祐真朋樹・編集大魔王対談|vol.36 FPM 田中知之さん(前編)

祐真朋樹・編集大魔王対談|vol.36 FPM 田中知之さん(前編)

祐真朋樹対談

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今回のゲストはDJ/プロデューサーとして国内外で活躍し、ソロプロジェクト「FPM=Fantastic Plastic Machine(ファンタスティック・プラスチック・マシーン)」名義で音楽活動を行う田中知之さん。ともに京都出身の2人が、お互いのエピソードを交えながら80年代から90年代の京都を振り返ります。

Interview by SUKEZANE TomokiPhotographs by MAEDA AkiraText by ANDO Sara (OPENERS)

バンド活動とバイトに明け暮れた、完全にプロ志向だった学生時代

祐真朋樹・編集大魔王(以下、祐真) 田中さんがDJとして活動されるようになって何年になりますか?

田中知之さん(以下、田中)どこからがスタートと言っていいのかわからないのですが、ターンテーブル2台とミキサーを初めて買ったのは京都に住んでいる時でした。当時19歳でしたので、33年前ですね。

祐真  田中さん自身、DJに憧れていたんですか?

田中  いや、それが全くなくて。祐真さんもあの当時の京都の雰囲気を覚えていらっしゃると思いますが、ニューウェーブ※1のノリがあったじゃないですか。

祐真 ありましたね。

田中 まさに僕はあの感じにどっぷりハマっていたので、ご多分に漏れず、ニューウェーブのバンドをやっていました。時を同じくして、音楽を聞きながらバイトができたらいいなと思っていたんです。カフェバーみたいなところもありましたけど、もっと極端に音楽を楽しめるバイトはなんだろうと思った時に、京都にマハラジャ※2というディスコがあって。

祐真 はいはい!ありました。

田中 もう少し小さいクラブとかもあったけど、ちゃんとバイトの求人があるような大きな箱はマハラジャぐらいしかなかったんですよね。

祐真 四条通のマハラジャですか?

田中 はい、四条通沿いのところですね。まだ全国的に有名になった祇園マハラジャがオープンする前で京都の1号店のほうです。もう1店、三条通に、マハラジャクラブっていう小さいクラブもあって。

祐真 ありました、ありました。

田中 バンドは中学生の時からやっていたのですが、高校3年くらいになる頃にはすでにプロ志向でライブをしていました。大学に進学はしたのですが、ほとんど行かず、もっぱら音楽ばっかりやっていましたね。そんな中、高校卒業が決まったぐらいに、そのマハラジャの2店舗でバイトを始めたんです。当然お皿を廻すDJのバイトではなくて、お皿を洗うほうのバイトだったんですけど(笑)。でも音楽が聞けるからよかったんです。

祐真 なるほど。

田中 バイトを始めた当初はDJなんて見たことも聞いたこともなかったので、「あの人は一体、ヘッドホンを耳に当てながら何をしているんだ?」って、今、世の中の人が僕らのやっていることを見て思うだろうことと同じことを僕も思いました(笑)。

祐真 (笑)

田中 何度か見ているうちに、次の曲を頭出ししてミックスしているんだなということがわかってきて。当時はバンドばっかりやっていたので、DJなんていうのは全く眼中になかったんですけど、なんとなく興味が芽生え始めた頃ですね。ちょうどRun DMCが一気に世の中に出てきて、ヒップホップがメジャーになってきたような時代で、ターンテーブルは単に音楽を流すだけでなく楽器としても使えるんだ、ということを知って余計に興味が沸きました。そして19歳になった頃、バイトでコツコツ貯めたお金でターンテーブルとミキサーを買ったというわけです。

祐真 その頃、ミュージシャンとDJの違いは感じていました?

田中 もちろん、僕はニューウェーブのバンドをやっていたし、完全にミュージシャン志向だったので、ミュージシャンとして音楽を作ったり、バンドをやったりすることに代わるものなんていう認識はDJにはありませんでした。でも、楽しそうな仕事だなというのはありましたね。当時、宝島社が「キャプテンレコード※3」っていうインディーのレコード会社をやっていたんですけど、そこでバンドとしてデビューできることになったんですよ。バンド仲間と曲を作って、録音していよいよリリースだ、という時にキャプテンレコードが活動休止しちゃって。

祐真 映画みたい(笑)。

Page02. 青春を過ごした80年代京都のニューウェーブシーン

ABOUT
SUKEZANE Tomoki

1965年京都市生まれ。(株)マガジンハウスのPOPEYE編集部でファッションエディターとしてのキャリアをスタ […]