小川フミオによる 英国車・コンビビアリテ
What is the British Motorcar?|英国車ってなんだろう?
小川フミオによる
英国車・コンビビアリテ
現在はレストランの居心地のよさを評価する際などに使われる、「コンビビアリテ(Convivialité)」というフランス語は、ラテン語を起源にもつ古い言葉で、Conは「共に」、vivialitéは「生きること」を意味する。生活に寄り添い、乗るものを迎え入れる、そんな英国車への小川フミオ氏からのエール。
Text by OGAWA Fumio
僕と2台のモーガン
僕が所有したことのある英国車は、これまで2台。どちらもモーガンだ。基本設計は1936年の2人乗りスポーツカー。サイドウィンドウはなく、狭いコクピットでは、ひじをドアの外に突き出すようにしてハンドルを持つ運転姿勢を余儀なくされた。雨の日は雨具を着ないとけっこう濡れる。
モーガンを買ったのは、極端だったから。軽快なオープンスポーツは英国がかつて得意としたところだが、なかでもモーガンはスタイルといい、サイドウィンドウも持たないシンプルなスタイルといい、極限までそぎ落としたところに、ある種の哲学を感じさせるクルマだった。そこに惹かれた。
モーガンは絶対的に速いクルマではない。サスペンションはストロークが不足していて、首都高速のカーブで後輪が浮いてしまう。ブレーキも倍力装置が弱く、止めるにはけっこうな力を要するし、車庫入れの際にハンドルを切るのも重労働だった。
しかし、そこが憎めないクルマなのだ。水の上を滑るような現代のクルマのそれではないのだが、そちらが精密機械で削り出された正円だとしたら、ややごつごつとした手で削った円というか。それがひっかかるように前に進んでいくのも、ある種の快感をおぼえる時がある。その独特の加速感が人間の感覚には気持ちがいい。少なくとも僕にはそうだった。
自分が一所懸命走らせている一体感もあり、速さとは時として数値でなく気持ちで測るものと知れる。そのへんを僕はモーガンのクルマづくりの哲学だと思ったのだろう。ほかの国のクルマにはあまりない雰囲気がよかった。
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小川フミオによる
英国車・コンビビアリテ(2)
少量生産の専用ブランドだからだせる味
英国車といっても、その世界は多岐にわたる。さきに触れたモーガンを脇に置いても、オールドワールド的な個性でいえば、ロールスロイス、ベントレー。先端的なものはマクラーレン。そのあいだにアストンマーティンやジャガーやランドローバー/レンジローバー。いずれもキャラクターをしっかり持っている。
英国のブランドごとのキャラクターとは、ラインナップに共通する「味」のようなものというか。インテリアの雰囲気、乗り心地、ハンドルを切ったときの動き、さらにエンジンのフィールなどそれが統合されて、えもいわれぬ個性をつくりだしている。
オーナーには外国企業が多いから(たとえばロールスロイスのオーナー企業はドイツのBMW、ベントレーはフォルクスワーゲン)わかりやすく特徴を打ち出しているのだろうか。多品種メーカーにとって、個性をつくり出すのは容易でない(日本のメーカーが好例)。その点、英国には、少量生産の専門ブランドが多いから、やりやすいのだろうか。
モーガンのオーナーは、それがわかっていたのだろう。シャープなハンドリングと快適な乗り心地を実現する洗練されたシャシーに、高効率のドライブトレイン、それによく効くエアコンに高い遮音性……と、いたずらに洗練性を追い求めるだけでは、ドイツや日本のライバルに勝てないかもしれないし、へたをすると個性も失い、市場での価値がなくなってしまう。その点、モーガンには、他車にない、得がたいキャラクターが備わっていたのだから、生きた化石といわれても、それを賛辞ととれるような道を選択したのだ。この明快な割り切りが英国(車)を英国(車)たらしめている。
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英国車・コンビビアリテ(3)
すぐれたものに理屈は要らない
英国らしさというとき、そこには2つの概念がある。ひとつは、伝統的な装いとか、居住スタイルとか、食べ物とか、クルマとか、いわば具体的なもの。もうひとつは、伝統と反逆などという抽象的なもの。
音楽でもファッションでも、英国からは革新的なものが生まれてきた。もっとも有名なものがザ・ビートルズであることには論を待たないだろう。
僕はこのあいだも飛行機の機内放送で1966年発表のアルバム「リボルバー」を聴き、1曲目の「タックスマン」のビートとギターソロにあらためて感じ入った。なにしろ、その直前に美空ひばりの「悲しい酒」(ちょうどおなじ年のヒット曲)を聴いていたし。どちらもちがうジャンルのいい曲であるというのはおいておいて、当時世界中を驚愕させた、このイギリスの4人の若者がつくり上げたあたらしい音楽の衝撃におもいを馳せるいい機会だった。
米国人もおもしろい英国評を述べている。「科学などの基礎研究の分野で、わが国は英国に勝てない。英国の大学では、優秀な教授なら下半身はだかで校内を歩いても女子学生が“きゃあ! ナントカ教授よ!”と目をハートにする。しかし米国では、いかにすぐれた学者でも、パーティには夫人同伴で出席し、カクテル片手にジョークを言うことが求められる。それができないと認められない。これが競争力を殺ぐ結果になっている」と。
ようするに、すぐれたものに理屈をつけない。あたらしいものを否定しない。いいものを伸ばす。そんなことが、もうひとつの英国らしさなのかもしれない。
英国のクルマも例外ではない。
1988年にアイルトン・セナにドライバーズ選手権を与えたマクラーレンなど、すぐれたF1マシンの数かずを設計したゴードン・マレイが手がけた市販車(「その名も「マクラーレンF1」など)や、ピーター・ウィラーというマーケティングのセンスにすぐれたオーナーが率いた時代(1990年代)のTVRのスポーツカーは、いい例だろう。エンジニアリングもスタイリングもじつに斬新だった。
そしてそれらが登場すると、市場は両手を広げて歓迎した。
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英国車・コンビビアリテ(4)
クルマがクルマであるために
フランスでレストランを評価するのに「コンビビアリテ」という言葉を使う。居心地のよさ、といった意味だ。日本語にしにくい、これと似た概念が、英国のクルマにもあるかもしれない。なぜそうおもうかというと、僕はいま、街の中古車屋で納車のための整備をしていた先代ジャガー「XJ」を見かけて、たいへん心を惹かれているからだ。
ちょうどXJのドアが開いており、あの厚いクッションを持つシートと、曲線を革でくるんだダッシュボードが目に入った。あの世界に身を置いてみたい。あの重厚な乗り心地を日常的に味わってみたい──そうおもわせられた。入っていきたい「世界」がある。
独自の魅力はかつてフランス車にもイタリア車にもスウェーデン車にもアメリカ車にもあった。ドイツ車はつねに製品としての完成度を追求しているので、ある意味、居心地はいいのだが、固有の世界観をインテリアからは感じにくい。「よくできている」というだけだ。それが、自動車全体の傾向として、1990年代から、各国のクルマが急激に固有性をなくし、どのメーカーのクルマも平均的な、いわばビジネスマン相手のホテルのカフェテリアのような存在になってしまったようにおもう。いいレストランのコンビビアリテのようなものは失われた。
英国車が、音楽やファッションのように、斬新な発想で僕たちを驚かせてくれる時代がまたやってくるかどうか。70年代までは世界的な覇権を握ったイタリアンデザインが、電子技術の発達についていけず、米国デザインの前に膝を屈したように、環境技術や代替エネルギーがクルマの主要主題となり、トヨタとBMWがFC(燃料電池)共同開発を謳う時代に、英国車にとっての課題は、オールドワールドのよさを看板に、製品の優位性をどこまで押し通せるか、というところにある。
自動車から趣味性がはぎとられてしまえば、それはたんに輸送手段にすぎなくなる。雰囲気のいい英国車はどれも高価という問題はあるにせよ、クルマがいつまでもクルマであるために、英国車にエールを送っていたい。モーガンの思い出を大事にしている僕は、そう感じている。
OGAWA Fumio|小川フミオ
自動車を中心としたライフスタイル全般を扱うジャーナリスト。自動車誌の編集長を務めたあとフリーランスで活躍中。現在は「ほどほど」古いクルマに乗るものの、クラシックカーは永遠のあこがれ。とくに英国車。オースチン・セブンには乗ってみたいとずっとおもっている。