[レック インタビュー] 孤高のロックバンド FRICTIONのニットが登場 | MEDICOM TOY
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2024年11月27日

[レック インタビュー] 孤高のロックバンド FRICTIONのニットが登場 | MEDICOM TOY

MEDICOM TOY|メディコム・トイ

KNIT GANG COUNCIL “FRICTION” 「CREW NECK SWEATER “軋轢”」「CREW NECK SWEATER “PISTOL”」

1970年代末期に突如巻き起こったムーブメント“東京ロッカーズ”の象徴として活躍し、いまなお日本の音楽シーンに燦然と輝くロックバンド、FRICTION(フリクション)。その鮮烈なデビューシングルとデビューアルバムのグラフィックを落とし込んだニットが登場する。

Text by SHINNO Kunihiko|Edit by TOMIYAMA Eizaburo

KNIT GANG COUNCIL × FRICTIONが生み出す“ノワール(黒)”

1980年にリリースされたFRICTION の1stアルバム『軋轢』は日本のロック史を語る上で欠かすことのできない歴史的名盤。同時発売となったシングル「I CAN TELL / PISTOL」のジャケットには、バンドの中心人物であるレックがこよなく愛する“ピストル”が使用されている。
そんな名盤デザインを、編み物☆堀ノ内氏がニットデザインを手がけるKNIT GANG COUNCIL × FRICTIONという最強コラボレーションで表現。リリースを記念して、メディコム・トイによるレック氏の貴重なロングインタビューを行った。『軋轢』「I CAN TELL / PISTOL」のアートワークにまつわる話を皮切りに、少年時代、70年代に結成したバンドについて語ってもらった。
FRICTION
1978年、ニューヨークから帰国したレック(ベース/ヴォーカル)を中心に結成。 1979年、オムニバスアルバム『東京ROCKERS』に2曲参加。PASS RECORDSよりEPをリリース。 1980年、レック、チコ・ヒゲ(ドラムス)、ツネマツマサトシ(ギター)による3人編成では唯一のスタジオ作品となった1stアルバム『軋轢』を発表。その後メンバー・チェンジを繰り返し、1996年11月のライブを最後に活動休止。 2006年4月にレックと中村達也(ドラムス)の2人編成で活動を再開。今冬、P-VINEより『軋轢』『ライヴ・イン・ローマ』『79ライヴ』『ライヴ PASS TOUR '80』がアナログ盤でリイシュー予定。
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みんな『軋轢』(あつれき)が読めなかったんだよ

──まずは今回発売されるセーターのモチーフになったアルバム『軋轢』の話から聞かせてください。
レック あのレコードジャケットは、その後フリクションのメンバーにもなるハルナくん(Scher-Z Haruna)のアイデア。彼は美大を卒業した人で、知り合った頃はデザインの仕事をしてたんだ。フリクションのライブも観に来ていて。それで「軋轢」のジャケットをどうするか相談したら、知り合いが街の写真館やってて本格的に写真撮れるからそこで撮ろうと。
彼のアイデアは首に力を入れたときに出る筋(すじ)を撮りたいって言うんだ。それもまっすぐだと力が入らないから、仰向けになってちょっと起き上がると力が入るからって。それで3人とも裸になって同じ格好して写真を撮った。結局どういうわけかオレになった。ヒゲとマッちゃん(ツネマツマサトシ)の写真は未発表のまま。
ただ、身体を起こしたままの状態だと疲れるじゃない? だから実際はそこにいた誰かが手で軽く支えてくれて、あとで黒く消してあるっていうのが、こぼれ話。そこにタイトルを「FRICTION」と入れた。だけど他に何も書いてないからレコード会社は帯をつけるって言うんだけど、オレとしては帯のないジャケットで出したかった。日本盤はみんな帯ついててあんまり好きじゃなかったから。
──「軋轢」(あつれき)と書いてあります。
レック 帯つけるなら何か書かなきゃということで、FRICTIONを辞書でひくと「摩擦」「軋轢」とある。漢字2文字がかっこいいと思ったんだな。ニューヨークから帰ってきて日本人に目覚めたての頃だから(笑)。「軋轢」はみんな読めなかったからおもしろいと思って。正式なタイトルは『FRICTION』だけど、「軋轢」とデカく書いてあるから、みんなそう呼ぶようになっちゃった。
──共同プロデュースの坂本龍一さんはどういう経緯で参加されたんですか?
レック オレが会った頃はもうYMOやってたから名前は知ってたけど、知り合いではなかった。パス・レコード(PASS RECORDS。後藤美孝と山崎久実が1979年に設立した音楽レーベル。フリクション、Phew、突然ダンボールなどをリリース)の後藤くんが友達で、エンジニアを誰がするかってときに、詳しいと思うからって彼になったんだ。当時、オレは30歳、彼は28歳だったけど、スタジオで会ったときはオレより年上に見えたね。
──裏ジャケットはレコーディングスタジオの写真ですか。
レック これは廣瀬くん(廣瀬忠司)、通称ジェファーソンにスタジオで撮ってもらった写真。ケーブルが生きモノみたいでおもしろかったからね。彼はもともと知り合いで、フリクションの映像を撮りたいってライブを撮りに来たこともある。彼はそれを作品にして外国でも上映したようだ。ジェファーソンの映像は同じシーン同じ動きが何度もくり返されるのが特徴で、オレもくり返し同じ動きしてる。
──同時発売されたシングル「I CAN TELL / PISTOL」は?
レック アルバムをつくってシングル盤も出そうってことでピックアップしたのが「I CAN TELL」と「PISTOL」。「PISTOL」はアルバムに入ってないから、このシングルでしか聴けないんだ。昔のやり方っていうか、ビートルズのシングルのB面にしか入ってない曲に結構名曲があるのを真似したんだな。
「PISTOL」はニューヨークに行く前から3/3でやってた曲で、スタジオでせーの! で演奏してカセットで一発録りしたやつだからすごい音してるよ(笑)。
──こちらのジャケットもインパクトあります。
レック 人形の首取ってピストルぶっ込んでるやつね。これは1977年にニューヨークに初めて行ったとき、「ヴィレッジ・ボイス」っていう新聞にちっちゃく載ってた写真。オレはデザイン学校に行ってたから、おもしろい写真見つけるたびに切り抜いてとっておくクセがあるんだ。そこから引っ張り出して使ったんだな。言葉もおもしろい言葉があると集めとくし。それで曲をつくるときに集めた言葉をピックアップして歌詞をつくってた。カッコつけて言うとカットアップ(アメリカの小説家ウィリアム・S・バロウズが発明した、テキストをランダムに切り刻んで新しくつくり直す技法)だね。
──この頃、レックさんはフリクションのライブチラシ、ミニコミ「WATCH OUT」をつくっていますが、もともとグラフィックに興味はあったんですか?
レック 小さい頃から絵が好きで、漫画家になろうと思ったこともあるからね。オレが生まれたのは終戦から5年後だから、東京もまだ復興してない。生まれは御茶ノ水だけど、育った十条は周囲にビルはほぼないし、道も舗装されてない。イメージとしては映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(1958年の東京が舞台)に出てくる男の子がオレ(笑)
──どんな少年時代でした?
レック うちにテレビが来たのはオレが小学生のとき(日本では1953年にテレビ本放送を開始)。それまでは駅前の高いところに置かれた街頭テレビ。やってたのはニュースか野球かプロレス。できたばかりだから放送するものも少ないわけだ。覚えてるのは会社帰りのサラリーマンとかが、それを見てる光景をテレビ側から録った写真があって、嬉しそうな顔して見上げてるおじさんがいっぱい写ってるんだ。未来を感じてたんだろうな。これからどんどんよくなる、みたいな。そういう顔してる。
テレビが家に来てからは、アメリカに完全に心を持っていかれたね。小学生の頃は毎日テレビでアメリカのドラマを見てた。結構オレと同世代の少年が主人公だったりするわけ。『名犬ラッシー』(日本では1957年11月~1964年3月放送)とかね。戦争ものの『コンバット!』(日本では1962年11月~1967年9月放送)にも、すごくハマったな。そのうち日本でもテレビ番組がつくられ始めるんだけど、まだビデオがないからドラマも生放送。放送事故も多かったよ。覚えてるのは『三匹の侍』(1963年~1969年)が終わったあと、ミスでさっき斬られたやつが起き上がるところが映っちゃった(笑)。オレの育った時代はそういう穴とスキマだらけで。テレビだけじゃなく、街全体がね。70年代までは。いまは窮屈すぎて呼吸困難。

漫画じゃないんだ、劇画ね

──漫画もたくさん読んでいたんですか?
レック これまた毎日読んでたよ。最初に好きになったのは『ビリーパック』(作・河島光広。『少年画報』54年10月号から62年7月号まで連載)という探偵漫画。それから1日10円で漫画本を借りられる貸本屋に通うようになると、さいとう・たかをに出会うわけ。特に『台風五郎』って作品が大好きだった。当時はテレビでも『日真名氏飛び出す』(1955年~1962年)っていう私立探偵もののドラマが人気だったんだ。『台風五郎』は新刊が出るたび借りてたし、貸本屋は時間が経つと安く売ってくれるから、それもよく買ってたね。
──さいとう・たかを先生のファンとは意外でした。
レック さいとう・たかをは「自分の描いてるのは漫画じゃない、劇画だ」と宣言して、絵を描くのが好きな少年たちのために「劇画集団ジュニア」という親睦会をつくった。切手を送ると会報誌が届いて、墨汁とGペンを使おうとか劇画の描き方をいろいろ教えてくれて、作品を送って入賞すると、さいとう・たかをの原画がもらえるんだ。オレも描いたよ、ギャングものの短編。
タイトルも大人っぽくしなきゃと思って『華麗なる殺し』とかなんとかつけて、佳作で入った。もらった原画はまだ持ってるよ。ずいぶんあとで思ったんだけど、さいとう・たかをはハードボイルドやノワールからすごく影響を受けているんじゃないかな。世界には日の当たるサイドとダークサイドがあって、オレはダークサイドに興味あったんだ。
──ロックンロールとの出会いは?
レック 中学生のときにラジオで聴いたビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」。すごくショックだったから、いまでも覚えてる。それまでもアメリカンポップスはいっぱい日本に入ってきていて、ニール・セダカが甘い声で歌う「恋の片道切符」や「カレンダー・ガール」なんかは聴いてたんだけど、そこにいきなり例の♪Shake it up, baby nowが来た。あれは当時の歌からすると、とてつもなく叫んでるわけ。だからびっくりしちゃったんだよね。それでビートルズというイギリスのバンドがあることを知ったんだ。「ロック・アンド・ロール・ミュージック」という曲があって、オリジナルはチャック・ベリーだけど、こういうのがロックンロールなんだって。それからはアルバムが出るたびに買って聴いてたし、そのうちに自分でもやりたくなるわけだ。
当時はひとクラス50人のうち、ビートルズが好きなやつは1人か2人。たぶん知らない人のほうが多かったんじゃないかな。オレのクラスにはもうひとりいたから、放課後に残ってシングル盤の歌詞を見ながら2人でよく歌ってたよ。「シー・ラヴズ・ユー」とか歌うと気持ちいいんだ。しばらくすると楽器あった方がいいよなってことで、親戚の人がくれたクラシックギターをエレキみたいに下げられるようにして。当時はまだ弾けないのにね。子供が風呂敷をマントがわりにスーパーマンになるのと近い(笑)。だけど、「ああ、これがロックンロールなんだ」とわかったのは中野サンプラザでルー・リードを観たとき(1975年)、リズムと動き──特に下半身の動きでロックンロールが何なのかわかった(笑)。
1979年10月27日、高円寺 次郎吉でのライブ告知チラシ(提供:RECK)
──最初のエレキギターはいつ頃買ったんですか?
レック 高校生になってから。高校ではビートルズ好きの集団がいて、体育用具置き場でいつも練習してたんだ。最初は買いやすいテスコ(Teisco)。そのあとハニー(Honey)が出したジョージ・ハリソンが使ってたグレッチそっくりなモデル。次のグレコ(Greco)のブラックレスポールは結構長く使ってたな。
──この前、セーターの打ち合わせの際にうかがいましたが、ビートルズの来日公演を武道館でご覧になっているんですよね(1966年6月29日6月30日~7月2日、東京・日本武道館で5回公演)。
レック 知り合いにチケットが2枚あるから1枚あげるよって言われてね。だけど別にうわっ、すげえとは思わなかったんだ。ビートルズは大好きだったけど、すごく観たいわけでもない。そこがちょっとヘンなんだ。もう自分で演奏し始めてたからかもしれないね。おまけにジョージ・ハリソンはグレッチ(Gretsch 6122 Country Gentleman)、ジョン・レノンはリッケンバッカー(Rickenbacker 325)のギターなのに、その頃はジョージとジョンがエピフォンのセミアコ(Epiphone CASINO)を使ってたから、かたちとして違うじゃない?(笑) そうすると「目の前のステージにいる人たちはビートルズじゃない!」みたいなね。
──イメージしていたものと違っていた、と。
レック ジミー・ペイジがレスポールを持ったときも同じだったな。レッド・ツェッペリンがデビューした頃のジミー・ペイジはテレキャスのイメージだから。初来日(1971年)ではチョッキ着てヒゲ生やしてレスポール持ってるから、これはオレのツェッペリンではないと。だからフリクションのファンの気持ちもわかるよ。「ツネマツのいないフリクションは観ない」と言ってる人がいたけど、否定する気はない。いまでもツェッペリンは一枚目のアルバム(1969年『レッド・ツェッペリン I』)が一番好きだし、ミーハーなんで、なんでも興味あるとかじりに行くし。だけど、それがよかったのかもしれない。

「レック」はロートレックから

──チコ・ヒゲさんとの出会いは?
レック デザイン学校を卒業してこれからどうしようかなと思ってたときに『ミュージックライフ』か何かでギター募集を見つけてね。ヒゲに言わせると、オレはわら半紙にでかい字で「ギターやりたし」と書いてたらしい。普通の便箋じゃおもしろくないと思ったんだろうな。それでなんだこいつと思ったみたい。新宿の喫茶店で会ったんだけど、オレは席についていきなり「ギターソロは弾けないよ」と言ったらしい。実際そうだったから。じゃあ何弾くのと聞かれて「カッティング」だって(笑)。それでヒゲは気に入ったんだな。
ヒゲの実家は北海道で「うちに来れば住んでいいしメシも食える、毎日練習できるから」って言うから、よし! と思って北海道に行ったわけだ。そのときヒゲがつくろうとしたのはビートルズのコピーバンドっぽいものだったな。北海道に友達2人いて、そういうバンドつくって東京でデビューしようと考えていたんだけど、オレとヒゲ、他の二人に分かれちゃって結局東京に戻ってきたんだ。
──その頃、レックさんが常連だったという高円寺のロック喫茶「ムーヴィン」の話を聞かせてもらってもいいですか。
レック 和田くん(和田博巳。新宿のジャズ喫茶「DIG」勤務を経て1969年、高円寺に「ムーヴィン」をオープン。1972年、ロックバンド「はちみつぱい」にベーシストとして参加)がやってた店だね。オレはほぼ毎日行ってたよ。狭い店だけどね。一番最初はデザイン学校で出会ったカントに連れてってもらったんだ。カントはその後、村八分のドラマーをやったりしてね。ムーヴィンの客は長髪の普段何してるかわかんない人たちばかりで、みんな「ジャン」とか「ナポ」とか呼び合っていて本名じゃない。
「ナポ」は当時テレビでやってたアメリカのドラマ『0011 ナポレオン・ソロ』(日本では1965年から1970年まで放送)ってドラマからとったと言ってたな。そのうちオレも何かつけなきゃまずいなと思って「レック」と自分でつけたわけ。
──由来は録音の「REC」からですか? 
レック ロートレック(1864 - 1901)が好きだったから。ポスターの元祖って言われてるフランスの画家だね。そこからとって「レック」にしたんだ。ロートは製薬があるから(笑)。
ムーヴィンの常連客はオレよりちょっと年上だから、いろんなことを教えてもらったな。その頃、日本では寺山修司の劇団天井桟敷が人気で、『書を捨てよ、町へ出よう』って本で若者に家出を勧めてたんだ。オレは天井桟敷は日本っぽくてダメだったんだけどね。アメリカにやられてるからね。それで親父と喧嘩して何も持たずに飛び出して、高円寺にあるカントの家にころがりこんだんだ。
カントも「よくやった」とか言って。かわいらしい時代だったよ。ヒッチハイクもよくやったな。最初は北海道でやって、道端で親指立てて旭川から釧路まで乗せてもらった。それしないと周りが一人前と認めてくれないわけ。高円寺からヒッチハイクで京都まで行く人も多かった。村八分がいたし西部講堂もあってロックが盛んだったからね。
──70年代初頭の空気が伝わってきます。
レック 1969年にアメリカでウッドストック(1969年8月15日~17日、アメリカ合衆国ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開かれた野外コンサート。ロック・グループ、フォーク歌手など30組以上が出演して約40万人の観客が参加)があったことは大きかった。
映画館で観てびっくりした。あれだけ多くの人が集まってるのも、みんな裸で水浴びしてたりするのも。初めて見るものだったから。リッチー・ヘブンスがギター1本で「フリーダム」って曲を歌って、インパクトすごかったな。ジミヘンは3日目の最後だったから、観客の後ろにゴミが散乱してて。ザ・フーも強力だったね。「サマータイム・ブルース」観て、なんだこれ! って。フーは『ライヴ・アット・リーズ』ってライブ盤が好きだったね。ジョニー・ウインターもMC5もスタジオ盤よりライブ盤のほうが断然いい。それがインプットされてるから自分でもライブ盤をつくりたいと思っちゃうんだな。
──その頃、特に印象的だったライブのエピソードはありますか?
レック ヒゲと二人で北海道から東京に戻ってきてベース弾けるやつを探していたとき、中津川でフォークジャンボリー(「第3回全日本フォークジャンボリー」。1971年8月7日~9日の3日間で約2万人の観客が参加)が開催されることになったんだ。
オレはフォークは嫌いだったから興味なかったけど、ムーヴィンに来てる客から「トラックの後ろに乗ればタダで行けるから、みんなで行かないか」と声がかかってね。なんでも、黒テント(唐十郎の「状況劇場」、寺山修司の「天井桟敷」とともにアングラ演劇ブームを代表する劇団)の人が会場にテント立てるから、その中で好きなことやっていいよって。ムーヴィンの常連の中にはベース弾けるやつもいたから、みんなでトラックの荷台に乗って中津川まで行ったよ。何時間もかけて。
そういうのも若いから楽しいわけ。ところがベースのやつが肌が合わなかったみたいで途中で帰っちゃったんだ。それで顔見知りのひとりに声をかけて、その辺にあった誰かのギターを借りてベースパートをやってもらったんだ。ジミヘンっぽい、ワンコードだけで進んでいける曲をね。
──レックさんが中津川フォークジャンボリーに出ていたとは驚きです。
レック 出てたといってもメインステージじゃないからね。ちっちゃいステージの、端っこの方にいたってだけの話。ちなみにテントと別のステージでも演奏したんだけど、そこになんとツインリヴァーブ (Fender Twin Reverb/フェンダー社製の全真空管ギターアンプ)があったんだ。それがツインリヴァーブとの出会い。こんなとこに! みたいな。オレはその頃はエフェクターを使ってなかったから、直でつないであまりの気持ちよさにびっくりした。このギターでこんな音が出るんだ!って。
そのあと、乗ってきたトラックが当時ヤマハが経営していた「合歓の郷」(三重県志摩半島にあるリゾート。1969年~1973年までヤマハポピュラーソングコンテストの開催地)に行くっていうから、オレとヒゲも乗ってったんだ。野外ステージがあるから、そこで二人で演奏して。フォーク全盛だからまわりはフォークやってる人が多かったけど、終わったあと「君たち、いいね」って言われて。そんなこと言われたことないから、うれしかった。のちにそれが三上寛だったことがわかった。後日、中央線の中でバッタリ会って「あれっ? あのときの!」って(笑)
1993年7月12日・渋谷クラブクアトロ、7月15日・下北沢チョコレートシティでのライブ告知チラシ(提供:RECK)

「スイングしなけりゃイミがない」

──そしてチコ・ヒゲさんと新たなバンド「BLOW UP」を結成するわけですね。
レック オレが自分ではハードロックとよぶべきものに出会ったのはビートルズの「レヴォリューション」なんだけど、次がヤードバーズだったんだ。当時『欲望』(66年)という映画が公開されて、ポスターがかっこよかったから観に行ったんだ。主人公のカメラマンが着ていたブルーのシャツの上にベルベットの濃いグリーンのジャケット、白いズボンに憧れて、似たやつを探してきてデザイン学校の写真の授業のときになりきる。そういうトリップが多いんだ(笑)。
あの映画にヤードバーズの演奏シーンがあって、一発で好きになった。ギター壊すやつ(ジェフ・ベック)がいるし、ジミー・ペイジはニヤッとしながらずっとギター弾いてるし、とにかくかっこいい。それでバンド名を『欲望』の原題、BLOW UPにしようと思ったんだ。
──BLOW UP解散後、レック(ギター)、チコ・ヒゲ(ドラムス)、ヒゴ・ヒロシ(ベース)のトリオ編成で「3/3」を結成。1975年にリリースした自主制作盤『3/3』はわずかプレス10枚だったとか。
レック ジャケットは全部手製。自分でスプレーして、宇宙飛行士の絵を貼って。枚数多くないからできたんだな。盤もアセテートだから塩化ビニールより重くて割れやすいんだ。その1枚が何年か前にオークションで120万で売れたって聞いたときは驚いた。
──現在はサブスクでも『3/3』の音源を聴けますが、ジミ・ヘンドリックスの影響を強く感じます。
レック オレがビートルズのコピーバンドやってた60年代の後半、レコード屋が主催したバンドコンテストに出て「ベイビー・イッツ・ユー」を歌っていたら、別の3人組がジミヘンの「パープル・ヘイズ」を演奏していたんだ。当時は全然理解できなかったけど、そいつらのほうが断然新しいことはわかったよ(笑)
オレが最初にストラト(Fender Stratocaster)を買ったのは、ジミヘンのモンタレー・ライブ(67年6月のモンタレー・ポップ・フェスティバルでのオーティス・レディングとジミ・ヘンドリックスのライブを片面づづに収めたアルバム)の写真に映ってたストラトを見て、かっこいいなと思ったんだ。
アームもついてるしおもしろそうだから探したら、お茶の水に一本あったんだ。ちょっとキズありのキャンディーアップルレッドのストラトキャスター。ラージヘッドの時期のモデルだね。それを1年払いの月賦で買った。返済するためにシャンプーのフタを詰めるバイトとかしながら。ガス漏れ警報機やお茶の訪問販売もやったな。オレにはできないと思ってすぐ辞めたけど。
──今日はレックさんの幼少期など、フリクションにつながる貴重な話を聞かせていただきました。ちなみにいまの音楽シーンについてはどう思っていますか?
レック 日本のバンドのほとんどはバックビート(四分の四拍子で、二拍目、四拍目に重心を置く、落とす)ができてないというのが由々しき問題。2と4でしっかり落ちてないから、音が軽く速くなっちゃう。それができれば、もっと気持ちよくなれるハズなんだ。
バックビートのハナシではないんだけど、去年ライブを観ておもしろいと思ったバンドが2組あって、ひとつは知り合いの息子がやってる3人組のバンドで、全員20代前半……かな。ドラマーが女の子で(H.A.M)。もうひとつも3人組で、CHO CO PA CO CHO CO QUIN QUIN。なんだこれ? 聴いたことないぞって音なんだ。10分ぐらいある長いインストの曲もサイケデリックな感じで最後まで興味深く聴けたし。オレはその2バンドでツアーすればいいのにと思ったよ。余計なお世話だけど、たぶん(笑)。
──いまどきのバンドもかなりこまかくチェックしてるんですね。
レック こまかくではないけど、若い子がどんなことやってるか気になるからね。アメリカのバンドだと、Die Spitz(ダイ・スピッツ)。女の子4人組なんだけど、元気だし演奏もすごくちゃんとロックしてる。ギターとドラムがときどき交代するんだけど、ギターの子のドラムがものすごくいいんだ。彼女たちを日本に呼びたい(笑)。NOVA TWINSって2人組もいいよ。ベースが超クール。
──最後に、今年12月からの『軋轢』やライブアルバムなど4作品のアナログ盤再発に続き、田口トモロヲ監督、宮藤官九郎脚本による「東京ロッカーズ」を描いた新作映画も噂される中、今後のフリクションの活動予定について聞かせてください。
レック ライブはやりたいと思ってる。オレが気持ちよくなれるリズムがつくり出せればね。これはオレの説だけど、快感を得ずしてライブをやってるミュージシャンは身体を壊すと思う。そこから始まってるはずなのに、仕事になってからが問題。オレはただ気持ちよくなりたいだけ。「気持ちイイ」をつくり出したいだけ。それ以外ないから。「気持ちイイ」を受け取って「気持ちイイ」をつくり出す。それが出来なければLIVEをやるイミがないからね。「スイングしなけりゃイミがない」(デューク・エリントンの言葉)ってヤツだ。
KNIT GANG COUNCIL “FRICTION”
CREW NECK SWEATER “軋轢”
ニットデザイン|編み物☆堀ノ内
サイズ|M, L  ※缶バッヂ付き
発売日|メディコム・トイ直営各店舗及びオンラインストア各店、一部店舗にて2024年12月発売・発送予定
価格|3万800円(税込)
©️ FRICTION
CREW NECK SWEATER “PISTOL”
ニットデザイン|編み物☆堀ノ内
サイズ|M, L  ※缶バッヂ付き
発売日|メディコム・トイ直営各店舗及びオンラインストア各店、一部店舗にて2024年12月発売・発送予定
価格|3万800円(税込)
©️ FRICTION
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