祐真朋樹対談|Vol. 6「キャシディ ホーム グロウン」八木沢博幸さん
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原宿に僕の大好きな店がある。その名も「キャシディ ホーム グロウン」。この店の仕入れから販売まで、そのすべてを手がけるのが八木沢博幸さんだ。僕は八木沢さんを尊敬している。アメリカの洋服や雑貨が大好きで、その「好き」の延長で、30年もの長きに渡り、原宿で店をやってきた八木沢さん。マニュアルではない、誠実な接客も神業である。思えば僕は、上京してすぐのころから、ずっとお世話になってきた。今回はその八木沢さんに、仕事について、そしてほんのちょっとプライベートなことも、訊いてみた。
Interview by SUKEZANE Tomoki
学生時代の夢はグラフィックデザイナー、だったのだが……
祐真朋樹(以下、祐真) そもそも、「キャシディ」に入社したのは、いつごろなんですか?
八木沢博幸さん(以下、八木沢) 正式に入ったのは、たしか1979年ごろだったと思います。
祐真 正式っていうのは??
八木沢 最初はちょっと手伝っていたというか……。僕はお茶の水の東京デザイナー学院というところに行っていたんですね。グラフィックデザイナーになりたくて、グラフィックを勉強していたのですが、でも洋服も大好きな学生でした。当時は足立区のおばさんの家に居候して、そこから学校に通っていたので、途中、しょっちゅうアメ横で下りて、あちこち散策していました。舶来ものといえばアメ横、という時代です。そして、学校を出てから2年くらいはグラフィックの会社に勤めていたんですが、やっぱり洋服やりたいな、と思って。あれ、こんなにあちこち飛んじゃっていいのかな?
祐真 全然いいです(笑)。どんどん話してください。
八木沢 アメ横に通っていたころ、「ルーフ」っていうお店があったんですよ。
祐真 ありましたね!
八木沢 「ミウラ&サンズ」と「ルーフ」があって、そこにはよく通いました。今年、うちでも扱っていますが、「トレトン」とかもそこで買った思い出があります。
祐真 はいはい。
八木沢 そのころ、ルーフは社員を募集していたんです。それをアルバイトニュースか何かで見て、御徒町の「東京輸入商ビル」というところに面接に行きました。僕、アメリカものが好きだったんで、洋服や雑貨のインポートに係わる仕事に就けたらいいな、と思ったんです。でも面接で落とされて。そのときたまたま、いまの会社の社長(当時。現会長/以下同)が来ていて、「じゃあうちに来ないか」ということになりました。ちょうど原宿にお店を出そうかどうかというときだったんですね。当時は「ミドリヤ」という社名でした。あ、いまでもうちの会社の名前はミドリヤですけどね。
祐真 ん? ルーフとは全然関係なく、いまの会社の社長がその場にいたんですか?
八木沢 そうなんです。細かい話ですが、ルーフは小売りだけでなく卸しもしていて、うちの社長はそこから卸してもらっていたんですね。たまたま買い付けに来ていたところに僕が居合わせたという感じです。それが縁で、ということですね。
祐真 ああ、なるほど。それでミドリヤという会社に入社したんですね。洋服屋さんで働くのは、それがはじめてだったんですか?
八木沢 そうです。ミドリヤというのは「キャシディ」の親会社であり、当時、大井町にあった店の屋号でもありました。
祐真 それで八木沢さんは、原宿の店からスタートするわけですか?
八木沢 最初は大井町の店にいました。原宿の店はまだできて間もないころです。おなじ時期に、同い歳のTさんという方がいて、彼は僕が落ちたルーフに採用になったんですが、もともと大井町のミドリヤの常連さんだったんですよね。
祐真 なるほど。
八木沢 「バラクータ」や「トップサイダー」をたくさん持ってるお洒落なひとで。彼は常連さんだったこともあり、じつはミドリヤに入りたかったらしいんですが、ルーフに採用になりました。僕よりずっと知識もあって、たくさん話題のアイテムも持っていたんです。彼はいま、三軒茶屋で自分のお店をやってます。
祐真 あ、僕、その方知ってるかも。京都出身の方ですよね
八木沢 そうそう。お洒落でハキハキした方です。ルーフとミドリヤの社長ふたりが話し合って、「八木沢はおとなしいんで大井町、Tはテキパキしてるからアメ横がいいんじゃないか」ということで、そういう採用になったそうです。この話は、ごく最近知ったことなんですけどね(笑)。
祐真 せっかくグラフィックの勉強をしたのに、結局、洋服のほうに移っていったというのは何だったんでしょうね? 自分が着る服にすごく興味があったということですか?
八木沢 う~ん、なんなんでしょうねぇ。もともと雑誌『流行通信』とか、「PARCO」の広告のグラフィックが好きだったんです。山口はるみさんの作品とか。あと『花椿』も大好きでした。化粧品にはまったく興味はなかったんですが、グラフィックとかタイポグラフィーが素晴らしくてね。考えてみれば、僕の好きなグラフィックの作品って、全部ファッションとリンクしていたんですよね。操上和美さんとか浅葉克己さんの作品にも、とても影響を受けました。そういうものを見ているうちに、どんどん洋服のほうに惹かれていってしまいました。
祐真 八木沢さんが入ったグラフィックの会社は、そういうものは作っていなかったんですか?
八木沢 そうなんですよね。学生のころは、講師の先生の口利きで、『平凡』だったか『明星』だったかの歌本のレイアウトなんかのアルバイトをしていました。会社に入ってからは、写植といって、文字の切り貼りなどをさせられまして、「なんか、思っていたグラフィックとちがうな~」という思いが募りましたね(苦笑)。ただ、その会社のトップはアメリカに滞在経験のある方で、事務所には海外の雑誌がいっぱいあったんです。アメリカの『GQ』とか『Esquire』とかがたくさん見られて、「あ~、やっぱり洋服の世界っていいな~」と憧れました。
でも実際やってたのは、ピンセットで細かい活字を拾う仕事ですからね。ひらがなの「は」の右と左の間隔を詰める、とかね。徹夜も多かったし、印刷の世界は甘くはありませんでした。つまり、グラフィックというよりむしろ、印刷の世界だったんですね。なので、そこではいわゆるグラフィックは全然学べなかったけど、物を作る大変さだけは学んだと思います。印刷物って、みんな普段、当たり前のように見ているけれど、出来上がるまでは大変なんだな~とわかりました。
祐真 へ~。ところで八木沢さんが実際に自分のファッションに興味をもちだしたのは、いつごろからなんですか?
八木沢 僕は東京で生まれたんですが、子供のころは栃木で過ごしました。日光のすぐそばなんですが。日光高校を出て、また東京に来たんです。
祐真 東京のどのへんで生まれたんですか?
八木沢 日本橋浜町の近くです。でも生まれてすぐ川口に移って、そのあとまた小学校に入るころに日光の近くに引っ越したんです。なので、東京生まれではあるんですが、田舎者なんです。
祐真 日光で中学・高校と過ごしたんですね。
八木沢 はい。日光って、観光に来る外人さんもいっぱいいるんですよね。東照宮とかを見に。だから、田舎なんだけど、超おしゃれな外人さんの洋服はたくさん見てました。バスの中から、おしゃれな外人ウォッチングして「いいな、いいな」と思ってました。そういうひとたちの影響をすごく受けましたね。
祐真 アメリカ人が多かったんですか?
八木沢 アメリカ人なのかヨーロッパの人なのかは判別がつかなかったんですけど、東武鉄道の駅にいると、外人さんがバーっと降りてくるんですよね。「外人」ってひとくくりにしたら失礼ですけど(笑)。
祐真 ‘70年代中盤ですかね?
八木沢 そうです。『MADE IN USAカタログ』なんかが出る前です。
祐真 となると、もう何にもなかった時代ですもんね。
八木沢 そうです。学校の帰りにそのまま東武線に乗って、アメ横までよく行ってました。
祐真 そのころ、最初に買ったものってなんですか?
八木沢 「SEBAGO(セバゴ)」のペニーローファーです。本当は「BASS(バス)」のが欲しかったんですが、バスを買っちゃうと帰りの電車代が足りなくなっちゃって(笑)。
祐真 セバゴのほうが安かったんですね(笑)。
八木沢 ええ。「はなかわ」という店で買いました。覚えています。
祐真 何色を買ったんですか?
八木沢 茶色です。でも学校は黒しか履いちゃいけなかったんで、結局ほとんど履きませんでした。
祐真 そのころはもう、雑誌の『MEN’S CLUB』はあったんですか?
八木沢 ありました。読んでましたね。
祐真 当時、ファッションの情報はどこから得てたんですか? 雑誌ですか?
八木沢 雑誌もそうですが、やっぱりお店のスタッフからの情報が大きかったですね。
祐真 ミュージシャンとかからも影響を受けましたか?
八木沢 ん~、むしろテレビですかね?
祐真 外国ドラマですか? 『わんぱくフリッパー』とか??
八木沢 (笑)そうですね、『じゃじゃ馬億万長者』とか(笑)。カウボーイが出てくるドラマとか、『スーパーマン』とか『ペイトンプレイス物語』とかを観ていましたね。かっこいいな~と思いながら観ていました。
祐真 映画もたくさん観ました?
八木沢 映画はあんまり観なかったですね。18歳で東京に出てきてからは、たくさん観ましたけどね。
祐真 なるほど。高校生のころ、学校が休みの日はどんな格好をしていたんですか?
八木沢 僕はバスケットボール部だったので、毎日がバスケットボール漬けでしたね。
祐真 ああ、背がありますもんね。何センチですか?
八木沢 180cmですね。歳をとって、ちょっと縮んじゃったかもしれないけど。バスケ部のなかでは一番ちっちゃかったです。一応レギュラーだったんですが、運動神経がいい奴はみんなアイスホッケー部に入ってたので、あんまり強いチームではなかったですね。
祐真 へえ。バスケとかアイスホッケーとか、アメリカの学生がしているスポーツ、って感じがしますが、そのあたりの興味もあったんですかね? かたちに憧れる、みたいな。
八木沢 まさしく僕はそうでした(笑)。
祐真 「スーパースター」とか履いてたんですか?
八木沢 スーパースターのハイカットは、当時「プロモデル」という名前で呼ばれていて、それは高田馬場まで買いに行きましたね。店名を忘れてしまいましたが、バスケの専門店があったんです。
祐真 へ~。
八木沢 格好から入ってましたね。でもうちの高校の体育館はスーパースターだと滑っちゃって(笑)。「オニツカ」とかのほうが全然よかったみたいです。
祐真 僕の中学時代も、バスケ部の友だちはみんなオニツカを履かされてましたね。彼らは「ファブレ」というモデルを履いてた記憶があります。
八木沢 当時の高校バスケは明大中野が強くて、明大中野の連中はみんなオニツカを履いてました。「なんだ、やっぱりオニツカじゃん」みたいな(笑)。アディダスは一蹴されました。
祐真 洋服で当時買ったものって覚えてますか?
八木沢 僕、兄がいるんですけど、僕とちがって、兄は「JUN(ジュン)」とか「DOMON(ドモン)」とか、そういうブランドが大好きだったんです。
祐真 お~、コンポラですね~。お兄さんは何歳上なんですか?
八木沢 3つ上です。アニキは僕とは趣味もちがうし、洋服にそれほど興味もなかったみたいなんですが、でも当時はアニキのお下がりをもらうしかなかったんですよね。
祐真 お兄さんの身長は?
八木沢 おなじくらいです。高校に、兄のお下がりの衿の長いジュンのシャツを着ていって怒られたこともありました。
祐真 へ~、おもしろいですね。ジュンのシャツを着ているときの、八木沢さんの心中はどんな感じだったんですか?
八木沢 そのころ、ジュンはすごく格好いい広告がテレビでも流れていて、あれには憧れました。憧れはしたんですが、「田舎にこれはないな」とも思っていました(笑)。エレガント過ぎて。
祐真 リチャード・アヴェドンですもんね。
八木沢 かっこよかったですよね。衝撃でした。あのころ、ジュンとか「RENOWN(レナウン)」とか、広告がめちゃめちゃ格好良かったですよね。むしろ洋服よりカッコよかった。
祐真 そうですよね。でもカッコいい広告って大事ですよね。
八木沢 ええ。ビジュアルは大事だと思います。
祐真 ビジュアルと言えば、店に飾ってある八木沢さんのデザイン画が僕はすごく好きなんですけど、あれはどういうときに描くんですか?
八木沢 僕はファッションドローイングは習ったことないんで、自己流なんです。その時々の商品からイメージするものを勝手に描いています。
祐真 あれは何を使って描いているんですか?
八木沢 水彩だったりパステルだったりクレヨンだったり……まあいろいろです。家でササッと描いてます。おじいちゃんのドローイングみたいに(笑)。
祐真 これまでの作品は全部ファイリングしてたりするんですか?
八木沢 いやいや、そんなことしてないです。
祐真 ちゃんとファイリングしたほうがいいんじゃないですか? 僕、すごく好きです。
八木沢 たまに「欲しい」なんて言ってくれる人もいて、そういうときにはカラーコピーして渡してます。集めてたりするひともいるんです、ありがたいことに。
祐真 へ~。その気持ちわかります。今度、僕にもください。
八木沢 いやいや、そんな大層なものじゃないんですけどね。
Page.2 八木沢さん、グラフィックからファッションの世界へ
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八木沢さん、グラフィックからファッションの世界へ
祐真 そして、いよいよ「キャシディ」の時代がくるわけですよね。キャシディというネーミングはどこからきたんですか?
八木沢 僕が勝手に考えて、社長に「キャシディという名前にしましょう」と言ったら、「じゃあそうしようか」ということになりました。提案したはいいけど、いざ決まると「えっ、大丈夫なのかな」と心配になりましたけどね(苦笑)。
祐真 その名前にはどういうバックグラウンドがあるんですか?
八木沢 僕、ラルフ・ローレンが大好きで、彼のインタビューを海外の雑誌で読んだんですよね。たしか『NEW YORK MAGAZINE』だったと思います。彼が幼少のころの話をしているところがあり、「何に憧れましたか」と質問されて、「フランク・シナトラやジョー・ディマジオにも普通に憧れたけど、でも、ホパロングキャシディ(※1)にはなれないよね」と答えるくだりがあったんです。そのときは “ホパロングキャシディ” が何なのかわからなかったんで調べました。そしたら、テレビドラマの主人公の名前だったんですね。戦後、多分1950年代にロバート・ミッチャムが演じていたようです。西部劇のヒーローで正義の味方。黒ずくめのカウボーイで、当時としてはすごくアバンギャルドな格好でした。なんでも「ローンレンジャー」の元になった作品だということでした。ラルフ・ローレンは子供のころにそれを見ていて憧れてたそうです。それを思い出して、「かっこいいじゃん」と思って(笑)。
祐真 へ~。その番組、僕は全然知りませんでした。
八木沢 でもそれだけで決めるというのもどうかと思って、知人に調べてもらったら、キャシディというのはアイルランド系にしかない名前だということがわかりました。で、うちの会社はミドリヤというんですが、アイリッシュグリーン(アイルランドのシンボルカラー)ともかけた名前になるし、いいんじゃないかな、と思いました。社長も「いいんじゃないか」と言ってくれまして。なんか安直に決まったんですよね(笑)。
祐真 あはは。社長はラクでしたね。八木沢さんが名前まで考えてくれて。僕、キャシディっていい名前だと思います。響きがいいし、覚えやすくて忘れない。
八木沢 ああ、でも「レディスの店?」って、むかしはよく言われました。「かわいい名前なんで」って。「キャンディ??」って訊かれたこともありましたね。
祐真 僕、昨日、この対談の質問項目を作ったんですが、今日見たら「キャンティ」になってました(笑)。
八木沢 ああ(笑)、よくあることです。店にも「キャンディさんですか?」と電話が掛かってくることがあります。「はい」って言ったりしてます(笑)。
祐真 その『HOPALONG CASSIDY』、僕も見てみたいですね。
八木沢 そうですよね。僕もビデオとかDVDとか出てないかと思っていろいろ探したんですが、ないんですよね。インターネットで検索すると、画像は出てくるんですが。たしかに黒ずくめのカウボーイですね。聞くところによると、「Wrangler(ラングラー)」が「ホパロング キャシディモデル」というブラックデニムとジージャンを出していたそうです。実際に見たことはないんですけど。
祐真 へ~。それくらい人気のあったテレビドラマだった、ってことですよね。
八木沢 そうです。いまの70代、80代のアメリカ人にとっては絶大なヒーローだったようです。ニューヨークに行ったときに現地のひとに訊いてみたことがあるんですが、みんな「いや~、それはそれは素晴らしいヒーローだったよ」と口を揃えて言ってました。ラルフ・ローレンも憧れるくらいだから、さぞカッコ良かったんだと思います。
祐真 でしょうね。ところで店の品揃えというのは、当時から現在のようなセレクト系だったんですか?
八木沢 ちょっと詳しく説明すると、もともと社長のお母さんが大井町で洋品店をしていたんです。いわゆる街の洋品屋さんです。社長は僕より10歳くらい上なんですが、彼も当時、アメリカものが大好きで、そこが僕と共通するところだったんですね。でもツテもなく、それでアメ横のルーフなどから卸してもらっていたんですね。「Baracuta(バラクータ)」とか「CONVERSE(コンバース)」とか「Keds(ケッズ)」とか、いわゆる普通のアメリカものを店に並べたいということで頑張っていたんです。そこで社長が目をつけたのが原宿でした。いま思えば、うちの社長はすごく先見の明があったと思います。「原宿に店を出そう」ということになりました。
祐真 当時の原宿は、いまとは全然ちがってたんでしょうね。
八木沢 「ビームス」さんはもうありましたね。あとは「ハレイワ」というサーフショップ。それから「ストーミー」もありました。
祐真 はあ~。
八木沢 あと、トラッドな店では「クルーズ」もありましたね。明治通りと表参道の交差点のビルの2階に。それから「バークレー」もセントラルアパートにありました。その後は続々といろんな店ができていくわけですが。
祐真 ああ、ありましたね~。社長は「これからは原宿だ」と思ったわけですね。当時、八木沢さんは原宿をどう思っていたんですか?
八木沢 よくわかんなかったですね。はじめて原宿の予定地を見にきたときは、近くに「ブティック竹の子」や「4℃」なんかがありましたね。
祐真 竹の子族ね~、ありましたね(笑)。僕がキャシディにはじめて行ったのは、当時ビームスにいた星名さんに連れられてだったと思います。
八木沢 あ~、あれはあっちの店(※2)ですね。キャシディってそもそもは、いま「キャシディ ホームグロウン」があるところではじめたんですよ。数年そこでやっていたんですが、なにぶん狭くて、それでいまの本店のところに移ったんです。
祐真 あ、そうなんですか。
八木沢 ええ。発祥の地はあそこです。「ホームグロウン」と付けたのもそこからきています。
祐真 なるほど。ホームグロウンができる前は、あの場所、どうしていたんですか?
八木沢 ずっと持ってはいたんです。事務所に使ったり倉庫で使ったりしていました。でも2010年に、「もうあの場所、返しちゃおうか」という話が出たんですね。もう本店一本でいいか、という話が。耐震の心配なんかもあってのことだったんですが、調べたら、ちょっと補強を入れればまだ大丈夫そうだという話になり、「それじゃ、僕ももう歳だし、こっちでちょこっと、窓際族みたいな感じでやらせてくれないかな」ということで、やらせてもらうことになりました。
Page.3 80年代は頻繁にアメリカへ。心躍る買い付けの日々
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80年代は頻繁にアメリカへ。心躍る買い付けの日々
祐真 僕が東京に出てきたのは1986年なんですが、そのころは八木沢さん、海外にバイイングにも行ってらっしゃいましたよね。
八木沢 ええ。ニューヨークとかに行かせてもらってました。
祐真 当時、アメリカで気になった店とか、ありましたか?
八木沢 最初に社長といっしょに行かせてもらったのはLAとサンフランシスコでしたね。憧れのアメリカだったんで見るものすべてに感動したんですが、なかでも一番びっくりしたのは、ロデオドライブにあった「ジェリー・マグニン」でした。店の半分にラルフ ローレンを置き、あとの半分にほかのセレクトものを置いていました。
祐真 ああ、ジェリー・マグニンねえ。
八木沢 あとマリーナ・デル・レイの「ゲイリーズ」というお店。スーツを置いている店でしたが、行くと「ワイン飲め」とか「シャンパン飲め」とか勧められて、「へえ、こういう店があるのか」と思いました。単に物を売るだけでなく、居心地の良さというのも店の重要な要素なんだということを、あそこで学んだ気がします。
祐真 そんな店、日本にはなかったですもんね。
八木沢 最初のうちは西海岸が仕入れのベースでしたが、そのうちニューヨークに興味が湧いてきて、ずうずうしくも社長に「僕、ニューヨークものをいっぱいやりたいんですけど」と言いました。当時はニューヨークのデザイナーが台頭してきた時期で。
祐真 なるほど。
八木沢 ラルフ ローレンはすでに西武が契約していたんでできませんでしたが、ラルフ ローレンから出た「CESARANI(セザラニ)」とか、「ROBERT STOCK(ロバート・ストック)」とか、「JEFFREY BANKS(ジェフリー・バンクス)」とか、そういうのを見たかったんです。もちろんそれ以外のブランドも。当時、日本にも代理店契約している会社はありましたが、現地に行けば直接買えるブランドもあるというので、ぜひ行きたかったんですよね。
祐真 それでニューヨークに行くことになるわけですね。
八木沢 はい。「TRAFALGER(トラファルガー)」とか「Ghurka(グルカ)」とか、「Willis & Geiger(ウィリス&ガイガー)」とかも見に行きました。当時はプラザホテルの中で展示会が開かれていました。各部屋にデザイナーがいて、商品を見せてくれてました。
祐真 へえ、プラザホテルが会場だったんですね。
八木沢 優雅なホテルで、優雅な雰囲気で見せてましたね。買い付けに行くのが楽しかったです。アラン・フラッサーとか、「シャリバリ」のバイヤーとかにも会いました。その後、会場はいろいろ変わって、いまはなんていうんでしたっけ? ピアなんとかという、コンベンションセンターみたいなところでやるから味気なくなっちゃいましたが。
祐真 シャリバリ、なつかしいですね~。一時期、東京にもありましたよね。
八木沢 誰かのインタビューを読んでいたら、マーク・ジェイコブスはむかし、シャリバリで働いていたと書いてありました。
祐真 へえ、そうなんですか。ニューヨークは西海岸とはやっぱりちがいましたか?
八木沢 雰囲気がまるでちがってましたね。当時はニューヨークにも小さいセレクトショップがたくさんあったんですね。「ピーター・エリオット」とか「レイサムハウス」とか……。洒落てました。
祐真 もちろん「バーグドルフ グッドマン」もありましたよね。
八木沢 ありましたが、当時はメンズはありませんでした。
祐真 ああ、そうか。
八木沢 「バーグドルフ」の向かいには、「ボーンウィット・テイラー」というデパートがありました。
祐真 「バーニーズ ニューヨーク」はもうあったでしょ?
八木沢 ありました。「Yohji Yamamoto(ヨウジヤマモト)」とか「MATSUDA(マツダ)」とか、日本のものもすでに置いてありました。57丁目の「サリスバリー」というホテルに泊まって、食事はピッツァばっかり食べてましたね(笑)。ニューヨークは楽しかったです。「これ、ホントに売れるかな」と思うような非現実的なものも多かったけど、夢がありました。
祐真 買い付けするとき、八木沢さんの優先順位はなんですか?
八木沢 当時はとにかく最新のものを、ほかではやっていないものを仕入れたい、抜きん出たいという気持ちがありましたね。
祐真 ほかの日本のバイヤーさんたちにも、ニューヨークではよく会いましたか?
八木沢 当時はほかのバイヤーさんというよりは商社の方々によく会いました。「JOSEPH ABBOUD(ジョセフ・アブード)」にはじめて行ったときも、「日本の商社はよく来るけど、店単位で来たひとは、はじめてだ」と言われました。「NAUTICA(ノーティカ)」に行ったときも、向こうは商社ベースの商談のつもりで来ているから、まず僕が店単位で来たというのに驚き、次にうちの店の広さを言ったらまた仰天され(笑)。「本当に買うのか?」「でもせっかく来たんだから売ってやるか」と言われました。
祐真 やさしい。
八木沢 ええ、当時のニューヨークは寛容でした。
祐真 いまはもう海外の買い付けには行かれないのですか?
八木沢 ニューヨークとかは行かなくなりましたが、国内の展示会は行っています。いまは自分が着たいと思うものだけを仕入れてます。好きな物だけを売っています。
祐真 キャシディ ホームグロウンは、なんというか、八木沢さんのクローゼットを見せてもらってる感じがします。
八木沢 まさにそんな感じです。むかしはいろいろ失敗しましたからね。
祐真 たとえば?
八木沢 渋カジブームのころ、「ROCKMOUNT(ロックマウント)」というコロラドのブランドのウェスタンシャツを600枚仕入れたらすぐに売れちゃったんですね。それで調子にのって追加を仕入れたら大失敗しました。考えてみれば、僕はウェスタンシャツ、着ないんです。自分で着もしないのに、単に流行っているからやろうというのが、まちがいでした。
祐真 ウェスタンってちょっと恐いアイテムが多いですよね(笑)。いくときゃいくけど、ダメになるとパタッとダメになる。ところで、オリジナルはいつからはじめられたんですか?
八木沢 2010年からです。僕が好きなものを作っているので、「もし合えばどうぞ」という感じです。
祐真 八木沢さんのテイストが好きなひとは、いっぱいいると思います。
八木沢 原宿にはおっさんが入りにくい店が多いから、おっさんも入れる店にしようと思って作ったんですが、以外と若者が多いんですよね。もちろん僕より先輩も来てくれるし、その息子さんも来てくれるし。20代も60代も来ていただける店になりました。うれしいことです。
祐真 いつも感心するのは、セレクト力もさることながら、ディスプレイのおもしろさです。そのアイテムが最大限に魅力的に見える置き方になっている。
八木沢 単に狭いから物がギシギシに入ってるだけですよ。
祐真 いやいや。おなじアイテムでも、ほかの店で見たときにはさほど興味がわかなかったのに、八木沢さんの店で見ると買いたくなったりします。
八木沢 うれしいです。でも本当に自分が好きなセレクションでやっているだけなんです。たとえば僕は膝が悪いんで、靴は履きやすさが一番のポイント。疲れない靴が好きなので、革底は置いてません。自分が実際に履いて「いいものだ」と思ったものじゃないと、お客さんには勧められませんからね。
祐真 「ジャック・パーセル」もいいですよね。八木沢さん、今日も履いてらっしゃいますけど。
八木沢 ヘミングウェイが1941年に新婚旅行でハワイのワイキキに行ったときの写真で、「ジャック・パーセル」を履いているものがあるんです。山口淳さんの『ヘミングウェイの流儀』で読みました。「ああそうなんだ。カッコいいな〜」と思って。
祐真 それ、僕も読みました。おもしろかったですよね。八木沢さん、映画もたくさん観るんですか?
八木沢 映画を観まくったのはやっぱり学生時代ですね。あのころに比べるとそれほど観ているわけではありませんが、ウッディ・アレンは大好き。『アニーホール』以降が好きです。あと、サム・シェパードの映画が好きです。『フール・フォー・ラブ』も『ライトスタッフ』も大好きです。脚本を書いた『パリ・テキサス』も好きでした。
祐真 サム・シェパードは格好いいですよね。ブルース・ウェバーが撮った写真集もいいですよね。
八木沢 あ、僕も買いました。ジェシカ・ラングといっしょのやつですよね。
祐真 イーストウッドとは、またちがった格好よさですよね。
八木沢 ああ、そうですね。でもサム・シェパードは『M』っていう雑誌で、「お洒落じゃないアメリカ人」のひとりに選ばれてました(笑)。「え~、お洒落じゃん」って思いますけどね。普通のアメリカンな感じで、すごくお洒落だと思いますよ。
祐真 「GAP(ギャップ)」のTシャツを着てそうな感じがいいですよね。そういえば、サム・シェパードは『8月の家族たち』にちょこっと出てましたね。メリル・ストリープの夫役で。さすがにおじいちゃんになりましたが、格好よく歳をとってました。
八木沢 へ~、それ見たいな。
祐真 最近は何を観ましたか?
八木沢 最近だとウェス・アンダーソンが好きです。『ファンタスティック Mr. FOX』から好きになって、『ムーンライズ・キングダム』、そして最新作『グランド・ブダペスト・ホテル』。
祐真 美術がいいですよね。ストーリーはどうですか?
八木沢 ストーリーは……服とか美術ばっかり見てるんで、あんまり覚えてないんですけど(笑)。バックにピンク使ったり、きれいなパープル使ったり、見ていて感心します。僕、あの感覚は祐真さんに近いな、と勝手に思ってるんですけどね。祐真さんの担当したページを見て、ウェス・アンダーソンの感覚と似てるな、と思ったりしてます。
祐真 『グランド・ブダペスト・ホテル』ではウィレム・デフォーが「PRADA(プラダ)」を着てましたね。
八木沢 あれ、すごかったですね。身体に張り付くような感じでしたね。でも、何かでウェス・アンダーソンのインタビューを読んだら、「洋服には興味がない」って書いてあって、「え~っ、相当こだわってるじゃん」って思いましたけど。
祐真 アメリカ人にとっては、「洋服なんてかまってない」っていうふうにするのが大事なんじゃないですか? まあ、見え見えでちょっと嫌らしいですけどね(苦笑)。ファッション誌は見ますか?
八木沢 祐真さんがやってるページは極力見るようにしてます。
祐真 ありがとうございます(笑)。
八木沢 でも雑誌はいっぱいありすぎてわかんなくなっちゃったりしてるんですけど。
祐真 たしかに、いっぱいありますよね~。
八木沢 むかし大好きだったアメリカの雑誌は、いまでもよく立ち読みしますけど、でも日本の雑誌のほうが圧倒的におもしろいと思いますね。
祐真 むかしからアメリカが好き、というのはよくわかりましたが、ヨーロッパ方面にはまったく興味はなかったんですか?
八木沢 実際にヨーロッパに行くことはなかったんですが、’80年代中盤から’90年代は、「ルイス・ボストン」がイギリスやイタリアのものを扱っているのを見て興味がわきました。それでイタリアものをやりたくなって、ニューヨークで買えるイタリアものを探したりしました。コレクティブにはイタリアブランドのブースもありましたしね。「LUCIANO BARBERA(ルチアーノ バルベラ)」のショールームに行って買い付けたことも。それ以外だと、「MARIANO RUBINACCI(マリアーナ ルビナッチ)」も買いましたね。僕には合ってなかったけど、けっこう売れました。あとは「GARRICK ANDERSON(ギャリック・アンダーソン)」。当時20万円超のスーツでしたが、売れましたね。
祐真 ありましたね。覚えてます。
八木沢 ちょっと背伸びしてやっていた時期もありました。途中から「ISAIA(イザイア)」とか「Belvest(ベルベスト)」もやりだして、なんだかそのあたりからよくわからなくなりました(笑)。でも人気はあったんです。アメリカのフィルターを通したイタリアもの、ということで、需要はすごくあったんです。でも僕としては、’90年代の前半からは「やっぱりアメリカものがいいや」という感じでした。
祐真 あはは。
八木沢 売れたことは売れたんですけどね。でも正直、自分の気持ちがついていかなかったな、という感じです。
祐真 結局あのラインって、日本では定着しなかったですよね。
八木沢 そう思います。
祐真 ほかのセレクトショップでも、イザイアとか大々的にやっていたところがありますが、僕はそれ見て、ちょっと引きました。「えっ、こっちじゃないんじゃないの?」という感じでした。値段も高かったですよね。
八木沢 ええ。高かったです。でも売れたんですよね。
祐真 そういうバブリーな時代だったんですよね。でもあのころ、’80年代後半に僕はビームスで「IKE BEHAR(アイクベーハー)」のシャツを買って着ていたんですが、いま、八木沢さんの店で改めてアイクベーハーのシャツを手に取ってみると、やっぱりいいんですよね。なんなんだろう。なんでアイクの生地はあんなにやわらかいんだろう、と思いますね。
八木沢 そうなんですよね。やっぱりいいものはいい、ってことなんだと思います。メーカー側も、ずっとおなじようなものを作っているように見えて、実際はすごく進化していますしね。そういういいものは、ずっと置きたいなと思います。
祐真 あの生地はなんなんでしょう。海島綿なのかな~。いいですよね。
八木沢 かなりの高番手ですね。プライスも適正だし。
祐真 ロゴも元に戻ったしね。あれ、可愛いですね。僕、アイクベーハーには思い出があって、むかし、ビームスでシャツをいっぱいリースして、それを自宅に置いておいたら、なんとボヤを起こしちゃったんですよ。’88年のことです。電気ストーブをつけっぱなしにして寝たら、布団の端がストーブに接触して、そこから火が出てね。幸いボヤで済んだんだけど、リースしてたシャツは煙で煤けてもう使い物にならない状態に。大失態です。もちろん返却はできませんから、全部買い取りました。そのときのシャツが、ほぼ全部、アイクベーハーだったんですよね。そしたらビームスの設楽社長がやさしくて、「いいよいいよ、下代で」と言ってくれました。
八木沢 へ~。
Page.4 原宿の店に立って30年! 街の変遷を見守ってきた八木沢さん
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原宿の店に立って30年! 街の変遷を見守ってきた八木沢さん
祐真 原宿に30年いらっしゃるわけですが、原宿ってどんな街ですか?
八木沢 まあ、正直、僕は家と店との往復なので、それほどあちこち見てまわってるわけではないんですが、絶えず表情を変えるエキサイティングな街だと思います。たまにいつも通らない道を歩くと「お、こんなところにこんなものが出来てるの?」とビックリしたりします。僕はJRで通っているので、原宿駅から店まで歩いて来るんですが、表参道を明治通り方向に下りてくると、むかしは途中にプラモデル屋さんがありました。明治通りを渡った角にはセントラルアパートがあって、その先に「レオン」という喫茶店があって、「マドモアゼルノンノン」の荒巻太郎さんがリクライニングチェアに座っていたりとか。そういう思い出が残っています。
祐真 荒巻さんは近くに店があったんですか?
八木沢 ええ。セントラルアパートの「バークレー」の横にあったんです。そういう、駅から店までの風景が僕にとっての原宿でしたね。レオンは出前もしてくれましたんで、うちの社長なんかもよくコーヒーの出前をとってましたね。「暇だからコーヒーでも取ろうか」みたいな感じで(笑)。
祐真 レオンの話は、いろんな人がいろんなところでなさってますね。あの時代はおもしろかったんでしょうね。キャシディがスタートしたそのころに買った服で、いまも着ている服ってあります?
八木沢 ん~、いまでも着ている服というのはないと思いますが、物持ちはいいほうで、ずっと捨てられない服というのはありますね。でもときどき出して眺めるだけ。安否確認みたいな感じです。出して眺めると、買ったときの高揚した気持ちがよみがえってきて、うれしいんです。
祐真 まさか、高校時代に買ったセバゴの靴はもうおもちじゃないですよね?
八木沢 さすがにもってないです。でも、その前にお袋が買ってくれた「REGAL×VAN」のローファーは最近までもってました。結局ほとんど履いてなくて、ピカピカなままでずっともっていたんですが、「もういいかな」と思って処分しました。
祐真 僕もそれ、買いました。横がビーフロールになってるやつですよね。
八木沢 そうそう。ビーフロールです。でもそのすぐあとにセバゴを買ったので、履かなかったんですよね。
祐真 あと僕がぜひ伺いたかったのは、朝、自分の服をコーディネートするときに、どんな順番で決めるか、ってことなんですが、八木沢さんはどんな順番で決めてますか?
八木沢 僕の場合、営業的な面もあるんですが、まずは自分が身につけて、お客さんに履き心地や着心地を伝えたいんですね。なので、いま店で扱っているものを着たり履いたりすることが多いんです。なので、いつもの順番というのは、とくにないんですが、例えばあたらしく入ったシャツの着心地を試そうと思えばシャツがまず先にあって、それにほかのものを合わせていくという具合です。
祐真 僕の場合、靴下とベルトですごく悩むんですが。
八木沢 ああ、そうなんですか? 僕はベルトもソックスも無頓着ですね。
祐真 例えばドレスダウンするためにスニーカーを履く場合ってあるでしょ? その場合、ソックスはスニーカーに合わせるべきなんでしょうか? それともドレスに合わせるべきなんでしょうか?
八木沢 ん~、それ、重要ですね。どっちかと言えばスニーカーに合わせるのかな、とは思いますが、スニーカーはスニーカーでも、「VALENTINO(ヴァレンティノ)」のスニーカーならドレスソックスを合わせるのかな~。
祐真 難しいですよね。ジャック・パーセルなら、確実にジャック・パーセルに合わせますよね。
八木沢 そうですね。……でもあんまり僕、気にしないです。お洒落じゃないな(笑)。すみません。
祐真 素足で履いてるように見えるソックス、って言うのかな、靴を履くとソックスを履いてないように見えるカバーみたいなのがあるじゃないですか。あれが履けたらいいんだけど、あれ、僕は靴の中で脱げちゃうんでダメなんですよ。
八木沢 僕もダメです。靴の中で脱げて、中で丸まっちゃったりすると気持ち悪いですよね(笑)。
靴を脱いで丸まった靴下を直してまた歩き出すと、またまた丸まったりしてね~。本当にいらいらします。あれ、絶対脱げなくなったら相当画期的だと思うんですけどね。
祐真 ホントですよね。
八木沢 あとあれは、洗濯すると片方がなくなりますね。
祐真 (笑)消えちゃうんですか??
八木沢 そう。ちゃんと洗ってるはずなのに、どういうわけか片っぽがなくなるんですよ。まあ、おなじものを何足も買って履けばいいんだろうけど。
祐真 (笑)片っぽだけ穴があいたときにも、おなじものが何足かあると履きまわせますしね。さて、いろいろおもしろいお話を伺いましたが、最後に「接客の魅力」について聞かせてください。
八木沢 ショップスタッフというのは、物と客のあいだにある存在ですよね。だから、お客さんに、よりよいものを伝えるのが使命かな、と思っています。本当にいいもの、そして個々のお客さんに似合うものを選ぶ手伝いができるといいですね。そして、買ったひとがそれを気に入ってくれて、店に長く来てくれたら、それは店員冥利に尽きます。お客さんの期待以上のものを、常に紹介したいと思っています。いまや自宅で座っていても物が買える時代ですが、僕はそういう買い方ってまったく理解できません。やっぱり実物を触って眺めて、買いたいんですよね。
祐真 僕も同感です。スタッフとコミュニケーションを取るなかで、思いもしなかったものに手が出るということもあるし、それが意外に自分に似合ってうれしい、ということだっていっぱいありますもんね。
八木沢 それがお店の良さだと思います。接客だけじゃなく、空間的な魅力もあって、総合的に見てお客さんに愛される店がいいな、と思います。うちはそうはなっていないんですけどね。
祐真 いやいや、なってますよ。小さな空間が、ビックリ箱みたいになってますよ。
八木沢 だといいんですけどね。ビックリしすぎて、ひっくり返ったみたいになってますね(笑)。
祐真 そこがまた落ち着くんじゃないかな。友だちの家に来たみたいな感じで。これからもずっと店に立ちつづけてくださいね。
八木沢博幸|YAGISAWA Hiroyuki
1956年東京生まれ。その後、高校卒業まで日光で過ごした後、東京・お茶の水の東京デザイナー学院入学。卒業後は2年間、デザイン事務所勤務。その後、「キャシディ」の経営母体であるミドリヤに入社。1981年からは原宿キャシディへ。最初の店は現在「キャシディ ホーム グロウン」のある場所にあった。1984年、手狭になったため、表参道を挟んで反対側の現キャシディへ移転。2010年、キャシディ ホウム グロウンを現在地にオープン。オープン時に耐震工事をしていたため、2011年の震災時は無傷であった。