と目を細めた。「ワインは瓶詰めしてしまったら、醸造家ができることはそれほどない。料理人の方にどう使っていただくかが全てです」──斎藤氏のその言葉に応えるように、この夜の8皿は作られていた。
継承という、ワイナリーの生き証人となったサプライズ
ディナーの中盤、静かなサプライズが訪れた。メニューに載っていないボトルが、そっとテーブルに運ばれたのだ。
「NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』でご覧いただいた、あのワインです」
斎藤氏がそう語ったのは、キスヴィン・ジンファンデル・ロゼ2020だった。雨の多い困難なヴィンテージにジンファンデルの木を切る決断をしたその年、最後の収穫から生まれた一本。当時入社3年目、23歳だった川上黎氏が初めて単独で醸造を任されたワインだ。
「毎日タンクの上に登って発酵の様子を見たり、毎日テイスティングをしたりして……楽しい記憶しかありません」と川上氏は語る。グラスを傾けた参加者の一人がつぶやいた。
「人生で飲んだジンファンデルの中で一番美味しい」
その余韻が広がるなか、斎藤氏が立ち上がった。
「本日をもちまして、川上黎をキスヴィン・ワイナリーの醸造責任者に任命いたします」
この夜、この場で初めて語られた言葉だった。川上氏は29歳。アルバイトをしながら過ごした20歳の春にキスヴィンの扉を叩き、9年をかけてここへたどり着いた。スピーチに立った彼の声は、落ち着いていながらも確かな決意に満ちていた。「これまで荻原や斎藤が築いてくれたキスヴィンの歴史を、これからも積み上げ、ワインのクオリティをさらに高めていけるよう精進してまいります」。
メーカーズディナーの「メーカー」とは誰か──この瞬間、答えが見えた気がした。それは過去にワインを造った人だけを指すのではない。今日の一杯を引き継ぎ、明日のワインへとつなぐ、人間の連鎖のことだ。造り手を知るということは、ワインの背後にある造り手たちの時間と覚悟を知ることでもある。
メーカーズディナーのエンディング
ディナーの締めくくりに、小さなグラスが運ばれた。キスヴィンの葡萄の搾りかすから造られた、リゾナーレ八ヶ岳のスタッフが企画し、委託醸造されたグラッパ──この一夜のためだけに誕生した、世には出ることのない一本だ。その存在を知るのは、この夜、この場にいた者だけだ。
「ワインを造っていてよかったなと思える一日になっています」──斎藤まゆ氏の言葉が、静かに室内に満ちていくことを全員が共有した時間である。
メーカーズディナーの本質とは、ワインに恋することではないか。ビハインド・ザ・シーンを垣間見たうえで口にする一杯は、記憶の奥に長く刻まれ続ける。実際、この日、その場にいた全員が、キスヴィンに恋をしたに違いない。