プロフェッショナルと巡る森~岐阜・飛騨地方の自然とアクティビティ~Chapter 3
特集|プロフェッショナルと巡る森~岐阜・飛騨地方~Chapter 3:五色ヶ原の森と飛騨古川
人数制限の森
飛騨エリアの東端、長野県との県境に近い乗鞍山麓に広がるのが、平成22年に「岐阜の宝もの」として認定された「五色ヶ原の森」である。入山規制を設け、公認ガイドと一緒でなければ入ることのできない森だ。ヒューマン・インパクトに配慮した森がどれだけ美しいものか、その真価をお届けしたい。また飛騨古川の町に息づく伝統建築と、そこに暮らし、地域とともに歩みを進める人たちの取り組みについてもリポートする。
Photographs by JAMANDFIXText by KASE Tomoshige(OPENERS)
「予約と料金」の時代が来ている
北アルプス最南の3000メートル峰、乗鞍岳の北西山麓に広がる約3000ヘクタールの広大な森が「五色ヶ原」である。中部山岳国立公園に属するこの森は、平成22年に「岐阜の宝もの」(第2回「湿原を残す難しさ」参照)に認定された。都市に暮らす人々はほぼ触れたことがないであろう、本当の意味での手つかずの自然。この森の最大の特徴は「予約して料金を払わなければ入山できない」という点にある。
高山市から国道158号線、通称コスモスラインをほぼ真東へ30分で「五色ヶ原のツアーセンター」に到着する。広い駐車場と土産物店などを備えており、いわゆる観光地の情報センターの様相を呈してはいるが、ここがガイドツアーの拠点であり、参加者の集合場所となる。前日からの雨は止み、すっきりとした青空が広がってきた。
今日の森の案内人、田和義継さんと挨拶をかわす。公認ガイドはこの五色ヶ原に愛着と誇りを持つ地元住民を中心に、約40名ほどが在籍している。「ガイドコースはカモシカ、シラビソの2コースです。入山人数には制限がありまして、1日あたり1コース150人までなんです」。県境を挟んだお隣り、同じく中部山岳公園に属する長野県松本市・上高地の面積は五色ヶ原の4倍弱で、入山者数は1日平均3000人を超える。単純な比較は難しいが、ヒューマン・インパクトにかなり配慮した規制といえよう。入山期間は毎年5月20日から10月31日となっている。
滝と渓流を巡る「カモシカコース」、池の数々をつなぐ「シラビソコース」ともに通常8時間の行程だが、取材に許された時間は3時間半。たいへん心苦しいが、要所をつなぐ“オリジナルのコース”を設定してもらうことになった。ありていに言えば、おいしいところだけ拝見したというわけである。
シラビソコースの起点となる「出合いの小屋」まで車で移動する。標高は1400メートルを超え、残暑の街(取材時は9月上旬)とは別世界の涼しさだ。「布引(ぬのびき)滝を見に行きましょう。300メートルくらいの歩きです」と田和さん。滝まで下りる道はなかなかの勾配で、あらためてここが山であることを認識した。
布引滝は見事であった。その名のとおり布を裂いたように、白い水の筋が岩盤に模様を描いている。水の筋に縁取られた岩盤の無数の凹凸は、地蔵のようにも見える。沢の水を集めて落ちている滝ではなく、森から染み出した水なのだという。穏やかな表情はそのためであろう。
その布引滝の左手には、瀑布と言っていい桜根滝が落ち、さらにその上流には横手滝が落ちている。桜根滝の滝壺近くまで下りると、その豪壮な音と景観にしばし圧倒される。そしてあまりに豊富なその水量に、この森の健全さを思った。一般的に本州の山の水がもっとも少なくなる9月にあって、五色ヶ原の森は存分に水を蓄え、素晴らしい渓を我々に見せてくれるのだ。
上ばかり見ていたが、滝壺から掃き出される水もまた清冽であった。そして当然のように尺もののイワナが2尾、流化する昆虫類を狙っている。暗いオリーブグリーンの体色と鮮やかなオレンジの斑点からすると、ヤマトイワナか。この谷の原種であろうか。こういう光景を見ると、森の行く末を案じずにはいられなくなる。
聖地の値段
出合い小屋から標高1600メートルのわさび平湿原までは、本来は約2キロ半の山道を経ねばならないが、車で移動する。木道を張り巡らせた湿原は、ゆっくり歩いて1周20分程度である。当然だが布引滝付近とは樹林相が多少異なる。シラビソ、コメツガ、ゴヨウマツなどの針葉樹が目立ち始め、ヨーロッパアルプスや北米の森の雰囲気も感じさせる。
湿原の木道脇には、伏流水といっていいくらいの細い流れが走っている。「しかも浅いんですが、ちゃんとイワナがいるんですよ」と田和さん。30センチもない幅の流れのなかには、たしかに生きものの気配がある。ここまで遡るイワナの生命力と、イワナを生かす山の豊かさを実感した。
わさび平湿原からほど近い岩魚見小屋にて昼食をとる。小屋の脇の沢沿いのテーブルに陣取った。空気のきれいなところでしか育たないといわれる地衣類、サルオガセが木にからまっていた。
「駆け足で申し訳ありませんが、最後にシラベ沢の源頭を見にいきましょうか。時間の許す限りのところで(笑)」。田和さんの先導のもと、この森のなかでも最も標高の高いエリアへと足を踏み出す。クマザサの道を抜けるとそこはガレた沢であった。沢沿いに下って行くうちに、少しずつ水が集まってくる。岩は苔むし、沢に生命感が漂ってくる。10分も歩けば流れは速く太くなり、森の渓流がそこに姿をあらわす。
こうしたちょっとした沢が、いかに貴重であるかご存知だろうか。日本の河川の本流、支流にはすべてにダムがあるといっても過言ではない。そしてその先の沢、さらに先の枝沢にまで出現するのは砂防堰堤である。乱暴にいえば日本の渓流は、流れに沿って歩いて下ることがじつに困難なのだ。ダムの是非を問うているのではない。こんな沢が残っているのは非常に珍しい、と言いたいのだ。
ここ五色ヶ原の森の基礎調査が行われたのは平成13年のこと。調査に訪れた植物生態学の世界的権威、横浜国立大学名誉教授の宮脇昭氏はこう絶賛したという。「素晴らしい。『日本の自然の原型』がほとんど手つかずの状態で残されている」
その後3年の調査・整備を経て、平成16年7月に一般公開。今年9年目を迎えた森は、公認ガイドはじめとするツアーセンターの方々によって保全され、自然への関心の高い参加客によって支えられている。カモシカコース、シラビソコースともに約8時間の行程で8800円。料金にはガイド料、バス代、傷害保険、ガイドブック等がふくまれる。
この料金を高いとみるか低いとみるかは、個人の経験と主観以外にないが、自然を楽しむために「予約して料金を払う」という行為が必要な時代になってきている──それは間違いないだろう。まさに私の経験と主観で申し上げるなら、ここ五色ヶ原の森に入るための料金はきわめて適正である。そしてこの価格を支払って訪れる価値のある、かけがえのない場所といえる。
特集|プロフェッショナルと巡る森~岐阜・飛騨地方~Chapter 3:五色ヶ原の森と飛騨古川
里山の価値
自転車は文句なしに楽しい
前回紹介した歴史の宿、八ツ三館のレポート時に少々触れたが、飛騨古川は伝統的な町家(まちや)によって、その景観が形作られている。名古屋から車でも列車でも2時間あまりを要する、飛騨エリア北部に位置する古川町。古くより「娑婆にあぐんだら(飽きたら)古川へ」ともいわれる、人情と風情の町である。
この地の里山と景観に惚れ込んで移住し、さまざまな活動を通じて地域とともに歩みを進めている人物がいる。「株式会社美ら地球(ちゅらぼし)」の代表取締役、山田 拓さんである。「こんな社名なものでよく沖縄出身かときかれるんですが、奈良の出なんです。しかも沖縄の方からも、『こんな言葉はない』と言われちゃうんですよね」と屈託なく笑う。タネを明かせば今回の飛騨エリアの取材において、さまざまなコーディネートと移動の足(車両と運転!)を提供してくれた人なのである。
説明よりもまずは体験──ということでさっそく自転車に。飛騨里山サイクリングのスタートである。一面に広がる水田は収穫を終え、刈り取られた稲穂が天日に干され風に揺れている。のどが渇けば山裾にはいくつかの水場もある。実に気持ちのいい日本の田園風景が広がっている。
田園を抜け農家が点在するエリアに入ると、山田さんが愛車から降りてガイドを始める。「この家は、養蚕のため低い天井の2階がある典型的な古い農家です。築100年以上といわれています。“まぐさ”(飛騨古川の民家に特有の、玄関戸の上に嵌め込んだ一枚板)も実に立派です」
この説明も通りいっぺんのものではなく、「ひだ山村民家活性化プロジェクト」における聴き取り調査がベースになっている。このプロジェクトについては次項に譲るが、山田さんの説明を聞いていると、飛騨里山サイクリングも民家の活性化も、きわめて有機的に結びついているように感じられた。
とまれ理屈は抜きにして、サイクリングは文句なしに楽しい、と明言しておこう。30分ほど気持ちよく漕げば、飛騨古川の町の入り口だ。宮川のヤナ(川の中に足場を組み、すのこ状の台でアユなどを受ける大掛かりな漁の仕掛け)を横目に見ながら、支流の荒城川にかかる今宮橋を渡り、町のシンボルである真宗寺の横を通り過ぎる。すると間もなく飛騨古川の代名詞、伝統的な木造建築の町家が軒を連ねる、美しい町並みが目に飛び込んでくる。この爽快さこそ、車でも列車でも味わえない、自転車ならではの魅力であろう。
借りた自転車は当然返却する。その伝統的な町家の風景に溶け込むように、山田さんのオフィスはあった。ごく普通の2階家の1階部分をこぎれいにリノベーションした、明るい雰囲気を備えた仕事場であった。さまざまな経歴のスタッフが揃っているが、共通しているのは朗らかで、笑顔の絶えない人たちばかりである、ということだ。
「飛騨古川の里山を移動するのには、やはり自転車がよく合うと思うんです。自転車でしか楽しめない風景があると思うんですよね」と山田さんは言う。たしかにそう思う。そしてきわめて個人的な感想になるのだが、この取材期間、山田さんはあまり難しいことをいわなかったように感じる。難しいことというのは、山田さんが人生をかけて取り組んでいるこの仕事の、目的や哲学、手段についてである。この3日間、ただただ、穏やかに飛騨古川の魅力を語り続けてくれたのみであった。地元出身ではない山田さんがこの町と重なり合うように暮らしていける理由は、この人柄がすべてなのではないか──ふとそんな気もした。
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匠の文化を継ぐもの
町家の軒下にある「雲」
岐阜県・飛騨エリアの自然を巡る旅も最終章である。飛騨古川の町並みを形成する具体的な技術に言及して締めくくろうと思う。戦国時代の城下町を礎とし、古くは奈良時代から受け継がれてきたもの──「飛騨の匠」、すなわち古川の大工が気の遠くなるような年月の間磨き続けてきた、建築の技術である。
さてひとくちに「町家」というが、具体的にはどういう特徴があるのだろうか。古川の大工の心意気がそのまま印半纏を羽織ったような、「金子工務店」の代表取締役、金子公彦さんに解説してもらった。
「外見の一番の特徴はね、“まぐさ”と“雲”でしょうね。特に“雲”は古川特有のもので、それぞれの家が意匠を凝らすものです。大工のほうも、『隣の家に見劣りしちゃいけない』っていうんで、どんどん独自の文様が生まれたようですね」。その“雲”とは軒下に施される装飾のことで、木の葉や唐草など、さまざまなモチーフが彫り込まれたものである。
「それからこの出窓(窓部分の外郭に取り付ける木の格子)も特徴でしょうね。また古い町家には玄関の天井がとても低いものがあります。もし刀を振り回されても、引っかかるようにするため、なんて、古くから言われていますが」。実際の町家を教材に、金子さんは丁寧に説明をつづけてくれた。「では文化館に行ってみましょうか。古川の大工が使った、さまざまな道具がありますから」
正確な名称は「飛騨の匠文化館」。墨壺、ノミ、カンナ、ノコギリ、コテなど、およそ古川の大工が使ってきた道具はほとんど揃っているのではないか、というほどの充実した展示である。そしてこの建物自体も、飛騨の木材を用いて地元の大工の手によって建てられたものだそうだ。ちなみに金子さんのご自宅の模型も1階に展示されている。
文化館をあとにして、前出の「株式会社美ら地球」の山田さんのもう一つの取り組みである、「ひだ山村民家活性化プロジェクト」についての取材へ向かう。歴史ある町家のなかで待っていたのは、やはり地元で建設業を営む明治40年創業の老舗、「株式会社柳組」のみなさんであった。
ひとことで言ってしまえば、「株式会社美ら地球」と「株式会社柳組」はタッグを組み、飛騨に残る古民家を修復し、さまざまな利用法を模索し、実行に移すというプロジェクトである。現在、飛騨市と高山市には地区50年以上の空家が500軒以上あるという。このまま手を尽くさずにおけば、これらの民家は家主の高齢化とともに、いつしか消えていく運命にある。しかしながら両社はそんな現状をむしろチャンスととらえ、古民家の活路を見出そうとしているのである。
そのひとつが古民家をリゾートオフィスとして利用してもらう、という「飛騨里山オフィスプロジェクト」取り組みである。伝統建築の町家でありながら、都会のオフィスと変わらないPC環境を整え、スクリーンやプロジェクターを完備したディスカッションスペースを設ける。キッチン、ダイニング、宿泊機能は当然備わっているので、合宿などにも向くはずである。
「東京を中心に、IT関連企業からの問い合わせは本当に多いんです。実際に利用された方々からも『リラックスして仕事に集中できる』『生産性が高まった』などの感想をいただいています」と、柳組の代表取締役、柳 七郎さんは言う。たしかにこの静かな環境ならば仕事は進むはず、と感じた。そして気取らない町家の風景は、日々のストレスを解消する役割も果たしてくれそうだ。
とはいえ、山田さんも柳さんも、こうしたプロジェクトを進めるにあたってなみなみならぬ苦労があったはずであり、おそらく現在も、解決せねばならない数々の課題を抱えているはずである。しかしながら、なぜかこのお二人からは困難の雰囲気を感じ取ることはできなかった。
柳さんは言う。「実のところ、この家を見るだけで、建築屋としては本当に勉強になるんですよね。建材ひとつとっても吟味されていて、見えない部分にも凝った意匠が施されていたり。変な話ですが、毎回この町家に来るたびにあたらしい発見があるんです」
プロフェッショナルとともに巡った飛騨エリアの森は、まさに岐阜県の自然の核心であったといえる。3日間という短い期間だったが、その空気を感じ、緑を目に写し、水に触れた者としての最も直截な感想は、こうした森がこの先も末永く生き続けてほしい、という願いである。そして自然とともに暮らし、地域と姿を重ね合わせながら歩んでいる人々にもまた、幸せな結末が訪れることを願ってやまない。
飛騨の匠文化館
岐阜県飛騨市古川町壱之町10-1
Tel. 0577-73-3321
営業時間|9:00~17:00(12から2月は~16:30)
定休日|木曜
料金|大人300円、子供100円
http://www.hida-tourism.com/things_to_do/ttd_category1_5_1.php
Tel. 058-272-8393
http://www.kankou-gifu.jp/(岐阜県観光連盟公式サイト)