MASERATI|マセラティ ジャパン発足
MASERATI|マセラティ
「マセラティ ジャパン」が2011年1月に設立
2010年12月末日をもってマセラティのインポーター権がコーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドから、マセラティの日本法人「マセラティ ジャパン」に移管されることが発表された。
photo by Maserati S.p.A
コーンズのサポートのもと、現在の事業活動を引き継ぐ
2010年5月11日におこなわれた共同声明によると、マセラティのインポーター権はコーンズの全面的なサポートのもとマセラティ ジャパンに移管され、現在の事業活動をそのまま継承するとのこと。
マセラティ ジャパンは、すでに都内にオフィスを開設しており、Maserati S.p.A 日本統括マネージャーだったファブリッツィオ・カッツォーリが代表に就任。現行のマセラティ販売ネットワークはそのまま継続し、東京、名古屋、大阪に3カ所のショールームを開設するコーンズと今後も強固なパートナーシップを保持する。
2010年第14半期収支報告書によると、マセラティの業績は前年同期比10.4パーセント増、1億2700万ユーロの事業収益をあげている。販売台数では、2010年第1四半期に前年の同期間比4.1パーセント増の1,205台を納車し、営業利益は400万ユーロに達したと報告されている。これは2009年同時期より300万ユーロの増加となるとのこと。
また、2011年で創業150周年を迎えるコーンズは今後、インポーターではなくディーラーとしてあらたなステージに立ち、新車販売、アフターセールス、中古車販売にいたるまで、日本市場におけるマセラティ車普及の統合的な担い手となる。
現在、コーンズ直営のマセラティ国内販売ネットワークは東京東雲、世田谷、神奈川横浜、名古屋金山、大阪南港の5拠点で構成される。ディーラーとしてはマセラティのほか、ロールス・ロイス、フェラーリ、ベントレーの計4ブランドを販売していく。
BRAND HISTORY
世界には“スポーツカーの聖地”と呼ばれる場所がいくつもあるが、イタリアのモデナ県ほどその名にふさわしいところはない。なぜなら、モデナ県内には、ともにフィアットの傘下に収まるFerrari(フェラーリ)とMaserati(マセラティ)があるからだ。マラネロがフェラーリなら、県都のモデナから世に送り出されるのがマセラティである。
トライデント、すなわち、三叉の銛(もり)のエンブレムは、ボローニャのシンボルともいえるネプチューン像にちなんだもので、マセラティの歴史がボローニャからスタートしたことを物語る。礎を築いたのは、1881年から1898年にこの地に生まれたマセラティ兄弟。そのほとんどが自動車にかかわることになるが、4番目に生まれたアルフィエーリ・マセラティ(3番目もアルフィエーリを名乗るが、生後ほどなくして他界)が中心的役割を果たす。彼のキャリアはレーシングドライバーとしてはじまるが、紆余曲折の末、1926年にオフィッチーネ・アルフィエーリ・マセラティ社を設立。トライデントを掲げた「Tipo26」のステアリングをアルフィエーリみずからが握り、タルガ・フローリオに参戦、デビューレースを見事クラス優勝で飾っている。
1929年には「V4」が246.029km/hの世界スピード記録を樹立、マセラティの名は広く知れわたるようになる。その後も、名ドライバーのタッチオ・ヌヴォラーリの活躍などでグランプリの歴史にその名を刻むマセラティだが、1937年にオーナーがアドルフ・オルシにかわり、翌1938年には本拠を現在のモデナに移している。ここから1957年まで、同社のモータースポーツ活動は黄金期を迎えることになる。その最たるものが1957年、名手ファンジオが「250F」を駆り手に入れたF1のシリーズタイトルであった。しかしこの年、マセラティはワークス活動にピリオドを打ち、1958年の「3500GT」、1966年の「ギブリ」、1971年の「ボーラ」などにより、スポーツカーメーカーとしてのポジションをたしかなものにしていく。
そして、スポーツカーづくりの伝統をいまに受け継ぐのが、2ドアクーペの「グラントゥーリズモ」と4ドアサルーンの「クアトロポルテ」。フェラーリとはまた違うイタリアンスポーツの魅力をわれわれに伝えている。