スタイリスト祐真朋樹氏が語る 私のアルマーニ体験
FASHION / MEN
2015年5月8日

スタイリスト祐真朋樹氏が語る 私のアルマーニ体験

スタイリスト祐真朋樹氏が語る

私のアルマーニ体験

広告や雑誌など八面六臂の活躍をしている、日本をそしてアジアを代表する人気スタイリスト、祐真朋樹氏。果たしてアルマーニと、どんなふうに出会いどんな印象をおもちなのか…。海外へ行かれる直前のご多忙のなか、コンセプトショップであるアルマーニ / 銀座タワーでお話を伺った。めったに聞けない、貴重なエピソード満載!

Photos by HATANAKA KiyotakaText by NUKUI Jun

はじめてのアルマーニとの出会い

ちょっと記憶が曖昧なんですけれども、このお話をいただいて、若い時に着ている写真ないかなって、アルバムを見ていたんですよ。そうしたら、たぶんアルマーニのシャツだと思う写真を発見しました! ユニックかアルマーニかが微妙なんですけど(笑)。18歳くらいで、東京に遊びに来ている時の写真なんです。シャンブレーのボタンダウンで、衿が小さめで。 それがたぶん私が所有した最初のアルマーニであるはずです。

で、そのあと19歳の10月19日だったかな、バイクで交通事故に遭ったんですよね(笑)。入院するんですけど、頭蓋骨陥没っていう結構な重傷でした。ほとんど2カ月くらい意識不明でした。その事故の前に兄が結婚していまして、新婚旅行に行っていた時のイタリアのお土産に、買ってきてくれたのがジョルジオのシャツだったんです。2枚買ってきてくれていたんですね。それは意識が戻って退院してから、病院で喜んで着ていたような、そんな記憶がありますね。

――それはどんなシャツだったんですか?

一つは当時としては珍しいんですけど、シルクジャージーみたいな素材でした。あまり台襟がなくて、ボタンがちょっと大きめで。茶色とベージュのマーブルのような柄ですね。もう一つはストライプで、タブカラーの、すごいビッグシルエットのシャツです。その当時、1984年ですから……袖の付け根幅が広いドルマンスリーブ的なものだったと思います。写真があるのは、最初にお話したユニックかエンポリオかわからないブルーのものと、ストライプのものはあるかな。

――この頃はまだ京都にいらっしゃって、ポパイで仕事をはじめる前ですね。

そうです、前ですね。そのあとはいつだったかなあ。スーツを買いました。23歳の夏だったと思うんですけど、香港に行ったんですよ、たしか。またはその年のクリスマスにニューヨークに行った時か、どちらかは危ういんですけど(笑)。白地に黒文字が入った、ディフュージョンライン白タグのホワイトレーベルのスーツを買ったんですよね。ブラックじゃなくて。じつは帰国してからバカにされたんですけど。「白じゃん、ソレ」って(笑)。「えーなんか違いがあんの?」って。まぁ、いわゆるコマーシャルラインですよね。でもやっぱりカタチはキレイなんですよ。ちょっとびっくりしました。「あ、ほかとはこんなに違うんだ」って思いました。ネイビーの普通のスーツを買ったんですけど、あのよさはよく覚えていますね。

――香港はポパイのお仕事ですか?

香港は取材で行ったんですよ。その年のクリスマスのニューヨークは、遊びで行ったんですけど。ニューヨークではバーニーズとかでアルマーニを買ったと思うんですけどね。1988年ですね。

――買われたネイビースーツの形はどんなものですか?

2つボタンでしたね、普通の。白ラベルはたぶんビジネスマン向けだったんだと思うんですけど、そんなにシルエットは太くなかったと思います。いまみたいに細いものではないですけど、肩がしっかりあって、パンツもそんなに細くはないですね。いわゆるダボダボではなくて、パンツにはちゃんとセンタークリースのあるスーツです。

――どういう時に着られていたのですか?

うーん普通に(笑)。何なんですかねああいう時って。毎日飲みに行くようなところに着て行って、「どうしたの?  その服?」とか言われて、「えーっ?  なにかヘン? アルマーニだけど」みたいな(笑)。でも知っている人が見ると「あ、いい服着ているね」って。「でしょ?」みたいな話にはなっていましたね。「かっこいいじゃん」って言われもしたんですが、飲み屋に行くと「どうした?」みたいな。「職業変わったの?」みたいな(笑)。

――その後はどんなアルマーニ体験をされましたか。

その後コートを買ったんですよ。このコートがかっこよくて。ジョルジオの特徴的な部分といえる、チンストラップがビューと出ていて。あとシルエットがドーンってデカイんですけど、比翼仕立てのステンカラーみたいな感じでしたね。わりとマキシコートぐらい着丈が長くて、すごい気に入って着ていましたね、ずっと。90年になってないか……89年くらいですかね。たぶんニューヨークで買ったんですね。で、芝浦のクラブのゴールドとかに着て行って、また「どうしたの?」っていわれて(笑)。「なんでそんなの着てんの?」みたいな。みんなTシャツとかじゃないですか。「ロッカー入れれば」とか言われて。「やだ」みたいな(笑)。クラブでコート着ていましたね。不自然でしたね。そういうのは覚えてます(笑)。

――その頃はもうスタイリストをされていたんですよね?

もちろん! いやもうさっきのスーツの時にはしていましたよ、スタイリスト。スタイリストっぽくなかったんでしょうね、たぶんそういう格好が。何がスタイリストっぽいかはわかりませんが……あの当時は何だろうなあ……みんなとりあえず黒っぽいじゃないすか全員(笑)。そんな感じだったんですね。黒Tとか。

――コートは何色だったのですか?

アイボリーというか……ベージュと白の間くらいの……きれいでしたよ。どこ行っちゃったんだろうな。そんな黒全盛の時代でしたから、色的にも浮いていたんでしょうね。特にクラブにおいて、「何なのソレ」みたいな(笑)。その当時ジョッパーズはいてたんですよ。エンポリオだったと思うんですけど。93年くらいですね。ジョッパーズはいて、エンポリオのロングブーツ履いて。ヴェストはドルチェ(&ガッバーナ)着ていましたけど。あとはアルマーニのレザーのアウターでした。また「どうしたの?」って言われて。
「どうしたの」攻撃受けまくってました。

――周りにジョッパーズ穿いている人はいなかったんですか?

そんなやつはいなかったですねえ。ヴィンテージブームで、みんなジーパンですよ。いわゆるビッグEブームでしたね、93年くらいまで。みんなハーブ・リッツTシャツとかブルース・ウェバーTシャツとか着てましたね。野口強さんがそれを見て、「どこで買うたんや!」「ニューヨーク!」みたいな。あれ、でもそれはもっと前か。88年くらいか。ちょっと記憶が交錯していますが(笑)。そう、ジョッパーズはちょっとおもしろかったですね。ジョッパーズはいて、早朝野球行ってました。

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私のアルマーニ体験

――早朝野球にジョッパーズですか?

みんなで野球チーム作っていたんですよ。馬場(圭介)さんとか、野口強さんとか。朝6~8時くらいで世田谷公園に行くんですよ。終わって朝ごはん食べたらリース行かなくちゃいけないから、野球から直接リース。練馬に住んでいたから家に帰る時間がないので、終わったらベンチでユニフォーム脱いで、ジョッパーズはいて(笑)。「次は馬でも乗るのか」みたいな。

あ、そうだ、思い出した! さっきのコートはミラノで買ったんですよ。わかった! 88年ですね。年明けにミラノに行くんですよ。初めてのイタリアでした。ちょうど88年1月の照明落下事故で閉店したディスコ、トゥーリアの事故の時に、フィレンツェかミラノにいたんですよ。ホテルに友達から電話がかかってきて、「トゥーリアで人が死んだ~!!」「ええ~!?」みたいな。暮れにトゥーリアで遊んでいたんですよ。

1月の2日か3日にイタリアに行って。ローマ、フィレンツェ、ミラノの順だったかな。「ちょっと、東京は大変なことになっているなあ」なんて話しながら。それでミラノのアルマーニのお店に行ったんですね。それでコートを買いました。あぁー、思い出した。喜多尾(祥之)くんと遊びで行ったイタリアでしたね。二人で「どっか行こう」「どこかな?」「イタリアじゃないやっぱり」とか、すごいいい加減に決めて行きました。その当時、喜多尾くんと自分が、ポパイ編集部で一番若かったんですよ。で二人とも浮いていて。遊ぶ人もいないし、結構二人で一緒にいたんですよね。「どっか行かなきゃいけないんじゃね?」とか言って。周囲はパリに向いていたんですが、「イタリアか?」「ハズしとく?」みたいな(笑)。若かったですからね。僕が22歳、喜多尾くんが21歳。喜多尾くんはマメで慎重だから、ホテルを事前に調べてくれました。「祐ちゃん、ホテルは4つ星以上じゃないとダメだね。イタリアは危険だよ」「おー、じゃそうしようよ。取っといて」ってまかせました。
珍道中でしたねえ。その頃から喜多尾くんは、食にものすごい関心がありましたね。いまも本を出したぐらいだし。

――そのとき買われたのはコートだけですか?
うーん、覚えてないですねえ……ストールなんか買ったような気もしますけど。サングラスとか……。アルマーニのサングラスも結構気に入っていて、丸いタイプを掛けていましたね。今もあるのかな。フレームが茶系のべっ甲柄で、レンズがグリーンのやつでした。

――アルマーニのどんな部分が気になっていましたか?

アルマーニで一番衝撃的だったのはシルエットですね。ジャケットも、パンツも、シャツも。最初のころに感動したのは、そういったシルエットです。シャツのドレープとか、ジャケットのショルダーのラインですね。今思えば。当時の普通のシャツとか、“パリパリ”な印象しかなかったですからね、18歳くらいまで。でも、アルマーニは、ちょっとブラウスみたいな感覚だったんですかねえ。普通のカジュアルなシャツなのにそういうことになっているのが、びっくりしたかなあ。シャツを着てびっくりするようなことってないですからね。若かったというのはもちろんあるけど。シャツのドレープと、柔らかさですね。

――ミラノコレクション歴は、もう20年以上ですね。

ミラノはそうですね、年明け12日とか14日とか16日とかに始まりますね。25~26歳くらいから、毎年通っています。24歳くらいから、最初はパリだけ行っていたんですよ。ミラノは91年くらいから行き出したんですね。

――アルマーニもずっとご覧になっているそうですね。

ずーっと見てきています。どんどん大きくなっていくじゃないですか。はじめは洋服のブランドだったものが、いまはホテルもできちゃうわけでしょ。そういう広がりに興味がありますね。おもしろいなあと思います。かっこいい服をつくっていた人が、かっこいい空間までつくるにいたるっていう過程が、すばらしいですね。コロンとかの香りも大好きです。結局、そこまでトータルのイメージがあって、モノづくりをしてきたということだと思います。

ただ服だけをみてつくってきたわけじゃないっていうところに、スケールの大きさとか、美意識や美学を感じますよね。マーティン・スコセッシ監督が、アルマーニ氏を描いた26分のドキュメンタリー『Made in Milan』もよかったですね。もちろん、アルマーニ エクスチェンジ、エンポリオ・アルマーニ、アルマーニ ジーンズなど、あたらしいラインデビューのときは、とりあえず一通りは着ています。

――アルマーニ氏に実際にお会いされたことはありますか?

それがないんです。ミラノとかでよくパーティの場でお見かけしていましたけどね。今は僕もあまり行かないけど、よく雑誌主催のパーティとかあるんですよ。行くと一人でアルマーニさんが白いスーツを着ているんですよ。「スゴイなこのひと、一人で来ている」みたいなね。クラブとかお見かけしましたよ。もう、10年くらい前ですけどね。

いつもコレクションを見ていて思うことが、ショーの最後にご本人が出てきてご挨拶されるんですけど、いつもすごく素敵なんですよね、フレッシュで。ああいうのがいいなあって思いますね。うまく言えないんだけど……そういう感じが気持ちいいんです。

祐真朋樹|SUKEZANE Tomoki
1965年京都市生まれ。マガジンハウスのPOPEYE編集部でファッションエディターとしてのキャリアをスタート。
現在は『POPEYE』『Casa BRUTUS』『MEN'S NON-NO』『ENGINE』『GQ』等のファッ
ションページのディレクションのほか、アーティストやスポーツ選手の広告のスタイ
リング等を手掛けている。パリとミラノのコレクション観覧歴はかれこれ20年にわたる。

Born in 1965 in Kyoto, Japan. He started his career as a fashion editor at POPEYE magazine of Magazine House.
Currently, he is working on various magazines such as POPEYE,Casa BRUTUS(Magazine
House), MEN'S NON NO (SHUEISHA), ENGINE(SHINCHOSHA), GQ(Conde Nast Japan)and
he is setting styling people such as artists and sport players in advertising.
He has been attending to Milan collection and Paris collection for over two decades.

ジョルジオ アルマーニ ジャパン
Tel. 03-6274-7070

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