世界最古の理髪店の歴史(その1/19世紀編)
THE STORY OF TRUEFITT&HILL
世界最古の理髪店の歴史(その1/19世紀編)
スタッフ100名を抱えるトゥルフィット&ヒルの繁栄と栄光
世界最古の理髪店「トゥルフィット&ヒル」の歴史は、1805年にはじまった。日本での正式登場となるトゥルフィット&ヒルの輝ける歴史を3回にわたって紹介します。
1805年10月21日、ロンドン・メイフェア地区
いまから何十年も前、ロンドンの目抜き通りであるオールドボンドストリートに店を構えるヘアドレッサーは、ひとりしか存在しなかった。それこそがH.P.トゥルフィット、つまり現在の『トゥルフィット&ヒル』である。
その歴史は1805年10月21日、ロンドンのメイフィア地区ロングエーカーにオープンしたある理髪店にまでさかのぼる。200年以上も昔のその日、ひとりの理髪士がヘアサロンを立ち上げた。その男の名はフランシス・ウイリアム・トゥルフィット。英国王室御用達のヘアカッター、ヘッドドレッサー、そしてウィッグメーカーとしての出店である。
フランシス・トゥルフィットは理髪士としての卓越した技術だけでなく、フレグランス、整髪料、ヘアトニックといった製品の調合、開発にも優れた才能を発揮し、その評判は瞬く間に広まり、国王ジョージ3世御用達の指定を受けるなどじつに華々しい船出となった。
英国王室や貴族といった特権階級に愛された創業当時のようすは、メディアや当時の文献によって今日まで伝えられている。
作家サッカレーはその著書『ジョージ4世』のなかでトゥルフィットがジョージ4世御用達のウィッグメーカーであることについて記述し、また『レベッカとロウィーナ』では当時の若者にこう警告している。
「成熟した男女、つまり紳士淑女にはみずからを高め、魅力的な人間になる権利がある。淑女は親切心を忘れてはならず、それ以上に女学生時代よりも強くならなければならない。紳士はその気概だけでなく、トゥルフィットのような正統派の身だしなみを手に入れなければならない」。これ以外にもトゥルフィットやその顧客を取り上げたメディアは枚挙にいとまがなく、当時の雑誌『パンチ』ではトゥルフィットのポリシーについて特集した号も存在する。
トゥルフィットの顧客だった作家、チャールズ・ディケンスは自身の著書『アンコマーシャルトラベラー』のなかでこの理髪店の優れた名声について触れ、このように引用する。
「トゥルフィット氏のような優れたヘアドレッサーがいるサロンでは、暇つぶしのためにフランス語を学ぶようなジェントルマンであふれている」
まもなくフランシス・トゥルフィットは弟のピーターを招き入れ、複数の場所で出店、1811年から1850年のあいだにオールドボンドストリート、ニューボンドストリート、ハノーバーストリート、ロングエーカー、バーリントンアーケードと精力的に出店、すべての支店で成功をおさめる。
なかでもバーリントンアーケードの店舗がはじめた『トワレクラブ』は、その後『ザ・クラブ』として顧客に広く知られるところとなり、1936年まで活動が続けられた。その当時のようすを記録した版画によると、天井から吊り下げられたヒース・ロビンソン考案の精巧な装置によって、鏡の前に座るドレスアップしたジェントルマンの髭をブラシで泡立てているさまが描かれている。固定されたブラシが回転し、フロックコートを着たオペレーターが顧客の周囲を行ったり来たりしている風景だ。
シェービングやヘアカットなどのサービスを示すパンチ加工が施された『トワレクラブ』のメンバーチケットは、かねてからの顧客が亡くなったさいにゆかりの品として発見され、当時の資料としてトゥルフィットに寄贈されたものが少なくない。
国王ジョージ4世による英国王室御用達
その時代はジェントルマンにとってバーバー通いは現代以上に欠かすことができない習慣であった。ジェントルマンはウィッグを美しくフィットさせるために髪を短く保つ必要があったのだ。その後ピーターの息子である、ヘンリー・ポールが社名をあらため『H.P.トゥルフィット』とし、ヘアカッター、ヘアドレッサー、ウィッグメーカーとしての名声を不動のものとした。H.P.トゥルフィットは国王ジョージ4世による英国王室御用達として一時代を築いた。
当時のポスターや資料によると、H.P.トゥルフィットはブライトンにも支店を展開。ごく一部の限られた階級だけが郊外に別荘をもつようになった当時、アルダーショットやサンドバーストといた町と同様に、鉄道を利用して郊外で休日を過ごすことが特権階級のステータスとなっており、そのニーズに対応した郊外店であった。
その当時ヘアサロンで人気を博したアイテムはスクラッチャー(孫の手)。なかには芸術的な弧を描くものや、伸縮するものなどバリエーションも豊富で、「もしあなたが私の背中を掻いてくれるなら、私もあなたの背中を掻いてあげましょう」。
このフレーズは何かを暗示することもあるが、たんに必要から生まれたものでもある。これらのスタイリッシュなスクラッチャーは19世紀の中ごろまで人気を博し、全長は15~20cm程度、掻く部分には凝った意匠が施されているものが多く、ミニチュア版の手がデザインされているものが人気だった。
見事に調合された香水をまとい、ポマードで頭を撫でつけて身だしなみを整えるジェントルマンは、テイラーメイドスーツのベストにお気に入りのアイテムを忍ばせた。また王室の淑女やファッションにうるさい貴族の女性は、じつに緻密な細工が施されたスクラッチャーをファンションアイテムとして持ち歩いた。それは後にチェーンのついた懐中時計や万年筆にとってかえられた。H.P.トゥルフィットの当時の商品カタログを見ると、質の高い櫛と同様に高品質のスクラッチャーが数多くラインナップされており、華やかな時代の面影を忍ばせてくれる。
またH.P.トゥルフィット社は社会貢献への意識が高い企業でもあり、3代目のヘンリー・ポール・トゥルフィットはチャリティー基金を設立。British Benevolent and Provident Institutionは1831年に設立され、これは英国政府が認定する18番目に歴史があるチャリティー基金であり、ヘンリー・トゥルフィットはその初代会長に指名された。彼は1883年に84歳で引退するまで25年にわたってその身をささげた。今日でも知られているヘアドレッサーたちによる慈善団体『The Caring Hand of the Industry』は、現在も英国全土に救いの手を差しのべている。
世界最古の契約書の内容とは
1860年から翌61年にかけて、ヘンリー・トゥルフィットは支配人にとしてジョン・B・ダニエルを迎え入れる。H.Pトゥルフィットは勤勉なダニエルこそ支配人にふさわしいと思い、彼と契約を交わし責任あるポジションに据えた。ウエストミンスター市が所蔵するアーカイブによると、この契約書こそ理髪士の分野で発行されたもっとも古いものだと考えられており、その実際の契約書が現在も保管されている。
契約書によると、ダニエルは理容ビジネスに身を捧げる者であり、または現場監督として雇用するとある。そしてダニエル自身は勤勉かつ誠実にはたらき、H.P.トゥルフィットの哲学とビジョンを理解し、さらなる繁栄するために全力を尽くすことを追記している。
この契約書は、H.P.トゥルフィットでの仕事に専念してはたらくことを条件付けていて、ダニエルは週4.1ポンドの給与で働き、3年後には週給6ポンドになった。この契約書は3ヵ月の相互報告義務がもうけられていた。もしトゥルフィットがこの契約を破棄する場合、たとえばヘンリー・トゥルフィットの死去による廃業のさいは300ポンドの違約金にくわえ、3ヵ月前に意思を告知することに相当する報酬が約束されていた。またダニエルが自ら職を辞す場合は、以降3年間はオールドボンドストリートから30マイル内のエリアではたらくことを禁じていた。ダニエルがこれを破った場合は600ポンドの罰金を科し、新たな禁止条項への同意が科せられることまで明記されている。
トゥルフィットが会社の売却を決めた場合は、ダニエルが最初に買い取る権限が与えられ、10日以内に決断をしなければならない。もしダニエルがそれを辞退する場合は、新たな経営者にトゥルフィットの経営と運営にまつわるすべての情報やルールをつたえる橋渡し役を受けもつことも記されている。
画期的なレディースヘアサロンの開店
19世紀初頭のヘアサロンはジェントルマンにサービスを供しており、レディ、つまり淑女へのサービスは行なっていなかった。しかし19世紀の後半になると、ボンドストリートはファッショナブルな通りとなり、道を行く人々や馬車の交通量も増え、新時代の到来を予感させた。
そこでトゥルフィットは女性をターゲットとしたヘアサロンの開店を決心する。その当時にあって、女性用のサロンを開くことは前代未聞のことであり、非常に大きなリスクのともなう前衛的な挑戦であった。というのも女性のヘアドレッシングやウィッグのメンテナンスはプライバシーに関係する問題であったため、自宅で行なうことが通例だったのだ。淑女のヘアドレッシングは自宅で専属のメイドが担当し、特別な行事が催されるときのみ、美しさを強調するためプロのヘアドレッサーを自宅に招くのが常識だった。
女性がヘアサロンに通うことは、現代では世界中のどこでも、女性らしいことと捉えられている。トゥルフィットこそ、その前にあったお堅い偏見を取り払ったパイオニアであった。トゥルフィットによる世界初の女性用ヘアサロンがオープンしたのは1870年のこと。オールドボンドストリート23番地に開業する。当時のオールドボンドストリートには時代を先取りしたショップが出店をはじめ、まもなく着飾った紳士淑女がショッピングを楽しむファッショナブルな目抜き通りとなっていく。
いうまでもなくトゥルフィットのレディースヘアサロンは淑女にとってももっともファッショナブルなショップのひとつとなり、1900年に発行されたG・アレンによる著書『Wolverden Tower』には、以下のようなくだりがある。
オックスフォード大の学生があるレセプションパーティーに出席したファッショナブルな淑女の一団を調査した報告によると、「私は彼女たちのようなヘアスタイルを好ましく思わない。ドレスアップはいいが、完全にやりすぎている。しかし、そのなかにあって、とてもナチュラルで美しいヘアスタイルでセンス良くドレスアップした女性がいた。その洗練されたスタイリングはトゥルフィットによる仕事にちがいない」。
英国王室との良好な関係がつづいていたH.P.トゥルフィット社は、高まり続けるニーズに応えるかたちで1875年にオリジナルのフレグランスと化粧品を発表。大反響をもたらした。トゥルフィットに残る1878年の記録によると、ボンドストリート初、つまり世界初のリップスティックも発売。これはおそらくトゥルフィット専属の薬事担当者によって開発されたものであり、コチニールを配合し、くちびるの乾燥を防ぐだけでなく、2年間の品質保証がつけられていた。
ビクトリア女王に愛された香水
トゥルフィットによるフレグランス、ソープ、ポマード、整髪料、髭のスタイリング材は大人気となり、なかでもビクトリア女王に愛された香水は、『インペリアル・ブーケ』という名が与えられた。トゥルフィットのフレグランスは英国王室の紳士淑女と切っても切れない間柄とさえなっていく。
トゥルフィットの香水には『チョイス・オブ・ライフル・ブライゲード』、『フェイバリット・オブ・ロイヤル・アーティリリー』、『インペリアル・ブーケ』 、『ガーズ・オウン・ブーケ』、『パルマーストン・ブーケ』、『ジョッキークラブ・ブーケ』、『ロイヤル・ロンドン・ヨットクラブ・ブーケ』、『アルダーショット・ブーケ』、『ブライトン・ブーケ』、『オーリアンズ・クラブ』、などがあり、ニッカーボッカーハンツクラブのパトロナージュによる香水『ニッカーボッカー・ノーゼギー』は、優美と知性を感じさせるエッセンスを漂わせ、『エキシビション・ブーケ』と同様にイベントのために調合されたもの。その香水はウィッグ同様に大成功をおさめた製品として1851年の万博に展示された。
『クバヤ』 と名づけられた味わい深い香りが特徴のフレグランスのラベルにはこのように記されている。「このフレグランスはインド北部の町タライの原住民のみが知るものです」。
英国に運ばれたこのフレグランスは、のちにエドワード7世として英国を統治するプリンス・オブ・ウェールズに愛された。モロポ、イキシア、オポパナックス、フランジパーニ、ステファノティスといった、日本やインド、南アフリカ、シリア、オーストラリアを原産とするエキゾチックな花々をベースとしたパフュームも人気を博した。また他社のために調合した『フォー・ハー』や『オールドボンドストリート・セント』といったモダンな解釈の洗練された香水はベストセラーとなる。
思いやりから生まれた革新的な発想とは
これらのトゥルフィットのイノベーション精神は、大理石製の洗面台が設置されたさいに再び発揮された。水道網が整備される前にもかかわらず、洗面台には水が出る蛇口があり、その下には桶が用意されていたのだ。1880年に描かれた絵画には、この大胆な発明が活躍する前のようすが描かれている。時代の最先端を行くヘアドレッサーによるサービスを支えたその前任者は、白い帽子を頭にかぶり、黒の衣装を身に着けた大柄な女中だった。女中が重そうな桶を抱えながら辛そうに顧客の髪をお湯で流しているすがたが描かれている。サービスを提供する人間にとって必要な条件とは、まず何より思いやりがあり、能率よく働き、卓越した技術を有していることだったのだ。
トゥルフィットによるもうひとつの発明は、マニキュアと足の治療を専門とするショップを開いたことだ。店内は数多くの金縁の額と、大量の植物の鉢植えが飾られており、トゥルフィットはこのビジネスをはじめるにあたってアメリカよりマニキュアリストを招聘した。マニキュアリストのアメリア・ウェスト女史は1880年に渡英し、トゥルフィットにその後の60年間を捧げる。彼女はポール医師が特許をもつアメリカ式の方法と、フランス式の繊細な仕上げを組み合わせたもので、全英ならびヨーロッパから彼女のもとに集まってくる後輩たちに惜しみなくその技術を伝授した。トゥルフィットでの長いキャリアのなかで、つぎの世代へと技術を受け継がれ、数百もの生徒を輩出することで、現在の美容産業の礎を築いたことは疑うべくもない事実である。
1882年5月9日、ヘンリー・ポール・トゥルフィットはヘアドレッサー、ウィッグメーカー、パフューマーのための職人組合(ギルド)を設立し、初代会長に就任する。この組合はすべてのメンバーが最高レベルの技術とエレガンスを維持し、現在も英国に28の支部を持ち活動をつづけている。
日曜日の営業についての議論
1883年1月には会合が開かれ、日曜日の営業について議論が交わされた。メンバーたちはその心理的、社会的、そして経済的なデメリットを理由に広く非難する。しかしながら理髪店の日曜営業を禁止する法案は1930年まで提出されなかった。日曜日に営業できないことは諸刃の剣と考えるむきもあるが、それが理髪業にとって最良の方法であることをいまも信じているスタッフは少なくない。
理容組合誌の年鑑に興味深い記事がある。これとまったくおなじ議論が今から500年近く前の1413年に行なわれていたのだ。その手紙はキャンターバリーの大司教トーマス・アランベルに宛てられたもので、「理髪店は神への献身の気もちをもたずして安息日に店を開いてはならない。それを破るものには罰金を科す」。
この法令は直ちに施行され、ロンドン市内のすべての理髪士、見習い、その他スタッフや家族に例外なく適応され、罰金は6シリング8ペンス、監督者や組合には5シリングの罰金が科された。
トゥルフィットを訪れる顧客には口髭や顎髭を蓄えたジェントルマンが増えた時代がある。そこでトゥルフィットはコスメティックスティックという名の商品を開発した。口髭のコンディションと形状を整えるだけでなく、顎鬚を品良く整えたり眉毛の形を整えるのにも最適だったため記録的なヒット商品となった。この製品はつい50年ほど前まで生産がつづけられたほどのロングセラーとなった。その50年前とは後述のジョイス女史の引退とおなじ時期にあたり、彼女の活動によって髭を生やす男性が減ったことが理由であると考えられている。