DOVE|日本のサーフィングウェットスーツ界を牽引する 最高峰と称されるメーカー、ダブのすごみ
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2015年2月20日

DOVE|日本のサーフィングウェットスーツ界を牽引する 最高峰と称されるメーカー、ダブのすごみ

DOVE|ダブ

最高峰と称されるメーカー、ダブのすごみ(1)

DOVE(ダブ)。この名を聞いて、サーファーであれば知らぬ人はいないだろう。まさに、日本を代表する、サーフィングウェットスーツメーカーである。多くのウエットブランドが消えていくなかで、ダブは37年もの歴史を誇る。それは品質の証であり、その存在感は群を抜いている。平塚にある自社工場を訪ねた。

Photpgraphs by DOVE, OPENERSText by HOSOMURA Gotaro(OPENERS)

自然の波がなければダブサーフィングウェットスーツという存在もない

この地球上で唯一、エネルギーの上に乗れるスポーツといわれているものがある。それが波に乗るサーフィンだ。物理学的にいえば波動に乗ることになる。これが地球と一体化する感覚を、ときに生んだりする。波はおもに風により作り出されるが、日本近海で発生したうねりはハワイにまで到達することもある。冬場にハワイのオアフ島のノースショアに押し寄せるビッグウェーブは、じつは長い旅をして来るのである。もちろんたまに日本にやって来る大きなうねりも、別の海域から来るものだ。

サーフィンの起源といわれるもっとも有力な説が、ハワイが属しているポリネシアの古代民族が、漁のかえりに板で波に乗ったというもの。はっきりとは判明していないが、原型的なものは西暦400年ごろには存在していたのでないかといわれている。その範囲もポリネシア全体に広がっており、古代神話にも波に乗る話は多い。もし、そうだとすると、約1600年も前に人類は波乗りを楽しんでいたことになる。

そんな原始の時代から長い年月を経て、いわゆるスポーツとしてのモダンサーフィンが日本に上陸したのは、1960年代初頭といわれている。70年代初頭には千葉や湘南に、いくつか日本独自のサーフボードメーカーが産声をあげ、サーフィンという文化がじょじょに根付いていく。だが、サーフィン専門のウェットスーツメーカーというものはまだ存在しなかった。寒冷時のサーファーはインポートものか、ダイビングスーツメーカーの、3ミリ生地で製作したもので代用していた。バリエーションも現代のように多くはなく、寒さをしのぐのにレイヤードをしなければならず、また動きにくさに耐えなければならない受難の時代であった。

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サーファー戸倉康守――心やさしき日本のサーフィングウェットスーツ界の重鎮

そんななか、ダブサーフィングウェットスーツが誕生したのが、1975年のこと。創業者は戸倉康守氏。'60年代にサーフィンと出会いその虜になり、いまやサーフィン界で知らぬ人がいないレジェンドである。当時、ホームグラウンドの湘南を中心に、ハワイや日本のいい波を求め旅し、各地のローカルと親交を深めた。

「ですが、25歳という年齢を迎えて、サーファーとしての自分の生き方も、ひとつの節目を迎えていると感じたのです。仲間と一緒に、サーフィンで暮らしていきたかったけれど、それまで自分の力になってくれた先輩たちと衝突するようなことはしたくなかったのです」。

だからサーフボードファクトリーや、サーフショップではなく、ウェットスーツメーカーという道を選んだのである。それもサーファーである自分たちが欲しい機能とデザインを追求する、サーフィン専門のウェットスーツを作ることを……。

日本はハワイやバリのように、年中温暖な南国ではない。寒くなればウェットスーツが欠かせない。ウェットスーツは防寒にくわえ、カラダを保護する意味もある。いってみれば、サーファーの第二の皮膚である。そして創業から37年がたち、戸倉氏は言う。

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「ダブが30年の歳月をこえてやってこれたのも、すべて波という地球の恵みがあってこそです。地球上の海のほんの隅っこに、寄せ来る波という悦びの世界があったからなのです。波と出会うということは、人間の意志を遥かに越えた自然の領域に属しているのです」

ダブは最高のサーフィングウェットスーツメーカーと称されるが、それもそんなダブのスピリットを理解し、評価するサーファー達がいたからにほかならない。

DOVE|ダブ

最高峰と称されるメーカー、ダブのすごみ(2)

ダブ平塚本社兼ファクトリーに潜入! オーダー実体験!

24フィートのヨット、ダブ号で世界一周単独航海に船出した少年が、5年の歳月をかけて5万6戦海里の冒険航海を達成するまでの実話をもとにした映画がある、それが『DOVE』。これがダブサーフィングウェットスーツ名前の由来だ。ダブ号のように、自分たちの作るウェットスーツが、世界中の波の上で、サーファーにとって最高のパートナーとなれるよう、そんな思いの込められたネーミングである。それは夢に終わらず、実際に世界中のサーファーたちに愛されている。

平塚の海につづく相模川沿いは、工場が点在している。ダブサーフィングウェットスーツも、国道1号線からやや北上したあたりにある。1階が工場、2階が本社やデザインルームになっている。

ダブ歴20数年という中島俊道氏が、温かく取材班を出迎えてくれた。もちろん中島氏は生粋のサーファーだ。毎日、出勤前に鵠沼のサーフポイントでサーフィンをしている。もちろん休日もサーフィン三昧。メタボなどどこ吹く風の、まさに引き締まった肉体、そして日々波とともにある生活のせいか、とても穏やかなオーラが漂っている。都会で働くものからすれば、なんとストレスフリーな雰囲気なことだろう。

「ダブが生みだし、いまやスタンダードになったモデルも多いんです。たとえばショートスリーブでロングショーツのシーガル、ショートスリーブでショートショーツのタートルスーツがあげられます。これらはもともと、ダブのオリジナルのモデルネームでした。1977年に完成しました」

エントランスから2階にかけて、ダブのオフィスはまるでサーフィン博物館のように、いろいろなアーカイヴが展示されている。オールドなウェットや古い板、トロフィー、写真など。前述のように、ダブがサーフィン界に残した功績は多い。ダブのサーフチームのプロサーファーも歴代、錚々たる面々であり、添田博道、青田琢二、久我孝男、蛸操、柳沢純一、今須伸政などが、一時代を築いた。

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国内にトライフィンを初めて登場させたのも、戸倉氏だ。またサーフムービーの分野でも先駆けだ。添田博道、蛸操、市川武昌、戸倉康守の4名のサーファー、そして雑誌『サーフィンクラシック』編集長の石井氏によるニアス島サーフトリップを撮影した『アジアン・パラダイス』がそれだ。ハワイのオアフ島ノースショアには、「DOVE HOUSE」を作り、数かずのノースショアにおけるベストショットとして、ダブチームのサーファーたちがサーフ誌なので紹介された。ハードコアをテーマにした未開の地へのサーフトリップも、戸倉氏が先駆けといっていい。

もちろん、デザインやパターン、生地の開発、技術面でも常にサーフィングウェット業界を牽引してきた。

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「生地は厳選して仕入れますが、ダブのウェットスーツはすべてここの工場で自社生産です。そしてすべて採寸して1着1着作り上げる、フルオーダーです。最新のテクノロジーと人間の手作業が合体しています。型作りなどにはコンピュータを用いています。接着や縫製は手作業です。ミシンはウェット専用で、針が横に走るんです。いわゆるすくい縫いで、技量が問われます。この女性はもう十何年もやっているベテランですよ」

見ていると、どの工程もじつに緻密な作業の連続だ。まさに職人技の領域といえるだろう。

ダブのウェットスーツは、全国のサーフショップなどで購入可能だ。今回、実際に中島氏に採寸をして頂き、オーダーを体験してみた。スタイルはクラシックラインのロングジョンを選択。メジャーと股下をはかる特殊な道具を用い、てきぱきとオーダーシートに数値を書き込んでいく。採寸箇所はじつに多い。これがすばらしいフィットの一因だろう。生地は保温性のあるMX-S model(※)をチョイス。胸のロゴ刺しゅうは、ダブカラーのグリーンに。オーダー料は無料、また手、足首の折り返し加工も無料だが、指定がなければストレートカットとなる。

※超極細ナイロン中空糸を特殊加工で編み上げ、大量の空気を含み軽量さと伸縮性を高次元で融合させたスーパーマテリアル。さらに短起毛で保温性を加えた素材。

購入し商品が届くと、シリアルナンバーが書かれた「ご愛用者登録のご案内」が付いてくる。パソコンから登録すると、1年間保証、修理、メンテナンスがディーラーで受け付け可能になる。

部分的な修理ができるのも、いいところだ。

DOVE――日本最高峰のウェットスーツ。こう呼ばれることには、裏付けがあると工場を訪れ、中島氏の説明を聞いて納得した。ここにも一つ、日本が残すべき技術や財産がある。

ダブサーフィングウェットスーツ
Tel.0463-23-3171
http://www.dovewet.com

DOVE|ダブ (番外編)

還暦バースデーサーフィンツアー

インドネシア、メンタワイサーフトリップ!

ダブ創業者である戸倉康守氏が、60歳の誕生日、つまり還暦を記念して、インドネシアのスマトラ島の西海岸にある諸島、メンタワイにサーフトリップに出かけた。真っ赤なベストがおこしたマジックとはいったい? チューブライディングのシークエンス写真と、戸倉氏本人のコメントを紹介する。

サーフィン人生44年間の節目、そしてあらたなる出発

2009年4月19日に人生の節目となる還暦を迎え、大好きなメンタワイでバースデーツアーを楽しんできた。

本番当日の19日、還暦祝いの金ダブマークの赤いベストを着用、自分にすごいパワーを与え、ハッピーなことが連発した。この真っ赤なベストがマジックとなり、パーフェクトでクリーンなバレルを体に触れずメイクした。スピッツがハッピーバースデーをくれた。

神がくれた人生、記憶に残る波だと感激した。

一日中、神がかったできごとばかりの誕生日となった。

還暦のこの日はサーファーでいるよろこびを実感するすばらしいものとなり、これからだという気持ちがわいてきた。

還暦を迎え、人生を振り返ってみた。サーフィンは16歳の時に湯河原吉浜で初め、それから44年、サーフィンのためにビジネスを起こし、休みなくずっとつづけている。

メンタワイでは仲間に支えられてすばらしい思い出を刻めた。
この節目を迎えられたのも、家族、会社のみんな、ライダー、そして世界中にいる仲間のおかげでこの日を迎えることができ感謝しています。

           
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