【須永辰緒インタビュー】DJ40周年フェス開催! パンク~ヒップホップ~ジャズの軌跡を語る | MUSIC
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2024年9月13日

【須永辰緒インタビュー】DJ40周年フェス開催! パンク~ヒップホップ~ジャズの軌跡を語る | MUSIC

MUSIC|【須永辰緒インタビュー】DJ40周年フェス開催! パンク~ヒップホップ~ジャズの軌跡を語る

『STE100 ~須永辰緒DJ40周年&誕生60周年記念フェスティバル~』開催!

2024年10月5日(土)東京・お台場青海地区P区画にて、レコード番長・須永辰緒のDJ40周年と還暦を祝した野外フェスティバルが開催される。当日はステージを3つに分け、さまざまなジャンルのLIVEやDJなどが楽しめる、須永辰緒の歴史を濃縮したフェスとなる。その開催を記念して、本人にこれまでのDJ生活を振り返ってもらった。

Photo by TAKASE Tatsuya | Edit & Text by TOMIYAMA Eizaburo

箱付きDJとしてスタートした1984年以来、日本のDJシーン、クラブシーンを牽引する存在となった須永辰緒さん。ジャズのイメージが強い人も多いが、そこに至るには幾多の紆余曲折があった。すべてを語ると一冊の本になるほどだが、ここでは重要なトピックスを中心に、なぜ『STE100』フェスにはこんなにも幅広いジャンルの出演者が登場するかの秘密を紐解いていく。

人から祝われるのは好きじゃないんです

――DJ40周年そして還暦を迎えられるとのこと、誠におめでとうございます。そのお祝いとなるフェス『STE100』がおこなわれますが、この企画はいつ頃から考えられていたのでしょうか?
須永 いや、いまだに僕はやりたくないんですよ。もともと誕生日とかを祝われるのがあんまり好きじゃないし、還暦だなんて偉そうに人様の前でパーティーやるなんて、自分の性格的にはちょっとないかなっていう。でも、スタッフが僕に話すより先に出演者に声をかけて、場所も押さえられていて・・・・。
――やるしかない状況だったんですね。そのうえで、どんなイベントにしたいですか?
須永 やる以上はお客さんに来てもらって、楽しんでもらえたらと思います。

『LONDON NITE』に足を踏み入れた瞬間、DJになることを決意

――須永さんをジャズのDJだと思っている人には、意外に感じるメンバーも多く出演されます。
須永 突拍子もなくBOY-KENが出てきたり。まぁ、Zeebraくんは一緒に活動してることも多いので、わかる人もいるかもしれない。
――そういった人たちとのつながりが生まれた、DJ DOC HOLIDAY時代の話もお聞かせください。まずは、DJ40周年ということで、DJを始めるきっかけからお願いします。
須永 高校生のとき、ツバキハウスのワンオフイベント『LONDON NITE』に行って大貫憲章さんとビリー北村さんを見た瞬間、将来の夢はDJだと決めたんです。ラジオでは流れないロックをそこで初めて聴いて、嬉しくて、週5日のツバキハウス通いが始まるわけです。
――20歳でのプロデビューはどこだったのでしょう。
須永 お金を貰って仕事をするのが「プロ」という意味で、青山のTOKIOです。お店専属のいわゆる箱付きのDJですね。当時、お金がもらえるDJになるには、それしかルートがなかった。外国人モデルがたくさん来るような、それに群がるお金持ちが毎晩フィーバーするようなお店で、致し方なく全米TOP 40を中心にかけていました。
――80年代までのDJの世界は、ディスコの世界ならではの厳しい徒弟制度のイメージがあります。
須永 意地悪な人もいましたけど、基本的には、先輩方にめちゃくちゃ恵まれたんですよ。それに応えようと努力もしましたし、 僕は順調だったと思います。
――箱付きのDJになった後、次の衝撃はヒップホップとの出会いですか?
須永 TOKIOに入る前からすでにヒップホップは好きでしたけど、そういうお店ではなかったので、あくまでも趣味として聴いていました。ふたつがクロスしたのは、原宿モンクベリーズに移ってから。そこで初めて、堂々とヒップホップをダンスミュージックとしてかけることができたんです。

原宿のモンクベリーズで、自分のDJスタイルが確立した

――当時はどこら辺をかけていたんですか?
須永 初期デフジャムやオールドスクール、あとは90’s前の進行形。その頃、同時にレアグルーヴの波も来るんですよ。
自分の技術が完成したのがモンクベリーズだと思っていて。そこで学んだ最後のピースが文化面。DJって、ファッションセンス、音楽のセンス、揉め事も多いので喧嘩も強くないといけない。僕に足りていなかったのは「文化面」で、モンクベリーズで音楽文化サークルの方々にいろいろな話を聞けたんです。
――「文化面」というのは具体的にどういうことですか?
須永 MUTE BEATとか、プラスチックスとか、あとは髙木完ちゃんとか、藤原ヒロシ先輩とかと、ちゃんと話すようになった。ツバキハウスのVIPにいた高嶺の花の人たちですよ。とくに大きかったのは、いとうせいこうさんとヤン富田さん、そういう先輩方の薫陶を受けたのがものすごくでかいんですよね。
これまでなんとなく雑誌『宝島』とかを読んでわかってるつもりでしたけど、自分もその末端に入れてもらえて「理解」したというか。音楽サブカルチャーを作った人たちならではの「魂」を感じたというか。
モンクベリーズでいろんなものがザッピングされて、自分はこういうDJを目指せばいいんだなと思ったんです。

DJはBARの売り上げをあげてナンボ。その精神は今もある

――そこで確立されたDJのスタイルを言葉にすると、どういうものでしょう。
須永 まず、選曲の仕方ですかね。それまでは雇われDJなので、お店のカラーに合う曲しかかけさせてもらえなくて、自分の趣味は二の次、三の次。DJっていうのは、水商売のBGM係なんです。その根っこにある精神は今でも変わってないんですけどね。つまり、DJはBARの売り上げをあげてナンボ。そのうえで、自分のかけたい曲を選曲テクニックを使ってかけられるようになったんです。
――それからDJ生活はどう変化していくわけですか?
須永 モンクベリーズに雇われながらも、「いろんなことやっていいよ」という方針のおかげでフリーランス宣言をするんです。当時、フリーランスのDJって藤原ヒロシ先輩と大貫憲章さん、あと2人くらいしか僕は知らない。NYからNORIさんや高橋透さんが帰ってきたりもしましたけど。

ヒップホップ黎明期を盛り上げたDJ DOC HOLIDAY

――ハコに縛られず好きにやれたことで、ヒップホップのパーティ『CLUB OF STEEL』が始まるわけですね。そこでDJ DOC HOLIDAYが誕生する。
須永 そうそう。途中でECDが合流するわけだけど、平日なのに毎週200人くらいお客さんが入ったんですよ。当時はデフジャム系のヒップホップとスラッシュメタルをかけていました。スケーターはスラッシュメタルを目当てにくるの、それはそれで盛り上がる。
その頃のヒップホップって、来歴がブラックミュージックか、もしくはロックから来た人に分かれてたんです。僕らはヒップホップに新しいロックの可能性を感じたグループ。MAJOR FORCEも完全にそっちだから、僕はCREWの一員だったんですけど。
ANTHRAXとPUBLIC ENEMYがジョイントした「Bring The Noise」(1991年)は完全な理想形。「来たぞ、ついに来た」と大変盛り上がりました。
――『STE100』にヒップホップ勢が出ているのは、当然とも言えるわけですね。
須永 「ロックからきたヒップホップ好き集団だよ」というイベントを提示したんで、そういう連中が全国から集まったんですよ。毎回来るのがブッダブランドのDEV LARGEだったり、スチャダラパーだったり、YOU THE ROCK★、DJ KAORI、A.K.I.プロダクションズとか、とにかくみんなそこにいるんです。
――1990年には、RHYTHMレーベルも立ち上げられました。
須永 MAJOR FORCEに若いラッパーを推薦するんですけど、「まだリリースするレベルじゃない」となって。それならレーベルを作ろうと、代々木チョコレートシティが運営していたナツメグレーベルが興味を示してくれて。
『CLUB OF STEEL』にいつも来ていたDJ PMXが初代のプログラマーになって、彼がテクニカルを担当して僕がソフト面を担当していました。YOU THE ROCK★のファーストとか、BOY KENのようなレゲエ、あとはガス・ボーイズとか、片っ端から出しましたね。

オルガンバーのプロデューサーとして新たなシーンを構築

――次の大きな波は、1995年のオルガンバーのOPENですか?
須永 その2~3年前からヒップホップに大手が参入してきて、商業主義的なものに巻き込まれてシーンに嫌気がさしていたんです。あと、僕が好きだったヒップホップはサンプリング・スポーツ。それが権利の関係で禁止になって、DR.DREとかが出てきて音が全部変わっちゃった。そこでヒップホップDJを辞めるんです。昔からのつながりがある人のイベント以外は、出ないようになったのもその頃です。
同時に料理が楽しくなっちゃって。イタリアンレストランで勉強をし始めたら、わりと僕は器用で優秀なようで。もうイタリアに行ってこの世界で身を立てようかと思ってるとき、友達に誘われてレコード屋を手伝うわけです。
――『dancyu』でラーメンづくりの連載をされていたり、料理好きは有名です。
須永 そのレコード屋に、インクスティック渋谷をやっていた社長が毎日来るんですよ。近くに物件を見つけたから、プロデューサーをやらないかと。最初は断っていたんですけど「好きにやっていいから」と押し切られて。
その時期はレコードの買い付けでNYにも行っていて、SOHO辺りのお洒落なホテルに行くと世界中からわりと有名なDJが毎夜プレイしている。お客さんといえば、踊るでも踊らないでもなく、みんな気持ちよくカラダを揺らしてて。当時、渡米していたDJ KAORIに聞いたら「ラウンジ」というスペースだと。その雰囲気を再現するような、大人が飲みに来る場所にしようとオルガンバーを始めるわけです。
――そこからジャズの要素が入ってくるわけですね。
須永 ヒップホップはもうほとんどかけてなくて、元ネタと言えるレアグルーヴ的なソウル、ファンク、ジャズ。ジャズでもブルノートの70年代LAシリーズとか。あとは、ボサノバとかブラジル音楽などのワールドミュージックも買うようになって、自然とサブジャンル的なものでDJをするようになってました。
――『STE100』にはオルガンバーで活躍されてきた面々もたくさん登場します。
須永 開店当初からMUROくんにやってもらったり、矢部直(ex.United Future Organization)とか、荏開津くん、あとは高宮(永徹)くんもそうですね。
オルガンバーはオールジャンルなんだけど、音の平均化(イコライジング)など、オールジャンルだからこそ難しいんですよ。クボタタケシくんもそうですけど、そういうDJが集まってきて、さらには小西(康陽)さんが合流してくださったり。因みに僕の「レコード番長」という冠、これって小西さんとふたりで始めたイベントのタイトルなんです。いつの間にか独り歩きしているけど。
クレイジーケンバンドは、まだ売れていなかった頃にCKBの社長に薦められて、聴いてみたらすごく面白くて応援してたんです。そこから、「CRAZY KEN'S MIDNIGHT HOURS」というイベンをやって、横山剣さんにもDJをやって頂きました。そこで小西さんと横山さんがつながっていく、とか。
――まさにラウンジとして、音楽人のサロンのような場所になったわけですね。その後、2001年にはSunaga t experienceがスタートします。
須永 曲を作るのはRHYTHM(レーベル)でこりごりだったので、やらないと決めていたんですよ。でも、The Sugarhill Gangのリミックスのお仕事が来て。僕はやりたくなかったんだけど、今度は高宮くんに説得される。そしたら意外と楽しくて、小西さん経由などで縁も繋がって、運良く次から次へとリミックスの仕事が来るようになったんです。盟友ともいえる高宮くんには感謝しかない。以降も100曲以上は高宮くんとの共同作業です。
そんなときに、avexから「個人名義のアルバムを出しませんか?」と。自分ひとりではなくみんなで作っていくので、メンバーは流動体だけど、仮の名前としてSunaga t experienceという名前にしたんです。experienceは、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスからきてます。
――その頃から、DJのみならずジャズプレイヤーなどミュージシャンとの付き合いが増えていきますよね?
須永 紹介が多いですね。でも、ジャズの世界とDJやクラブの世界は全く別物だった時代。今はさすがにないですけど、昔のジャズミュージシャンはクラブミュージックに興味がなかったですね。
でも、そこを突破する若いミュージシャンがいたり、DJ側から突破する人、音大やジャズ研からクラブミュージックに寄ってくる人もいて、少しずつフュージョンし始めるんです。そうしていつの間にか風通しが良くなった記憶があります。

ジャズ界とクラブシーンの橋渡し役として

――かつて、ジャズの世界は閉鎖的な雰囲気がありましたよね。
須永 最初は煙たがられましたよ、ものすごく煙たがられた。でも、『Jazz Quintet 60』という超レア盤があるんですけど、「あれを30万円で買ったDJがいるらしい」ってジャズ界で話題になったらしいんです。
それを面白がった当時の『スイングジャーナル』三森隆文さん(故人)が、「連載してみませんか?」と誘ってくれて。それも最初は断るんです。最終的に、読者ハガキのアンケートで「否」が50%以上になったら辞めますって。運良くギリギリのところで超えなかったですけど、「DJなんか出すな」という声はあったみたいです。
その後、ジャズ評論家の寺島靖国さんとか、著名なジャズ喫茶のマスターとかもわりと面白がってくれて、一緒にイベントをやったりするようになるんです。
――須永さんのDJ人生を振り返ると、ジャズをかけるスタイルが一番長くなっていますよね。
須永 生音のジャズでフロアを成立させるのは、技術的にも多分一番難しいと思います。でもそれに挑戦している自分が好きで。というのも、それがパンクだから。
パンクのDJから始まって、根っこはずっとパンクなんです。獣道が好きで、誰も通っていない道を行くのが気持ちよくて、それが続いている感じです。
――ジャズのレコードで踊らせるのは本当に難しいですよね。
須永 最近は「踊らせないDJ」もいいかなと思っていて。踊らせなくても「気持ち良きゃ十分だな」っていうDJスタイルになってますね。「こういう音楽あるよ」「こういう聴き方あるよ」「こう並べるとこの曲気持ちいいでしょ?」って。DJというよりはキュレーターに近くなっているかもしれない。
――駆け足でDJ人生を振り返っていただきましたが、『STE100』の出演者の豊富さと幅の広さを見ると、やはり須永さんの人徳を感じます。
須永 野宮真貴さん、横山剣さん、DJ NORIさんといった先輩方は、スタッフが事前に声をかけてしまったんですけど。途中で今回の企みに気がついたとき僕が注釈をつけたのは、「誰を呼んでもいいけど、以降、先輩方を呼ぶな」って。
あの人たちになりたくて僕はずっと努力してきて、いまだに追いついていない。それに、尊敬する先輩方の還暦はコロナがあったりもして、何もお祝いできていない。「自分が還暦だから祝いに来てもらうって、そんな筋の通らない話はないだろう」ときつく伝えました。
――なるほど、そういう思いがあったわけですね。まだ聞きたいことはたくさんあるのですが、最後に、人付き合いにおいて心がけていることを教えてください。
須永 あんまないっすね。ただ、クレイジーケンバンドとかEGO-WRAPPIN'とかもそうだったけど、「こんなにかっこいいのに、なんでみんな知らないの?」っていう応援癖があるんです。そこを、皆さんが僭越ながら「恩」に感じてくれているのかもしれない。あとは、「おごり癖」ですね。後輩に金を出させない。多分、後輩の酒代だけで3000万円くらい使っています。
――そういう男気のイメージがあります。
須永 僕は3000万円で男気を買った、のかな?
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STE100 ~須永辰緒DJ40周年&誕生60年記念フェスティバル~
Supported by 西原商会

日程|2024年10月5日(土)
時間|11:00〜20:00
会場|お台場青海地区P区画(東京都江東区青海1丁目1)
前売りチケット|10,000円 / グループ割(4名)36,000円
VIPチケット|200,000円(1テーブル4名まで・豪華特典付)
当日チケット|12,000円
*消費税込 *保護者同伴の15歳以下は入場無料
販売期間|2024年8月22日(木)18:00~10月4日(金)22:00
オフィシャルサイト|http://ste100.tokyo/
―出演者―
【ODAIBA Stage】

■EGO-WRAPPIN’ (Acoustic set) ■スチャダラパー■SOIL&”PIMP”SESSIONS ■T字路s ■fox capture plan ■Sunaga t Experience 100 P.A. Live
featuring:横山剣(クレイジーケンバンド)/ 野宮真貴 / akiko
Zeebra / BOY-KEN / RINO LATINA II / YOU THE ROCK★ / ZEN-LA-ROCK from Dirty30 Crew / DJ YAS / TRI4TH Horns(藤田淳之介 / 織田祐亮) and more

【Club One hundred】
DJ EMMA / YOSHIHIRO OKINO(Kyoto Jazz Massive / Especial Records)/ DJ KAORI / DJ KAWASAKI / Captain Vinyl(DJ NORI & MURO)/ クボタタケシ / DJ KOCO aka SHIMOKITA /DJ JIN(RHYMESTER / breakthrough)/ 高宮永徹(Flower Records)/vinyl DJ Eiji Takehana(ex JAZZ BROTHERS)/ 田中知之(FPM)/ 中塚武 / NISHI / DJ PMX / 松浦俊夫 / Yama a.k.a. sahib and more(50音順)

【moderno lounge】
伊藤陽一郎 / 岩瀬純生 / 黒田大介(kickin)/ DJ KANBE / K;tea / 櫻井喜次郎 / 佐野真久 / 城内宏信 /谷口慶介 / CHINTAM(BLOW UP)/ T.SEK(I SOUNDS OF BLACKNESS)/ 常盤 響 /Naz Chris(TOKYO M.A.A.D SPIN)/ NAO NOMURA / 西山 隆 / Marcy(Little Bird)/ 松田 “CHABE” 岳二 /山下洋(WACK WACK RHYTHM BAND)/ YMD / 横山龍助 / 吉永祐介 / LADY-K / ROCK-Tee /WARA(Asayake Production) and more(50音順)
                      
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