祐真朋樹対談|Vol.5 「細尾」取締役 細尾真孝さん

祐真朋樹対談|Vol.5 「細尾」取締役 細尾真孝さん

祐真朋樹対談

Page. 1

今回のゲストは、元禄元年(1688年)創業の西陣織の老舗に生まれた細尾真孝さん。20代のころまでは家業を継ぐつもりはさらさらなく、大好きな音楽にアートとファッションをミクスチャーするような活動をしていたと言う。そんな細尾さんが日本の伝統工芸のクリエイティブさに目覚め、家業を継ぐ決意をしたのは数年前。いまでは他の伝統工芸の若き後継者たちとプロジェクトユニットを組み、これまでにないあたらしい日本の美を生み出している。現在その取り組みは、国内外から大きな注目を浴びている。

Interview by SUKEZANE Tomoki

西陣織の老舗の12代目は、意外な経歴の持ち主

祐真朋樹(以下、祐真) 真孝さんは「細尾」の何代目になるんですか?

細尾真孝さん(以下、細尾) 僕で12代目ですね。会社組織になったのは曾祖父の代からです。その前はずっと西陣織の職人でやってきました。注文をいただいて織って納めて、という商売です。それが100年ほど前に、いわゆる問屋業といいますか、ほかの織り手さんのものも買って売るようになりました。

祐真 2000年にお父様が社長になられたとうかがっています。真孝さんはいつからこの家業を手伝うようになったんですか?

細尾 6年前、2008年に戻ってきました。そもそも僕は家業を継ぐつもりはなくて、ずっと音楽をやっていました。西陣織なんて、コンサバティブで古くさいと思っていました。もっとクリエイティブなことがやりたかったんですね。

祐真 当時は西陣織がクリエイティブとは思ってなかったんですね。

細尾 全然思っていませんでした(笑)。高校のときにセックスピストルズにはまりまして、それまでも音楽は好きで、コピーバンドなんかをやっていたのですが、人の曲をちゃんとコピーしたことがなかったんです。でもピストルズを聴いて「ああ、ギターを鳴らしてメロディーをつければ音楽になるんだ」ということを学びました(笑)。それで、友だちとパンクバンドを組んで活動するようになったんです。

祐真 へ~。大学までは京都にいたんですか?

細尾 はい。大学は音楽をつづけるために行っていたようなものですね(笑)。大学に入ってからは、エレクトロニカとか、そっちの方向でした。

祐真 なるほど。

細尾 当時は音楽だけでは食べていけなかったので、バーテンダーとかのアルバイトをしながらやっていました。レーベルが東京でしたので、京都と東京を行ったり来たりして、YELLOWとかLIQUID ROOMとかでライブをしていました。そうこうしているうちに、ファッションの業界で僕と同世代の人たちが成功している姿を見たわけです。ファッションというのは浮き沈みの激しい業界だと思いますが、その「浮き」のほうを見て「あ、ファッションって儲かるのだな」と思いました(笑)。

祐真 (笑)何を見てそう思ったの? エイプとか?

細尾 そうですね。自分たちでマーケットを作って、そこで成功している人たちの姿を目の当たりにしました。僕は音楽をやっていたわけですが、やっぱり既存のマーケットでちょっと仕事をもらっても全然食べていけない。自分たちでマーケットを作ることが大事だと思いました。それで、音楽とアートとファッションを合わせたような、初期の「MAISON KITSUNÉ(メゾンキツネ)」みたいなことをやりたいと思ったんです。で、友だち何人かと服を作り始めました。3シーズンやりましたかね。そのころいっしょにやっていたのが、いま「RAIN MAKER(レインメーカー)」をやってる岸隆太朗くんです。

祐真 へ~。そのころはなんていうブランドをやってたんですか?

細尾 「SHANG QOO FUU(シャン クー フー)」っていうブランドです。当時、上海にちょっと行くことがあってですね、泰康路(タイカンルー)っていう、もともとは工場の跡地だった場所があったんです。いまはだいぶ観光地っぽくなっていますが、そこが昔のSOHOみたいな感じだったんですよ。アーティストたちが住んでいておもしろいエリアでした。で、「ああ、ここに住んで発信するのもいいな」と思いました。京都にいてもなかなか飛び抜けたことができない気がしていたので、だったら上海発で音楽とかファッションを発信した方がおもしろいんじゃないかと思いました。

祐真 それって何年ごろの話なんですか?

細尾 2001年とか2002年ごろのことです。

祐真 で、実際に上海に住んでいたんですか?

細尾 一時期、住んでいました。上海にフラッグシップストアも出したいなと思って。でも、僕はそれまで音楽ばかりしていて、経営がまったくわかってなかったんです(笑)。いいものを作りたい、っていうのは強烈にあったんですけど。「コム デ ギャルソンに負けないギャバを開発したいね」「そういえば大阪に昔企画をしていた人がいるらしいよ」「じゃあ行って話をしてみよう」、とか。でも、いいものはできてもすごく高いものになってしまい……。人気のセレクトショップとも取引ができたのですが、売れば売るほど赤字になる、みたいなことになっちゃいまして(苦笑)、結局解散しました。

祐真 ナイスな挑戦ではあるけどね(笑)。

細尾 結局、マネジメントができていなかったんですよね。でもこれで終わりにしたくなかった。なんとかリベンジしたいと思いました。それで、儲かっている会社に入ってノウハウを学ぼうと思いました。入ったのは国内に100店舗ほど展開している大手ジュエリーメーカー。儲かっている会社はどういうマネジメントをしているのか、それを知りたい一心でした。で、僕はここで原価率の何たるかを知るわけです(笑)。

祐真 あはは。それまで原価率を知らなかったの?

細尾 そうなんです。その会社には4年いました。商品部というところで最初は生産管理。そのあと、商品開発に携わりました。SPA形態の会社だったのでひと通り勉強させていただきました。そんなこんなの2006年、家業が海外に目を向けはじめたんですよね。

祐真 見本市に出展なさったんですよね?

細尾 はい。パリのメゾン・エ・オブジェです。その話を聞いて、西陣織を海外に発信するのはおもしろそうだな、と思いました。もともとはジュエリーだって外国の文化。でもいまでは日本人の生活に密着したものとなっている。つまり、その逆もあり得るのではないかと思いました。西陣織を、西洋の人びとが日常に普通に取り入れる日がこないとも限らない。京都からエルメスみたいな展開ができたらおもしろいよな……と考えたら、それまで古くさいと思っていた家業が俄然光り輝いてきた(笑)。一端興味を持つと、「ロゴももっと外人に受けるようにこうしたらいいのに」とか、「ホームページもカッコよくしないとわかってもらえないのではないか」とか、いろいろアイデアが湧いてきて、そのうち自分でやりたくなってきたのです。

祐真 海外に打って出ようと決めたのはお父さん?

細尾 そうです。うちの本業は着物や帯で、それを全国の着物の専門店や百貨店に卸しているのですが、父は、今後はそれだけではだめだと思っていたのですね。

祐真 メゾン・エ・オブジェに最初に出展したころは、細尾さんはもうここに戻ってたの?

細尾 いませんでした。

祐真 じゃあ、最初の出展を取り仕切ったのはお父さんだったんですね。

細尾 そうです。西陣織はこの30年でマーケットが10分の1に縮小しました。消えてなくなることはないとは言え、10倍に戻ることもないだろう、と。父はそう考えて、まずは西陣織をソファに張って出品したのですね。でもソファ自体は自社では作れませんし、物流の問題も考えていなかったので、ちょっと興味を持ったお客様が「これはどうやったら買えるの?」と聞いてくださっても、「いや、これは展示だけです」ということで1個も売れませんでした(笑)。また西陣織は、基本、幅が32cm。ソファのようなものに張ると、継ぎ目が出てしまうのです。それもネックでした。それで翌年からは西陣織のクッションを出品しました。これはまあまあ売れて、香港のレインクロフォードとかロンドンのリバティとか、いい店と取引きすることもできました。でも1軒100万円くらいのオーダーで、それ以上には広がらない。さて、どうしたものか、と考えました。

祐真 お父さん、チャレンジャーですね。広幅の織機を入れようと思ったのは?

細尾 2008年12月に、パリのルーブル装飾美術館で『日本の感性価値展/Kansei Japan Design Exhibition』というのが開催されて、そこにうちは帯を出展しました。これは、日本の伝統工芸だけではなく、アニメやリコーのカメラとか任天堂とか、ハイテク分野までカバーするというものでした。

祐真 クールジャパン的な? 経産省主導の?

細尾 はい。それがその後、2009年の5月にNYに巡回することになって、展覧会が終わった直後に「展覧会で帯を見た」とピーター・マリノ氏から連絡があったんですよね。西陣の技術にすごく興味をもってくれて、ラグジュアリーブランドのブティックの壁面に使いたいという依頼でした。僕、それまではクッション作るにしても、海外に打ち出すのなら和柄じゃないと差別化できないと思っていたのですが、マリノ氏から送られてきたデザインは鉄が溶けたような柄。非常にコンテンポラリーな柄です。これを西陣の技術で織って欲しいということでした。

さっき申し上げたように、西陣織って、基本は32cm幅なんです。 丸帯用でも最大幅70cm。「それでもいいから」とマリノ氏には言われたのですが、そのとき、「150cm幅にしたら一気に広がりが出るな」と思いました。もちろんリスクはあったけど、2010年、思い切って投資して、150cmという広幅の織機を開発しました。そのために、うちで長いこと働いてくれている金谷という職人を中心に西陣の7キロ圏内に住んでいるほかの職人さんも入れて、開発プロジェクトチームを編成しました。

祐真対談 Vol.5 「細尾」取締役 細尾真孝さん

「細尾」が誇る職人、金谷さん。あたらしいプロジェクトの中枢を担っている

祐真 7キロ圏内?

細尾 職人さんたちは、だいたいこの西陣の7キロから10キロ圏内で仕事をしているんです。

祐真 みなさん何歳くらいなんですか?

細尾 70歳アッパーですね。みなさん、すごい技術を持っておられます。その技術が若い人に引き継がれていない、というのが大きな問題なのですが。

祐真 もったいないね。で、金谷さんが中心になって、そのプロジェクトチームが始動したわけですね。何人くらいのチームだったんですか?

細尾 たしか5人だったと思います。当時はうちの職人も、金谷を含めて3人でしたので、150cm幅の織機が出来上がったときも、それを織るスタッフがいなかった。最初の頃、マリノ氏のオーダーのファブリックは金谷が自ら織っていました。いま、職人は7名。織機も年に1台ずつ増やしてきて、5台になりました。

祐真 さきほど工場を拝見しましたが、若い職人さんが多いですね。みんな専門の学校を出てこちらに来るんですか?

細尾 それぞれです。文化服装学院を出てアパレルの会社にいたんだけど、雑誌でうちの仕事を見て職人になりたいと入ったスタッフもいますし、芸大でグラフィックをやっていたスタッフもいます。彼らは伝統産業をクリエイティブ産業としてとらえています。西陣織をクリエイティブなものと捉えている。僕が家業に戻ったのとおなじ理由でここに来たのだと思います。

祐真対談 Vol.5 「細尾」取締役 細尾真孝さん

工房には若い職人さんもたくさん入ってきている。なかには女性も

祐真 ご兄弟はいらっしゃるんですか?

細尾 弟と妹がいて、弟は建築をやっています。ミラノ工科大学院を出て、デイヴィッド・チッパーフィールドのところにいたのですが、去年帰ってきて、こっちで仕事したいと言っています。東京でやろうか京都でやろうか迷っていたようですが、結局京都でやることにしたみたいです。

祐真 おお、すごいですね。昨年の12月にNYでチッパーフィールドさんと会いました。ヴァレンティノのショップをやられてますよね。

細尾 ああ、そうですよね。弟はいま、知り合いの旅館を作るのを手伝っています。

祐真 へ~、いいですね。これからが楽しみ。妹さんは?

細尾 妹はちょうどひと回り下なので、まだ大学生です。医大に行っています。ちょっと変わっていて、小さいころから能の舞なんかに興味のある子でした。中学のころ、どんな人になりたいかと聞かれて「白州正子みたいな人」と答えるような子でしたね。

祐真 ほ~、渋いですね。

細尾 将来は海外で医療ビジネスをしたいみたいで、今年はインターンシップでシンガポールに行くそうです。

祐真 三人三様でおもしろいですね。しかし、これだけ歴史のある家に生まれながら、子どもたちに家を継げとも言わず、自由に育てたご両親というのも偉いですね。

Page.2: 海外との取り組みのなかで、西陣織がまたあたらしい「美」を繰り出す

ABOUT
SUKEZANE Tomoki

1965年京都市生まれ。(株)マガジンハウスのPOPEYE編集部でファッションエディターとしてのキャリアをスタート。現在は『UOMO』『GQ JAPAN』『Casa BRUTUS』『MEN’S NON-NO』 …