藤原美智子|ふじわらみちこ|連載|2010年11月エッセイ|定期的な超整理魔からの脱却
「定期的な超整理魔からの脱却」 (1)
いままで私は、整理整頓は好きだし得意なほうだと思っていた。日常的にも、そして十数年前からは、最低でも1年に2回は大整理整頓をするのが習慣だったのだ。洋服や下着の一枚一枚を「いる? いらない?」と取捨選択。本の一冊一冊、資料の一枚一枚、ペンの一本一本、靴、食器、果ては割り箸にいたるまで、それこそ家中のモノを「いる? いらない?」と電光石火のごとく素早く判断して整理していく。こうしてやり終えたときのスッキリ感は、やったことがあるひとならばわかると思うが、それはそれは病みつきになるほどである。だからこそ習慣になったのであるが……。
文・写真=藤原美智子
“服はいっぱいあるのに、着るものがない”という状態とおなじ!
さて、どんなときに、この仕分け作業をしたくなるかというと、無駄なものが身のまわりに溢れてきたと感じたときだ。こうした状態になっていることに気づいた途端、“気”が停滞しているようでイヤーな気持ちにおちいる。それこそ雑多に生きているような気がしてくるのだ。私の経験上、家の中が雑多になっているときというのは気持ちもおなじようになっている確率が高い。それはなにが自分にとって大事なのか、なにが不要なのかがわからなくなっているという状態であり、それを判断するのが面倒、あるいはしたくないという心境になっているということである。そして、そんな状態になると、本当に大事なものを大切にしようという気持ちが気薄になる。さらに、自分が求めているものは、じつはほかにあるのではないかという気にもなる。簡単な例を挙げるとしたら“服はいっぱいあるのに、着るものがない”という状況だろうか。外側と内側の状態とはリンクしている。雑多になっているときは心の中もおなじなのである。
“断捨離”の定義とは
さて、今回の本題はこれからである。そして、どうして冒頭で「得意だと思っていた」と過去形で表現したのか。それは『断捨離』(やました ひでこ著 マガジンハウス刊)という本を読んだからだ。定期的に超整理魔になる私の癖を知っている知人が、「いま、すごく話題になっている本で、藤原さんとおなじ考えのひとが書いているんですよ」と、教えてくれたのだ。「えっ、断捨離?」と、その意表を突くタイトルに興味が湧き、買ってみることにした。これはひとことで言うと、年に何冊かは発売される“整頓術の本”の類である。でもほかとちがうのは、ただの整理整頓の本ではないのだ。思想にまで落としこまれた整理術なのである。
著者は「モノの片づけを通して自分を知り、心の混沌を整理して人生を快適にする行動技術」を“断捨離”と定義している。この考えには「そうそう!」と深く共感するが、それだけだったらいままでの私とおなじだ。ところが、実際の方法論がちがったのだ。「あー、私は中途半端で甘かった!」と気づかされるほど思想と行動がリンクしていて、そして徹底しているのだ。「私とおなじ考え」なんて言われて、申し訳ないと思うほどだ。たとえば、“クローゼットの中は、使われない存在価値を否定されたものたちの怨念だらけになっていないだろうか?”というくだりには、私はいままで自分のことだけで、モノたちのことまでは考えずに整理していたと反省した。もし、そう思っていたら、購入するときはもっと吟味するようになるだろうし、整理するときも否定する存在をなくすためにももっと整理するようになるだろう。お互い否定したくはないし、されたくもないのだから。大事に使われてこそ活きるし、そうするからこそモノにも愛情が芽生えてくる。なんだか、ひとに対するのとおなじではないか。
「定期的な超整理魔からの脱却」 (2)
見えないところ、見えるところ、見せるところ
さらに、もうひとつ、私は見た目に体裁よく整理はできても、さらに使いやすくという段階まではできていないことに気づいた。この本によると“見えないところの収納は7割”、“見えるところの収納は5割”、そして“見せる収納は1割”に整理してゆとりある空間づくりをすると、見た目だけでなく使い勝手もよくなると書いてある。たしかに、それ以上の割合でモノをしまっていると出すときが面倒だし、そうだからこそ遅かれ早かれまたゴチャゴチャとしてくるのだ。そうか整理とは、ただモノを“要る、要らない”と整理するだけでなく使い勝手をよくするためにも、そして必要なモノを丁寧に扱えるためにも必要なことなんだ! とあらためて、その意義を悟ったというわけである。
本を読んだあと即効、私は家中の“断捨離”に取りかかることにした。クローゼットの中、靴箱、本棚といった見えない収納は7割を目安にアッという間に片づけることができた。これはいままでの習慣のおかげといえるだろうか。問題は資料の“断捨離”だった。20年くらい前から集めている雑誌の切り抜きが膨大にあるのだ。それをファイル帳に入れて整理していたのだが、それらが場所を取り過ぎていて、そのためにほかが使いにくくなっていることに気づいたのだ。それにファイルしているといっても最近、滅多に開くことはなくなったし、女優やアート、BOOK、オペラなどなど大ざっぱにしか分類していないので「あの切り抜きはどこだっけ?」と探すのが大変だったのだ。もちろん、滅多に見ないからといって無用のものではない。20年前から好きで興味をもっている資料たちなのだ。いくら場所を取るからといっても、捨てられるわけがない。
そこで思いついたのが、スキャンをしてメモリースティックで管理するということだ(あとで思ったが、もしかして、この方法はいまでは普通のことだろうか)。これなら、「女優」の資料もオードリー・ヘプバーンやグレース・ケリー、モンロー、なんでも簡単に細かく分類できるではないか! 思いついたのはよかったのだが、それから1ヵ月が過ぎて、この原稿を書いているいまも終了していない。時間を見つけてはセッセッとスキャンをしているが、「あっ、このファイルもスキャンしたほうが便利だな」と、どんどんスキャンするものが増えていくのだ。でも、こんなにも地味で根気を要する作業は『断捨離』を読んだ勢いがなかったらできなかったこと。でも、そのおかげで空間に余裕が生まれ、本来はそこにあったほうが便利だったモノの配置変えができて、使い勝手が飛躍的によくなってきた。それにおもしろさを感じて、またさらに、「これもスキャンしよう♪」といま、止まらない状況なのである。
しかし、こんなに労力と時間をかけても部屋の見た目は、他人には変わっていないように見えることだろう。なにしろ、扉の中の見えない部分、さらにまた見えない部分をセッセッと“断捨離”しているのだから。でも、20年分の積っている垢を払っているような気持ちよさとスッキリ感、そして“もの”をあるべきとこころにキチンと納めているという気持ちよさと充実感は本人だけが知っていればいいことだ。きっと、この先、私は定期的な超整理魔になることはないだろう。なぜなら、日常的に“断捨離”を実行していこうと思っているからである。