2026年10月28日
【連載】目利きの視点|自分が良いと思うものを信じ、それに共感してくれる人たちと繋がること
目利きの視点|江口大介(江口洋品店 江口時計店 松濤店主)
時計マーケットが激動の10年を越え、新たな局面を迎えている。資産価値としての高騰、ラグジュアリースポーツの席巻、そしてApple Watchの登場。その荒波の中で、一貫して「ドレスウォッチ」の魅力を提示し続けてきたのが、「江口洋品店 江口時計店 松濤」(以下/江口時計店)の店主・江口大介さんだ。古着、高級車、そしてヴィンテージウォッチ。ジャンルを横断して培われたその「目」は、いま何を捉え、どこへ向かおうとしているのか。
Text by OPENERS Editorial Team Photographs by [Photographer Name]
泥棒市とファーストクラス、対極の原風景
東京・松濤。閑静な住宅街の一角に、完全予約制の「江口時計店」はある。店主の江口大介さんがこの地に店を構えてから、ちょうど10年が経った。今でこそヴィンテージ・カルティエの聖地として国内外から注目を集めるが、江口さんのキャリアのスタートは、時計業界の主流とは全く異なる場所にあった。
「僕のビジネスの原点は、2004年まで遡ります。当時、フェラーリやポルシェの未走行車をアジアから輸入する一人社長の下で働いていました。出張といえばファーストクラス、宿泊はリッツ・カールトンのスイートルーム。20代前半で、信じられないようなラグジュアリーの世界を間近に見ました」
しかし、江口さんのもう一つのルーツは、その華やかさとは対極にある。
「生まれは南千住。実家の裏では『泥棒市』と呼ばれるフリーマーケットが開かれていました。そこでは片方のスニーカーから、誰かが着古したエルメスの洋服までが雑多に並んでいる。もらった古いパソコンとデジカメを使い、その市で仕入れたものを当時まだ黎明期だったネットオークションで売ることから僕の商売は始まりました」
最高級の新品が持つ輝きと、二次流通市場で蠢く「価値の原石」。この両極端な視点こそが、後に「目利き」と呼ばれる江口さんの感性を形作った。
「ブランド品の中古にも、確かな価値がある。それを確信してからは、アルマーニのスーツを500円で仕入れて3万円で卸すような、二次流通の面白さにのめり込んでいきました。表参道のブティックに並ぶ最新作をチェックしつつ、それが中古市場でどう評価されるのか。そのギャップの中に、常にチャンスを探していました」
カルティエという「カウンターカルチャー」
二次流通を主軸にしたファッションビジネスを経て、江口さんが時計の世界に本格的に足を踏み入れたのは2010年代前半のことだ。当時の時計マーケットは、ロレックスを筆頭とするスポーツモデルが圧倒的な人気を誇っていた。その中で江口さんが選んだのは、意外にも「カルティエ」のドレスウォッチだった。

「ほんの10年前まで、日本の男性用腕時計業界でカルティエは、きちんと評価されていなかったんです。『ジュエラーの時計であって、時計屋の時計じゃない』と。でも、歴史を紐解けば、彼らがいかに真剣に、エレガントな時計作りに向き合ってきたかは明白でした。評価が異常に低い。だからこそ、ここに賭ける価値があると思ったんです」
それは、主流に対する「カウンターカルチャー」としての選択だった。
「みんながロレックスやパネライなどに走る中で、あえて金無垢のドレスウォッチをカジュアルに着こなす。そのスタイルが、ファッションに敏感な層に刺さる確信がありました。僕自身、洋服屋出身ですから、時計を単体のスペックではなく、装いの一部として見ていたんです」



その読みは的中する。「トゥモローランド」や「レショップ」といった、感度の高いセレクトショップでのポップアップを成功させると、マーケットの空気は一変した。ラグジュアリーをラグジュアリーとして扱うのではなく、パレットの上に無造作に並べるような、既存の枠に囚われない表現。江口さんが提示したのは、時計という「モノ」ではなく、それを取り巻く「スタイル」そのものだった。
コロナ禍が変えた「次元」と、パルコ店の挑戦
2020年、世界を襲ったコロナ禍は、時計マーケットに決定的な変化をもたらした。
「コロナ後の物価上昇は、時計においては凄まじいものでした。それまでは『新品が高いから中古を買う』という選択肢でしたが、今やヴィンテージそのものが巨大なラグジュアリーマーケットに飲み込まれてしまった。Apple Watchショックなんて言葉もありましたが、もはやそんな次元ではなくなった。家で過ごす時間が増え、自分の人生において長く所有すべき『資産価値のあるもの』を再考した結果、時計への注目が爆発したんです」
市場が過熱し、価格が高騰する中で、江口さんは2025年、渋谷パルコに新店舗をオープンさせた。松濤の隠れ家のような本店とは異なり、誰もがアクセスできる商業施設への出店。そこには、目利きとしての「社会的責任」があった。


「松濤の店は、どうしても敷居が高くなります。でも、これから時計を好きになる若い世代や、ファッション探索のついでに本物に触れたいという人たちのためのタッチポイント(接点)が必要だと思ったんです。パルコ店では、現実的な価格帯のオメガやIWC、ヴィンテージジュエリーも並べています。ヌビアンで最新のストリートウェアを買う若者が、ふと隣の僕らの店を見て、『いつかこんな時計が似合う大人になりたい』と思ってくれたら。それは業界への恩返しでもあるんです」
「目利き」とは、自らの美意識を信じ抜くこと
江口さんに「自身を目利きだと思いますか」と問うと、迷いなく「はい」と答えた。
「目利きというのは、流行っているからそれに従うのではなく、自分が美しいと思う価値観を基準として持っている人のことだと思います。僕が『これは良い』と言ったものが、マーケットの基準になっていく。幸いにもいま、その立ち位置に自分がいるという自覚はあります。そのためには、常にリスクを背負って、自分の身銭を切って仕入れ続けなければならない。ビジネスという真剣な場で、自分の感性を試し続けること。それが目利きであり続けるための条件です」

これからのトレンドについて、江口さんは「ドレスウォッチへの回帰」を予言する。
「ラグジュアリースポーツの全盛期を経て、マーケットはより穏やかで、品のあるスタイルを求め始めています。『ザ・ロウ』のような無国籍でクリーンな装いには、やはり繊細なドレスウォッチが合う。針がたくさんある計器のような時計から、シンプルで美しい時計へ。その流れは、一部の愛好家だけでなく、一般の層にも広がりつつあります」
10周年を迎え、江口時計店はさらなる高みを目指す。しかし、江口さん自身の野望は、意外なほど軽やかだ。
「売上を過剰に追いたいわけではありません。ただ、自分が良いと思うものを信じ、それを共感してくれる人たちと繋がっていく。時計屋の社長といえば、かつてはエキゾチックレザーの鞄を持って……というステレオタイプがありましたが、僕はもっと自由に、ファッションやカルチャーの文脈で時計を語り続けたい。新品を買うか中古を買うか迷った時、真っ先に相談に来てもらえるような、信頼される場所であり続けたいですね」
泥棒市で磨かれた嗅覚と、ラグジュアリーの真髄を知る審美眼。その二つが溶け合う江口氏の視線の先には、時代が変わっても色褪せない、本質的な「美しさ」の形が見えている。

江口大介(えぐち・だいすけ)
江口時計店 代表。1980年代生まれ。高級車輸入販売、ヴィンテージ衣料のバイイングを経て、2016年に「江口洋品店 江口時計店 松濤」を設立。独自の審美眼によるカルティエを中心としたドレスウォッチのセレクトで、時計界に新たな潮流を作る。2025年には渋谷パルコに新業態を出店。ファッションと時計を繋ぐキーパーソンとして多方面で活躍する。

江口洋品店 江口時計店 松濤
2016年に吉祥寺で創業し、2024年に渋谷区松濤へ移転した「江口洋品店 江口時計店」。ヴィンテージを中心に時計、洋服、ジュエリーを揃え、ものの背景にある作り手や使い手の物語を次の持ち主へとつなぐ。カルティエやロレックス、オメガなどを扱い、吉祥寺の自社工房と連携して修理にも対応する。時代の美意識に触れながら愛着の湧く一点を選び、手入れを重ねて使い続ける。そんな、ものとの長い付き合いを支えてくれる店だ。
所在地|東京都渋谷区松濤1-28-6
電話|03-5422-3070
営業時間|11:00〜19:00
定休日|火曜
来店|要予約
電話|03-5422-3070
営業時間|11:00〜19:00
定休日|火曜
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