Diary-T 225 1963 for PIRATE RADIO
この二週間の土日を二回潰し、平日も時間を見つけてはPIRATE RADIOの編集をしている。お陰でこのブログも暫く間が空いてしまった。
今回のテーマは1963 &…
連続三日目の夕方、昨夜のことだ、まさかの七回目のバウンスへ突入のまま…。
パリコレのコムデギャルソンの選曲仕事で絶壁に立った記憶が蘇る。三桁のギャラが吹っ飛ぶほど音源を買いあさりそれでも納得のいく楽曲に出会えない悪夢から抜け出せず、終わったと思えば細部が気にかかり、必死に細部をクリアーすれば今度は全体が凡庸に感じるという終わりなき迷宮。
しかも川久保さんの選曲は常に革新的なファッションショーの為だから同じ手は使えない。
もう手に入る楽曲はすべて聞いた、それでも、と…
がそんな無意味な弁解を自問したところで、目の前にある現実は変わらない。
川久保さんのコレクションとの二十年間の選曲も、終局に向かう最後の辺ではどんどん抽象的なコラージュへと追い込まれていった。しかし遊んでる本人は目に見えない何かと格闘してやっつけたりやっつけられたりしているのだからそれなりに必死なのだが、ややもすれば本人が思っているほど面白くなかったりもする。自分の感性とやらのいい加減さや無能さをとことん思い知らされる自己憐憫の壁が絶え間なく現れるのだ。そんな呪縛に苛まれていると、遂にはこんな質問が降りてくる。私は川久保さんの仕事をする準備は出来ているのか?つまり私の心は川久保さんの目指す崇高な志を共有出来るほど澄み切っているのか?川久保さんと同じ場所にいて恥ずかしくない自分がここにいるのか?
雑念を捨て去れば今度は恐ろしい悪魔が襲ってくると…それを乗り越えたときに光が見えると…そう座禅を組んだ人たちが語るのを目にしたことがある。
私を経験を例にとると、バッドトリップを畏れるとそれは無限地獄の輪からいつまでも抜け出せないのだが、恐怖にひれ伏すのではなく、それがどのくらい恐ろしいものか真っ正面からみてやろう。と覚悟を決めれば悪夢は嘘のように消えて行く。
対立する煩わしさを恐れて議論を放棄するのではなく、
己の醜さをさらけ出して本音を語ればそこから浮かび上がる真実は誠に清いものではないだろうか、
うん?私は今なんの話をつぶやいていたのだ…
そもそも多くの楽曲を浴びて弛緩している私の感性を魅了する曲と出会うことは容易ではない。うまいものはいつ食べてもうまい。ともいうが、
名曲を並べてもそこにはなにもない。
でプロトールスを前にして感じる違和感も現代の狂気を育む要因のひとつかもしれない。等と戯れ言をほざきたくなる。つまり技術の伴わない私がスケッチ画を書くように、浮かんだアイデアがそのまま形になるわけでもなく、一カ所崩れればすべては最初から…気味の悪い波形に音が刻まれていることにも随分慣れたが人の思考とコンピューターとの差異が人間の感性そのものを蝕むことさえあるのではないかと最近気がついた。便利さと引き換える代償は悪魔に魂を売るかのごとくである。といって、もちろんもう後には戻れないのだけどね、
そう1963年は終わりではなく始まりなのだ。
さて眠れない曇った思考はこのぐらいにして、
音が鳴り始めたその瞬間、
見えない何かが私を突き動かす
それを信じて最後の仕上げにかかろう。
書きたかったことはまた後日。
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