DVD「Vivienne Westwood 1970s-1990」トークセッション 島津 由行 × 荏開津 広(1)
Fashion
2015年5月20日

DVD「Vivienne Westwood 1970s-1990」トークセッション 島津 由行 × 荏開津 広(1)

今回は、DVD「Vivienne Westwood 1970s-1990」の発売を記念して、去る3月24日に新宿モード学園にて開催されたプレビュー&トークセッション内での、荏開津 広さんとのトークセッションの模様を3回に分けてお送りします。

左:島津由行、右:荏開津広 photo by Jamandfix

荏開津 広(以下E):今日は、日本で一番ヴィヴィアン・ウエストウッドに詳しい(笑)、島津由行さんをお迎えして、色々とお話をお伺いしたいと思っています。

島津由行(以下S):そんな事ないです(笑)。

E:いやいや(笑)。では、まずは当時の音楽とファッションの状況について、お話をお伺いします。特に、当時のファッションはどういった状況だったのですか?

S:当時のファッションは、やはりパンク・ファッションですよね。僕が、初めてパンク・ファッションを見たのが78年くらいです。

E:78年なんですか?

S:ええ。でも、パンク・ファッションはヴィヴィアンと言うよりは、セックス・ピストルズというバンドから始まっているんです。僕がヴィヴィアンの服を知ったキッカケは、荏開津さんもご存知だと思うんですが、当時、日本にプラスティックスというバンドがいまして。。。

E:日本のテクノポップ・バンドですね。
最初は、パンク・バンドから始まったんですよね。

S:そうなんです。それにニューウェイブ~テクノみたいなものが入っていったバンドなんです。
当時、日本人が海外でライブをやる事自体が大変だった時に、ちょっと前に木村カエラさんが参加して再結成していましたけれどサディスティック・ミカ・バンドとYMOに次いで、海外でもライブ活動をしていた数少ないバンドの一つです。
グラフィックデザイナーの(立花)ハジメさんと、今、GLAYとかのプロデューサーをやられている佐久間正英さんがいらっしゃったバンドですね。その時に、僕をとても可愛がって頂いた佐藤チカさんという方がいらっしゃいまして。。。

E:ヴォーカルの方ですよね。

S:そうです。
ヴォーカルというか、中西トシ(俊夫)さんがヴォーカルで、間の手を入れていたのが佐藤チカさんですね。そのチカさんが当時、「セデショナリーズ」の服を着ていたんです。そこで初めて、ヴィヴィアンの服を知ったんです。
僕は、元々音楽が好きで東京に出て来て、ミュージシャンになりたかったというか、カッコイイ事をやりたかった。というか、、、ハッキリ言うとモテたいと思ってただけなんですけどね(笑)。
そんな中でファッションをやっていこうと決めた時に、ガツンとやられたのがパンクの音楽とヴィヴィアンの服だったんです。
でもその時に、これは"誰が仕掛けたのか"という事が気になったんです。当時、僕は、"パンクはイギリスから来た音楽"だと思っていたんですよ。何せ、田舎から出て来たIVY(アイビー)少年がパンクと出会うまでは、日本人はみんな
VAN(ヴァン)を着ていると思っていましたからね(笑)。
VANと言っても、もう知らない方もいらっしゃると思うんですが、当時に一世を風味したIVYルックというファッション・スタイルがありまして、、、

E:VANとは日本のファッション・ブランドの名前のことですね。IVYというのは、アメリカのコンサヴァティヴな大学生のファッションのことです。

S:東海岸の方の大学生ですよね。

E:そうですね。IVYリーグというスポーツ・コンファランスからきた名前です。

S:僕は、76年、16歳の時にアメリカに行ったんですが、その時にはアメリカはもう既にヒッピーイズムだったんです。
だから、誰もIVYルックの人はいなくて、その時に初めて「騙された!」と思いました(笑)。

E:ハハハ(笑)。

S:それに近いものをパンクにも感じまして、"パンクって何だろうな"と。
"もしかして、俺たちはパンクに騙されているんじゃないか"という様な事も考えましたね。ヴィヴィアンとマルコムにも同じような事を感じていました。本当は、流行ってないんじゃないかとか(笑)。
でも、このパンクというカルチャーは、SONYのウォークマンやスターウォーズ、そういうものを全部含めた中で、僕の中で80年代の一つのキーワードになっているものです。

E:その頃の日本のファッションは、IVYスタイルが主流だったんですか?

S:それは僕が田舎にいる頃の話で、東京に来た頃はある程度のパンク・ファッションの様なものは、原宿の"赤富士"というお店にありました。当時、かなり高かったですよ。

E:いくらくらいでしたか?

S:ボンテージ・パンツで、4~5万円くらい。当時、僕の初任給が8万5千円でしたから(笑)、大変な値段ですよね。パンクなのに値段がパンクじゃなかったみたいなね(笑)。

E:今日、会場にお持ち頂いたのは初期のヴィヴィアンの服ですね。

S:ここにヴィヴィアン本人がいたら、昔の服を出すと「とんでもない!」って怒られるんでしょうけど。これらはヴィヴィアンというよりもマルコム・マクラレンとのコラボレーションですよね。「ワールズ・エンド」までの作品は彼とのコラボなんです。
個人的にヴィヴィアンの一番良い時代は89年くらいだと思ってまして、今日持って来た作品は、良い時代を迎えた理由がこの中に凝縮されていると思っているんです。

E:この中で初期のものは、どれですか?

S:このロカビリー風のデザインで、素材は皮の上下のものです。下も皮のショート・パンツで、いわゆる異端児ファッションですよね。イギリスでも皮の上下を着る人は少なかった時代です。ヴィヴィアンの昔の写真を見ると、彼女はこういう皮の上下をよく着ていましたね。
これは、鑑定書は無いんですが、73~74年くらいの「レット・イット・ロック」の頃の作品で、マルコム・マクラレンがニューヨークに渡米して、ニューヨーク・ドールズというバンドのマネージャーを務めていた時に、ギタリストだったジョニー・サンダースの為に、ステージ衣装でヴィヴィアンが作ったものだと聞いています。

E:そうなんですか!
では、こちらは?

S:これは、ピストルのアメリカ公演最終日にジョニー・ロットンが着ていた同型のものですね。

E:同性愛っぽいデザインが施されていますが、当時こういったデザインは大丈夫だったのでしょうか?

S:とんでもなかったと思います(笑)

E:当時の日本のファッションの状況から見たら、こういうデザインはどういう印象を受けられたんですか?

S:それまでは、まったく見た事ない形ですよね。全部逆になっていて、うら返しの縫製なんです。
ヴィヴィアンの凄い所は、洋服を知らない所から始まっている点と、体制的な部分をマルコムとファッション化した点です。
例えば、マルコムと同級生だったジェイミー・リードがこのグラフィックをやっているんですが、同性愛という体制的なものを表現していますよね。この時期の作品は、2年前に行われたヴィヴィアンの回顧展で展示されていましたね。クリスチャン・ディオールとかピエール・カルダンとか表現方法を習うデザイン学校を出た人たちとは違って、教員免許を持っている女の人がストリートから出て来て、マルコムと知り合って体制的な部分の服を作ったのは、今思うと凄い事ですよね。

プロフィール

荏開津 広 EGAITSU hiroshi
(one hand clappin')

コンセプト/テキスト/ディレクション
東京生まれ。立教大学在学中からDJを開始、同時に雑誌に文章を書き始める。
コンピレーションや、ラジオ、TVなどの構成もてがけ、代表的なアルバムは「ルーティン」、「テンプル・オブ・ダブ」、「イル・セントリック・ファンク」など。
歴史的ヒップホップ・パーティ「さんぴんCAMP」映像作品スーパーヴァイザー。現在手がけているのは、NYのショップ"KIOSKHELLO"とのコラボレーション、アーティスト、ヨルグ・ガイスマール、ニュー・メディア・リサーチャー、フィリップ・コドニエとのディスコース・プロジェクト”onestoneinsidetheshoe"など。
RIDDIM、OK FRED、VOGUE NIPPONなどにもに執筆。
東京藝術大学、多摩美術大学、などで非常勤講師としても奮闘中!

           
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