連載|牧口じゅんのシネマフル・ライフ 第20回『ファントム・スレッド』

連載|牧口じゅんのシネマフル・ライフ 第20回『ファントム・スレッド』

牧口じゅんのシネマフル・ライフ

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第20回 唯一の選択しか生まない愛、だからこそ運命

『ファントム・スレッド』

ヴィクトリア時代の英国で生まれた“Phantom Thread(幻の糸)”という言葉。当時、王侯貴族の服を縫い上げるために、過酷な長時間労働を強いられていた東ロンドンのお針子たちが、過労により、仕事が終わった後でも“見えない糸”を縫い続けていたという逸話から生まれている。ファントム・スレッド、つまり目に見えない力に、人間はどれほど影響を受け、いかに非力であることか。その不思議を究極の愛のドラマへと仕立てたのは、稀代のストーリーテラーであるポール・トーマス・アンダーソン監督だ。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以来2回目のタッグとなるダニエル・デイ=ルイスを主役に、見えないパワーに翻弄される人間のやるせなさ、さらにはそこから生まれる特異なロマンチシズムを、ファッション界を背景に描き出している。引退を宣言した名優ダニエル・デイ=ルイスが、クリスチャン・ディオールやアレキサンダー・マックイーンら有名デザイナーを研究し、監督と共に作り上げた職人像にも注目だ。

Text by MAKIGUCHI June

傷つけ合い、相手の心に自分を刻み込む

舞台は、1950年代のロンドン。アトリエ「ハウス・オブ・ウッドコック」を率いる仕立て職人のレイノルズは、オートクチュール界の重鎮だ。服作り意外には興味を持たず、仕事に力を注ぐため心の安定を保ちたいと、日々のルーティーンを崩さない。そんな彼が、休息のために訪れた田舎で、ウェイトレスのアルマと出会う。背が高く、素朴、そして少しそそっかしいが、温かい笑顔が魅力的だ。

そんな彼女とのやり取りで、笑顔を取り戻したレイノルズはアルマを夕食に誘う。レストランを後にし、別荘に向かった二人だったが、レイノルズは彼女のドレスを脱がせ、フィッティングを始める。とまどうアルマを前に「採寸してもいいかな?」と問うレイノルズ。やがてアルマはレイノルズのミューズとなるのだが……。

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出会いというのは、不思議なものだ。人生に岐路は数々あり、多くの岐路を生み出す出会いもあるが、本作を観ていると運命の出会いからは選択肢というものは生まれない気がしてくる。とあるもの、こと、人と出会ったことで、多く存在していた人生の選択肢が、ひとつの結末のみに向かう唯一の道に集約されていくような。だから「運命」と呼ばれるのかもしれない。

レイノルズとアルマは、出会いをきっかけに、それまで想像もつかなかった人生へと向かっていく。初めはアルマによって制作意欲を刺激されていたレイノルズも、時間を経て彼女が自分を主張し始めると聖域を侵され、心を乱されるようになる。

アルマは、レイノルズを愛し、時には絆を感じることもあるものの、近づこうとするたびに手ひどく拒絶され、存在をないがしろにされるのだ。常にレイノルズが主導権を握っているようでいて、女としての賢さを身に着け始めたアルマが知らないうちに手綱を握っていたりもする。二人の関係は、劇中に多く登場する螺旋階段での行き来が象徴するかのように上下に激しく揺れ、ロマンティックであるように見えて、パワーゲームのようにもなっていく。

つまるところ、恋愛とはパワーゲームなのだろう。惚れた弱みとも言うが、好意だけでなく、目的、駆け引きの技、ときには憎悪、そういったものが入り交じり、力の行方を左右する。

そこまでして、相手を侵食し、削り合って、自分が寄り添うための隙間を作っていく。ぶつかり合い、傷つけ合いがあってこそ、相手の心に自分を刻み込めるということなのか。誰とでもできないことだからこそ、本物の愛なのか。

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劇中、こんなことをされてまでなぜ一緒にいるのか、といった疑問が生まれる事態も発生する。だが、避けられない愛のパワーゲームに飲み込まれた者たちには、スリリングで危険な駆け引きすら媚薬なのだ。その深層心理を知りたいと心理学的分析しようとしたところで、人間の心は謎めいている。だからこそ面白いのだ。

エレガントでロマンティックな、極めて美しい映像で綴られる本作だが、二人が辿り着く奇妙な関係性を予感させる違和感は、冒頭からひっそりと存在している。描かれる人間描写の細部が常に奇妙なのだ。初デートで女性を下着一枚にしながらも、嬉々として採寸する男。

顧客にまで対抗心をむき出しにする女。不協和音のように、どこか観る者の心に不安の種を一粒ずつ植え付けていくのだ。

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そんな不安感をなだめたり、あおったりするのが背景に流れる音楽だ。美しい旋律でロマンスを強調したかと思うと、不気味なテーマの音楽で知らないうちに観客の心に不安感を残していく。特にクラシック音楽の使い方が絶妙だ。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』では、ラストからエンドロールに入る絶妙なタイミングで、ブラームスのヴァイオリン協奏曲第3楽章をぶつけてきた。今回はあるパーティのシーンで、ベルリオーズの「幻想交響曲」をうっすらと流している。『ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲』という原題を持つこの曲で表現されている、ロマンティックな旋律に潜む“他人には理解しがたい狂信的な愛”こそ、まさに本作の根底に流れる主題なのだろう。

他人の目から見れば奇妙でグロテスクでも、本人たちにとっては世にも離れがたき究極の愛。彼らにとっては、ファントム・スレッドは運命の赤い糸なのだ。壮絶なまでの運命的な出会い。それを羨ましいと思うかどうかは、ぜひご自身の目で観て判断してみて欲しい。

★★★★☆
「幻想交響曲」がそうであるように、類まれなる芸術には、必ずと言っていいほど「醜」が巧妙に刻み込まれていて、それが新しい「美」の概念を創り出す。本作もまさにそう。

『ファントム・スレッド』
監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ダニエル・デイ=ルイス、ヴィッキー・クリープス、レスリー・マンヴィル、ほか
音楽:ジョニー・グリーンウッド
2017 年/アメリカ/130分/カラー/ビスタ ユニバーサル作品
配給:ビターズ・エンド/パルコ
http://www.phantomthread.jp/
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牧口じゅん|MAKIGUCHI June
共同通信社、映画祭事務局、雑誌編集を経て独立。スクリーン中のファッションや食、音楽など、 ライフスタイルにまつわる話題を盛り込んだ映画コラム、インタビュー記事を女性誌、男性誌にて執筆中。

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牧口じゅん

牧口じゅん|MAKIGUCHI June 共同通信社、映画祭事務局、雑誌編集を経て独立。スクリーン中のファッションや食、音楽など、 ライフスタイルにまつわる話題を盛り込んだ映画コラム、インタビュー記事を女性誌、男性誌にて …