塚田有一│みどりの触知学 第4回:冬の太陽へ
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2015年5月29日

塚田有一│みどりの触知学 第4回:冬の太陽へ

塚田有一│みどりの触知学

第4回:冬の太陽へ

朝露をたくわえ、冬の朝日に輝く花をみると、やはり「菊」のことは書いておきたいと思う。いまごろの菊は残菊とか、晩菊とか呼ばれ、野性味ある小菊がほとんどだ。寒空を耐える真冬の枯れ菊も風情があって好きだ。

文と写真=塚田有一(有限会社 温室 代表)

寒空にかがやく黄色

漢字では「菊」。細かいものをかがんで集める、もしくはそれをくくってまとめるという象形文字に草冠がついた。同じように「鞠(まり)」や「麹(こうじ)」や「掬(すく)う」などの文字がある。「くくる」とか「くるむ」も関係ありそうだ。

菊は平安時代に薬用として中国から入ってきたとされる。漢語の音が“kiuk”で、やがて「くく」とか「きく」となった。深まる寒さに耐え咲く放射状の花は太陽のメタファーともされ、花色は陰陽五行でも中央に配される黄色のものが多い。また香りも高く、そうした理由から、もっとも高貴な花とされたのだろう。

「仏花」のイメージが強く辛気くさいとおもわれがちだが、高貴な花を亡くなった方に手向(たむ)けるのだから、もっともふさわしい花だといえる。謂れのないことではないのだ。また、その香りや薬効はやがて「不老長寿」と結びつけられ、能の「菊慈童」にみられるような伝説を生む。

重陽の節供

奇数である陽数の最大値である「九」が重なることから「重陽」。中国では、陽数の重なる日は縁起がいいとされた。

2009年は10月26日が旧暦の9月9日だった。旧暦だと露地の菊が咲いている。旬だから香りも強い。菊花展も各地で開催されているころ。重陽の節供では、「菊の着せ綿」、「菊酒」、「菊合わせ」、また床の間や各部屋に菊を飾り陽気を室内に満たしたとされる。そのとき使った菊は冬の間に干して乾燥させ、翌春に籾や小豆などと一緒に「菊枕」をつくる風習もあったそうだ。

「着せ綿」は重陽の前の晩に庭に咲く菊の花に真綿(ひとつの繭をほどいたもの、つまり絹)を帽子のようにかぶせておき、夜露で菊の霊力や香りを移し、重陽の当日それを着物のたもとに入れたり、それで身体をぬぐったりして、菊の霊力に肖(あやか)った。実際に「着せ綿」をやってみると、ほのかに香りが移り、真綿のふんわりとした肌触りとともに心地よい。菊枕も、頭や目を清々しくさせ、安眠へと誘われる。漢方でも菊は目の疲れに良いとされているので、PCの前から離れられない昨今の生活には効果が期待できそうだ。実際こうした菊の乾燥花をくるんで縫ったアイピロウをまぶたにのせて眠るとあっという間に眠れたりもする。

節供には五感をやさしく刺激しつつ、植物のちからを身体に取り込む様々な工夫があり、受け継がれている。言うなれば「ナチュラル・アロマ」なのだ。お節供は自然というかみさまとともに過ごす静かで豊かな時間でもあったのだろう。

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切り花の魅力

どこかの雑誌では彩りやかたちが豊富になった昨今の菊を「スタイリッシュ・マム」と銘打っていたが、市場に並ぶ切り花の菊にはここのところ、微妙なニュアンスの色、かたちのものが本当に増えた。カーネーションやダリアとともに、市場を活気づけている。僕は栽培の技術には疎いが、生産者の努力はいつも並大抵ではないだろうと想像できる。そうなのだ、切り花は切り花で人類の努力の積み重ねがあり、情熱がある。プラントハンターの冒険もあり、育苗家の夢があり、それを飾って楽しむ人々の暮らし、世界のモードがある。

日本の江戸時代は園芸ブームが興り、菊はとてもたくさんの種類が作出された。厚もの、管もの、懸崖づくりをはじめ、様々変わり咲き種も生み出されたようだ。その技術はいまも生きているのではないだろうか。

園芸品種はモードがもっとも反映されるもの。菊がこれだけ多様になり、品種が揃っているのだから、僕はとてもいい機会だと思い、節供の知恵をいまに結びつけたいと思った。それでずっと旧暦で節供のワークショップをつづけている。

都会は、世界中からあらゆる植物が集められる場所。それぞれの植物には名前があり、謂れがあり、来歴があり、そして、同じものがない。これらをひとつに束ねる、またはアレンジをつくる、生けること。それはとても興奮することだ。だって、そこに新しい、見たこともない世界を生み出すということでもあるからだ。たとえば戦争をしているふたつの国があったとして、そこから運ばれてくる敵対する国の花どうしであっても、ひとつの花束の中では仲が良い。あらゆる国から来た花々がその中では調和を生むのが、活け花やフラワー・アレンジメントなのだ。それを空間や誰かのために組み合わせたりする。僕にはとても素敵なことに思える。そこから、人の世のあれやこれやを改めて照射することにもなる。

園芸品種の花と、道ばたや空き地で生きている植物たち、これらも組み合わせて「どこにもない世界」をつくることができる。この腕の中で。古今も東西も、雑草も園芸品種も、自然も人工も、あんまり分けない方が、やはりいいと思う。

ぼくたちは、どこか遠いところにあるものを、触れてはいけない世界だからこそ憧れる場所を、いつからかどこかに置いて来てしまった。そこへ、植物はいざなってくれる。いろ、かたち、かおり、味、手触りで感じ直すことをひたすらつづけていきたい。そして今日も、空で冬のひかりは澄んでいて、月夜は菊に滴をおいていく。

           
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