吉岡康子さんに教わる_1
小林ひろ美さんからご紹介いただいたのは、株式会社フォルテ取締役の吉岡康子さんです。吉岡さんは大学卒業後、長くインターナショナルな化粧品ビジネスに携わり、現在はご自身で香水ビジネスを経営されるほか、2001年にはフレグランス普及のために、業界団体「日本フレグランス協会」を立ち上げるなど、精力的に活動されています。その吉岡さんから、日本のマーケットの歴史や現状、香水ビジネスについてご教授いただこうと出かけました。
photo by IDEGUCHI Keiko
日本での香水の黎明期から現在まで
吉田十紀人:はじめまして。吉岡さんには小林さんと違った角度からの「香水」のお話を伺いたいなと思います。よろしくお願いします。
吉岡康子:私でお力になれれば。
吉田:吉岡さんの経歴を拝見すると、大手化粧品メーカーに勤められていて、長く日本の香水ビジネスを見てこられたようですね。
吉岡:そうですね。振り返れば、戦後、香水の関税が600%という時代があり、米ドルも360円で、当時、日本では輸入化粧品は非常に貴重品でした。香水も15年前ぐらいまでは2万円は当たり前でした。
吉田:15年と聞くと、まだ最近という感じですね。
吉岡:海外からの贅沢品であった香水は、洋風ライフスタイルとともに受け入れられるようになってきましたが、貴重品で宝石のような扱いでした。ブランドでは、クリスチャン・ディオール、シャネル、イヴ・サンローラン、ニナリッチ、ジバンシィぐらいしかありませんでしたね。
吉田:それが庶民に浸透するようになったのは?
吉岡:まず若い人に普及しだしたきっかけは、1993~95年頃、イヴ・サンローランのタルティーヌショコラというフランスでは有名なベビー服ブランドが「プチサンボン」という子供用の香水を日本で売り出しました。それまでは一般的に50ミリで8500円はしていた香水を、OLさん向けに30ミリで4500円に設定したのがヒットしてブームになり、一年間に10万本売れて、業界ではエポックメイキングな一つの事件でした。
吉田:一年間で10万本ですか。
吉岡:それからブランド香水に注目があつまったのですが、次のヒットは95、6年に発売されたカルバンクラインの「CK ONE」ですね。これはユニセックス向けのオーデコロンで200ミリで6700円。ヒットした要因は、それまで香水は百貨店かソニープラザ、御徒町(アメ横)でしか売っていなかったのが、PRとしてマルイとタワーレコードでも売ったんですね。それが当たって、若者の香水のニーズが顕在化したんです。
吉田:なるほど。それはよく覚えています。
吉岡:さらに97年に並行輸入が解禁になってから一気に普及しました。
吉田:今ではディスカウントストアでも様々なブランド香水を見ますが、吉岡さんは日本人にも香水が根づいたと思われますか?
吉岡:日本はまだまだこれからですね、文化として浸透していくのは。並行輸入が認められて、香水に接する機会は確かに増えているとは思いますが、日本人にはまだ香水に対するハートがありませんね。ヨーロッパの人は香水を愛しているし、生活に必要なものですが、日本のマーケットは輸入に頼るばかりで、日本オリジナルの香りがありません。
吉田:あぁ、日本の化粧品メーカーは香水をあまりつくっていませんね。
吉岡:日本のメーカーで、インハウスで調香師を育てたのは資生堂とポーラだけですよ。今はその資生堂でもオリジナル香水は顧客向けの限定品ですね。
吉田:それはなぜですか?
吉岡:それは端的に、日本のメーカーが香水をつくりたくてもニーズがないからです。
吉田:ニーズがないんですか?
吉岡:価格がオープンプライスの並行輸入になって、日本の会社が香水市場に参入する理由と市場がありません。
吉田:価格崩壊と欧米のブランド力などですね。なるほど……。
吉岡:日本もそろそろ日本に合う香りをつくっていく時代だとは思いますけどね。
吉岡康子さん(株式会社フォルテ 取締役)
1946年8月、兵庫県に生まれる。聖心女子大学英語・英文学科卒業。
米国フィラデルフィア州ローズモントカレッジ、パリのアリアンス・フランセーズ語学校に留学。
パルファン・クリスチャン・デイオール日本連絡事務所、エリザベス・アーデン株式会社マーケテイング部に20年間勤務し、化粧品ビジネスの経験を積んだ。
1995年、夫の経営する建築設計会社、(株)フォルテに、海外フレグランスの輸入・卸販売を専門とする香りビジネスを新設。日本人に親しみやすい香水をリーズナブル価格で一般消費者に提案し、フレグランスの普及を目指してきた。2003年からは、メンズ化粧品分野にも進出。
2002年、フレグランスの普及のため、フレグランスを扱う企業の業界団体「日本フレグランス協会」を創設し、事務局長を務めている。