♪3 PUNK ROCK LIFE
Tokio - Paris - London
パンクムーブメントの精神
──それで上京した島津少年は、就職したわけですね。
島津 上京して渋谷駅前の店でバーテンをしていて、本当はランチ・マーケットで働きたかったんですが、原宿で見たDO!FAMILYの真鍋博さん(はっぴいえんどや大瀧詠一さんのジャケットデザインを担当していたMUのリーダーです)のグラフィックがかっこよくて、会社に電話して、営業補助のような仕事からスタートしました。19から21歳まで働きましたね。3年で200万円ほど貯めたかな。
──それからロンドンですか?
島津 81年からパリですね。今でもそうですけど、音楽はロンドンで、東京に来たらロンドンの情報が満載なわけです。ファッション含めてね。ロンドンも考えたんですけど、ヨーロッパのいろんなところに行きたくて、パリならモロッコもギリシャもイタリアもスペインも近い。それで、パリに行って、すぐスペインからジブラルタル海峡を渡って、モロッコ、チュニジアを回って、パリに戻って、今度はイタリアへと旅行しました。86年までパリにいて、ショーの選曲をしたり、ロンドンのブランドの仕事を手伝ったり。
──やっぱりロンドンには行くんですね。
島津 ロンドンに行くのは楽しみでしたよ。住んだことはないけど。もちろん、キングスロード430番地のショップにも行きました。感激しましたよね。「I have a kind of in-built clock which always reacts against anything orthodox」って逆さに回っている時計を見てね。
──パリは好きでした?
島津 正直、パリには音楽がないから正直しんどかった。でもパリにいなかったら僕はスタイリストにはなっていなかったでしょうね。パリで見たウィメンズを通じてエレガンスというものを知りましたから。パリにいた後半にはマルタン・マルジェラが出てきたり、デザイナーの活動の場はやっぱりパリなんですよ。でも正直に言うと、ロンドンに住まなかったことは、今でも後悔してたりして……(笑)。
──音楽を続けようと思わなかったんですか?
島津 パリから帰ってきて、86、7年頃かな、原宿のピテカントロプスにパリスってバンドで出ていましたよ。パリから帰ってきたとき、もう洋服か音楽しかなくて、どうしようかと思ったんですが、音楽はテクニックが必要じゃないですか。まわりに上手な人はたくさんいるわけですよ。それで洋服に進んだというか。
──もちろん洋服も好きだったんですよね。
島津 当時『anan』の編集長だった秦さんが「可愛い男の子をやりたい」ってリクエストで、ちょうどDC(デザイナーキャラクター)ブームのブランドスーツで“デカ衿”時代になるわけです。『Popeye』にコムデギャルソンとかを登場させて。
──なるほど。
島津 僕が80年代が好きなのは、無駄が多いこと。デザインの無駄とか、やたら型数が多いとか、機能性のなさとかがビューティフルで、もちろん今見るとダサいって思うんだけど、パンクにしてもファッションより音楽が先に立っているじゃないですか。それがいい。ちょっとエッセンスだけ入れてますっていうのじゃないのがいい。パンクムーブメントの精神は、『コムデギャルソン』から『UNDERCOVER』へとに受け継がれていますけど、ファッションの歴史を見てもパンクは大きい。ここが抜けていたらどうなっていたかと思うとちょっと怖いですよね。
──長々とありがとうございました。『Sex&Seditionaries』から、島津さんの人生になっちゃいました。
島津 でも、こういう時代にいられたのは幸せですよ。90年代以降とか、何を着ていたかあんまり覚えてないし。メンズファッションはアイコンがないと停滞するのかなぁ。それとも僕の年齢的なこと? 今は時代そのものがアイドルチックなのかな?いろんなブームはあるけど、今は21世紀のアイコン探しをしているんでしょうね。