Diary-T 201 茂木さんの言葉選  その一
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2015年4月15日

Diary-T 201 茂木さんの言葉選  その一

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Diary-T 201 茂木さんの言葉選  その一

文・アートワーク=桑原茂一

ほじ(3)これも、小学校5年の頃に読んだアインシュタインの伝記で、ぼくは将来科学者になると決めてしまった。相対性理論のような革命的な理論をつくるということが、この世でもっとも深遠で、かっこいいことだと確信してしまったのだ。

ほじ(8)だから、ぼくは思うのだ。人は、自分が読んだ本を積み重ねて、その上に立った高さから、世界を見るのだと。たくさんの本を読めば読むほど、それだけ高いところから、広く遠い世界をながめることができる。変化の触媒として、本ほどの体系性と持続性を持つものはない。

えみ(9)熱帯雨林のホタルって、シンクロして光るんだよね。みんなでぱっ、ぱっ、というのは、生命としての本能の一つなのでしょう。今夜起きる皆既月食も、共同体験の一つのきっかけ。ふだんバラバラでも、つながる実感を、私たちはどこかで必要としている。

にび(8)エリートの堕落。日本の問題点はおそらくこれに尽きる。クラブへの入会試験(世界的にみれば大したクラブでもないのに)を通ると、あとは官僚でも大企業でも通じると思っている。甘い。ぬるま湯のクラブ化した日本の大学の解体的出直しをしないと、日本の再生はない。

にび(9)残念なのは、ガラパゴス化した日本の大学をとりあえず目指す以外に、小中校生の選択肢があまりないこと。本当は、大人たちが日本の教育のビッグ・バンをしてあげなければいけない。しょぼいクラブの入会試験で青春の輝きをくもらせてしまうのは、あまりにももったいない。

こほ(8)東日本大震災以降の日本は、まったなしの課題が山積。そんな中、ねじれ国会が迅速な法案審議をできず、国益に資さない党利党略を図る場になっていることは、「法律をつくる」という国会議員の職責を忘れた行為だということができるだろう。自民党には、猛省を促したい。

こほ(4)国会議員を「先生」と呼び、選挙に当選することがあたかも「出世」と見るような風潮があるが、国会の本質が立法府だということをどれだけわかっているか。現職の議員たちも、「先生」と言われながら、果たしてどれくらい法律について猛勉強して考えているか、どうも疑わしい。

てめ(4)テレビが終わっているとはよく言われることだが、その理由は、つまりはすでにメジャーなものばかり扱う傾向があるからだろう。もちろん、無名なものがスターになる下克上がゼロではないが、メジャーなものばかり取りそろえていると、作る側も受け取る側も下克上が鈍る。

てめ(1)日本人が大人しいとかいうけれど、徳川以来のことだろう。その前は下克上だった。その頃の文化が、今でも最高の質を示している。たとえば作者不詳の日月山水図屏風。文化のダイナミクスは、つまり下克上で支えられる。

子どものとき、プリンアラモードが好きだったなあ。
12月7日 TweetList Proから

おぼ(7)ただ単に、その人がそこにいるから愛しみ、大切にする。そんな幸せの原理を、「東京」の子どもたちは忘れている。仕事や、勉強や、人間の能力を量り売りし、取引する「市場原理」の下で、年老いた両親に対する 温かい気持ちを、十分に表現することができないでいる。

のの(8)共感の振れ幅が大きいやつはのびる。ぐーんと自分の感覚が広がって、しかるに自分の身体へと帰っていくことができるやつ。振れても、いっちゃったままで、自分に戻ってこれないと伸びない。ものを知らないやつは伸びない。もっとも、それに気付いたとき、超新星爆発するやつもいる。

のの(7)他人の助けを安易に借りるやつはのびない。一方、他人の美質を素直に認め、抱擁するやつはのびる。一般に、自己顕示欲の強いやつは案外伸びない。自分のことばかりで、他人が視野に入っていないからだ。クリエーターにはナルシストが多いが、それぞれの器で作品をつくる。

のの(4)人のせいにするやつはのびない。「世間って、こうじゃないですか」としたり顔でいうやつは、まずのびない。したり顔は一般にのびない。世間の常識がどうであれ、あれ、そうでしたっけ、というような涼しい顔をしているやつは、ときどき驚くほどぐーんと伸びる。

のの(3)一方、のびないやつは、自分語りを延々と続けたりする。なにか問題点を指摘すると、防護的になるやつものびない。客観的にみて、こんな穴があるじゃないか、というときに、はっと考え込むようなやつは伸びる。「それはこうで・・」と即座に誤魔化そうとするやつはのびない。

のの(1)才能とはなんだろうか。性格的要素も大きいと思う。のびる人と、のびない人がいる。それは、一つの態度である。のびない人は、自分自身の態度で、のびないのだということに気付かない。もったいない。それは、人生の一つの悲劇である。

きみ(8)今の自分を乗りこえて、それを克服していこうという態度。それが、スポーツにおいてごく自然に結びつくのは、日本人が特に強く持っている一つの文化的態度であり、それが空気のように自然なので、私たちはその価値をふだんは忘れてしまっている。

しは(9)システムへの反逆は、若者の特権だったが、資本主義の打倒やインターネットへの反対運動が無効であること以上に、反逆が意味を持たないシステムが、世界を覆いつつある。その正体が何なのか、まだ誰も名前をつけていない。それはグローバル化の必然的帰結なのだろう。

しは(8)核保有国の指導者たちは、理論的にはボタン一つで全面核戦争を起こす力を持つが、そのような状況が継続していることと、彼らが一市民と何ら変わらない、システムにぶらさがる脆弱な人間であることの間で、喜劇が演じられている。大国の大統領だって、翻弄される木の葉に過ぎぬ。

しは(7)フランシス・フクシマは「歴史の終わり」を書いたが、今、世界は確かに一つの「終わり」を迎えている。主権国家も、「システム」の一構成要素でしかない。アメリカやロシアの大統領が「権力者」であると言い方は、茶番のようにさえ見える。彼らもまた、システムにぶら下がるか弱き子羊。

しは(6)ウィキリークスが登場したとき、国家というものの存在が揺らぐように感じられた。ノーベル平和賞の権威を中国が拒否した時、価値の体系を無視して動く主体の登場を見た。アラブの春が、新時代の到来を告げた。しかし、これらの全ての動きも、やがて「システム」に回収される。

日本八策(8)「もののあはれ」のような伝統的価値観、里山における自然との共生は、世界に誇るべき日本の文化。マンガやアニメに見られる表象の豊かさ、「おまかせ」の食文化など、日本の伝統をさらに掘り下げ、発展させること。感性に根ざしたクオリア立国。自らを開いて、世界に贈り物を。

やと(7)本を「ちゃんと」出すには、やはり「ちゃんと」した出版社から、「ちゃんと」出さないと、ダサイ自費出版だと思われる。そんな思い込みから、電子出版のシステムは著者たちを解放しつつある。まさにビッグ・バン。でも、どれくらいの思い込みが、私たちをまだ縛り付けていることだろう。

やと(8)大学に行かないと学問ができないという「思い込み」もそうで、恐らくは現代では無意味。そもそも日本の大学は、文科省管轄の「学位」の独占企業。国からの設置基準の「お墨付き」をもらっているというだけの話で、現代文明を生き抜く力の実質とは無関係。

しは(5)しかし、私たちを取り囲んでいる「システム」は、資本主義や「google」をその中に含むが、より包括的で強固な、未だ名付けられていないものなのではないか。それは個々の国家さえも超えて、一つの分かちがたい存在を、この地球上に現出させている。

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