AUDI|アウディ|松井龍哉 vs アウディR8 (3) 「スーパーカーの定義は変わる」
Vol.1 松井龍哉 vs アウディR8
Chapter3 スーパーカーの定義は変わる
「アウディが標榜する“日常性”は、我々に向けた挑戦」。デザイナーの視点から語る今日的スポーツカーの在り方、いよいよ総論。
──短い時間でしたが、実際に運転してもらいました
松井 企業としても心から尊敬するアウディが、技術の粋を集めたR8です。神聖な気持ちで乗らせていただきました。そして技術力がなすサブライム(崇高さ)を感じることができました。
振動や音が腹に響き、一気に非日常的空間へと導いてくれます。でも混雑した東京では崇高なエンジニアリングのほんの一部しか味わえない。それはまったくもったいないですね。
──すると、都会的な印象のあるR8でも、
実は都会にはふさわしくない?
松井 日本の現代生活を冷静に捉えてみれば、動物園の馬、みたいな感じじゃないですか? 飼い殺しと言ったら大げさだけど、生来の野生を発揮できる場所で走らせたい欲求は抑えきれないだろうと思います。でなければエンジニアに失礼ですよね。
ただ、全体のサイズ感で言えば、ガヤルドもそうですが、現代都市スケールを見据えていて、今後の主流になってゆくスーパーカーの寸法を提示していると推察しました。
この前、熊本に行ったんですが、都市と山間部が近い場所なら、かなり楽しめるんじゃないでしょうか。
──アウディが標榜する「日常性」の一端は、かつてのスーパーカーがスーパーであるがゆえに扱いやすさや安定性を犠牲にしていたところを、エンジニアリング精度の高さで払拭したという主張なのではないかと考えますが
松井 以前、同じアウディの「A8」に乗ったことがありますが、あのセダンから感じる安心感はこのクルマにも継承されていました。R8もまた気負わないスマートさがあります。模範的な設計と思いました。
けれど、アウディがこのクルマで訴える日常性は、R8を生かせるライフスタイルの提案なんだと思います。
今日現在、自動車が置かれている立場を考えても、R8のようなクルマの生かし方は、自分が時間にしばられていては無理ですよね。精神と時間から独立した生き方ができた人、本当の自由を確立した人間の象徴となってオーラを放ってほしいと思います。私のように仕事で走りまわっているうちはまだまだですね。最近「プリウス」を買ったんですが、それは東京で生活するもうひとつの極端な例です。
──今日的選択としては大正解……
松井 その一方で、メーカーにしても純粋なクルマ好きにしても、スーパーカーはかけがえのない存在です。それを存続させるなら、デザインの領域において感動と感心が体験できないと。
大学で講師を務めているんですが、今の学生たちにクルマのデザインを志す者がほとんどいません。経済大国となり物への執着心は昔とは格段に違います。今の学生たちはお酒を飲む理由がわからなかったり、ニューリッチの品のないクルマ選びをシニカルに見ています。それは心理学的にも生物学的にも理解できる現象です。クルマ自体の魅力もかつてとは違います。
だからこそスーパーカーには、オリンピックのごとく時としてあらわれてほしいですね。過去のスーパーカーも時代を読んだイノベーションを内包していたから感動したんだと思います。
そしてこれからのスーパーカーは、動力源や構造にも新しいモラリティでデザインに昇華されていれば、それが次世代の「スーパーカー」の定義になっていくのだと思います。
若い世代の開発者の発想はどんどん変化しています。私が期待したいのは、「スピード」がスーパーカーの特徴だと思わず、まったく新しい「人の生き方」をよびさます発想が「スーパーカー」と呼ばれることです。個人的には、パワーってもっとも21世紀的じゃない概念だと思っています。