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![]() ![]() #002 吉田晃務さん(吉田カバン デザイナー)とのおはなし(前編)ファッションブランド"MINOTAUR(ミノトール)"のディレクター泉 栄一が発信するコミュニケーション ツール『M a(マ)』。 『M a』とは、日本語の時間と空間の"間"、人と人の"間"、などの「間(マ)」を意味し、世界中のさまざまなクリエーターとともにファッション、アート、音楽などを通じて、日常をよりゆたかにする人や物、出来事を共有し、創造的な時間と空間を創作するためのコミュニケーション ツールです。 第二回目の『M a』は、吉田カバン デザイナーの吉田晃務さんに吉田カバンの成り立ちから、ものづくりへのとりくみかた、そして今後のプロジェクトなどについておききしました。 文と写真=M a
まとめ=金子英史(本誌)
泉|もともとの会社の成り立ちはどういったことからだったのでしょうか? 吉田|もともとは、吉田吉蔵というわたしの祖父が、12歳のときに神奈川県の寒川から、丁稚奉公といって、修行みたいなカタチで東京のカバン屋さんに就職したのがスタートです。 そこで鞄職人の技術を学んで、1935年に独立して吉田カバンを立ち上げたんですね。当時は、秋葉原の高架下、線路の下にレンガの倉庫があるのですが、あの近くで会社をやっていたんです。 ![]() で、会社をつくったのですが、本人はすぐに戦争に招聘されてしまって──、家族は地方に疎開したんです。そのときに、カバンの材料をその高架下にあずけて戦争に行ったんですね。 東京は空襲でメチャメチャになったんですけれど、そのレンガの倉庫だけ偶然焼けなかったんです。いまも残っていますけれどね。祖父も奇跡的に帰ってこれて、しかも倉庫に行ったらカバンの材料が残っていたので、すぐに 仕事が出来たんですよ。まず、それがラッキーでしたね。 最初は、とにかく自分でつくって、自分でリアカーで売って歩いていたらしいです。そのリアカーもまだ残っていますよ。もちろんこれはすべて聞いた話ですけれどね。 当時はモノがなかったから、10個つくったらすぐにすべて売れてしまうという時代だったらしいです。 泉|どんな方が買われていたのでしょうか? 吉田|それは、進駐軍もふくめてイロイロな人が買っていったみたいですよ。 とにかく、銀座とか新橋とか、あの辺がいわゆる闇市みたいなことをやっていた時代らしいですからね。その時にリアカーの後ろを押して手伝っていたのが、まだ小さかったうちの父なんです。 でも、すごく職人気質の高い祖父だったらしく、本当に出来のいいモノしか売らなかったみたいなんですよね。すこしでもステッチを間違えていたり、曲がったりしていたものは、つくったにもかかわらず、売らなかったらしいです。 祖母とそれでよく喧嘩していたらしいですよ(笑)。 ![]() 泉|すごいですね。そこが現代につながるアイデンティティがあるような気がします。 吉田|そうですね。だからスタートは職人なんですよ。 職人なんですけれどね、企画マンでもあったわけです。つくるカバンを自分でデザインするわけじゃないですか?アイディアもすごくあるヒトだったみたいですよ。こういうバックがいいんじゃないかとか。 それも特許を取るみたいなこともあったらしいです。
だから、大きいカバンだけじゃなくて、それを使って小さい小物もつくる。セコいというか、しぶといというか(笑)。 泉|でも、そのお話は最近も出ている小銭入れにつながりますよね。 吉田|そうなんです。 だから、小物のシリーズは、職人としても、ぼくらとしても助かるモノなんですよ。使えない部分は、捨てるだけになってしまいますからね。祖父は、入社したときにも言っていましたね、「どれだけ無駄が出ているんだ」って。
吉田|職人って、ボクらが考えている以上にすごくて、革でもハンドル部分にするんだったらドコの部分の革がいいとか理解しているんです。裁断はどこでもいい訳ではなくて、力のかかる部分は背中の部分の革がいちばん丈夫だとか、そういうコトを全部知っているんですよね。 僕はデザインをやっているのですが、職人さんから教わらないといけないことがすごく多いんですよ。 泉|創立時のころのお話を聞くと、今現在の吉田さんのものつくりの意識がわかりますね。ハンドメイドのバックから、その次の段階への転機みたいなことはあったのでしょうか? 吉田|祖父は、最初職人でやっていたんですけれど、当時のデザインとかが認められたんでしょうね。だんだん百貨店とかと取引が始まるようになっていったんです。父の時代は外国製というか、まだ日本人がイタリアとか簡単に行けない時代に父が行って、初めて外国製のカバンを見て来たんですね。それが1950年代。 父(吉田 滋)は二代目なのですが、当時、東京の商売人の二代目というのは大阪に修行に行くのが、慣例だったらしいんです。大阪商人を学ぶみたいな感じですね。祖父は、「大阪に行くんだったら外国に行け!」って言って、父を外国に行かせたんですよ。それが1950年代の後半くらい。 それでイタリアに行って、ヨーロッパを見て、アメリカに入ってニューヨークをみて、帰ってきたんです。それがアイビー全盛期の前の時代のときですね。戻ってきた時に父が言っていたのは、「日本は外国のブランドから30年遅れている」ということでした。とにかくショックを受けて、絶対に勝てないと思ったらしいです。 それで材料の革にしても、何にしても向こうで買ったものを日本にもって帰ってきて、「メイド・イン・ジャパンで日本で出来ないか」と言って試行錯誤していましたね。父の時代って、"外国に追いつけ!"みたいな時代でしたよね? でも、なかなか追いつけなかったみたいですけれど。 そのあと60年代になって、『VAN』とか、いわゆるアイビーのムーブメントが来るんですよ。父は、石津謙介さんとかくろす としゆきさんとか、『VAN』の設立メンバーと交流があって、彼らの鞄づくりをやっていたんですよね。 ![]() 泉|そうなんですか!? 吉田|そうなんです。依頼がきたんですよ。 泉|いまの『コム・デ・ギャルソン』のバックを作られているように、当時の『VAN』のバックは吉田カバン製のもあったということですか!? 吉田|そうです。"アイビー"といったらアタッシュケースじゃないですか?日本でアタッシュケースをはじめてつくったのは、父なんです。 泉|そんな時代からファッションと一緒にやられていたんですね。 吉田|祖父は、黒澤明監督とか、カメラマンの秋山庄太郎さん、画家の長沢節さんとか、そういう方たちと"何か"をやっていたらしいんです。実際に、黒澤さんの映画『天国と地獄』で使用されていた有名なカバンがあるんですが、それは黒澤さんから直接依頼がきてつくったものなんです。 歴史的に見ても、うちはやっぱりヒトとヒトなんですよ。 職人さんも材料屋さんも、もちろん泉さんと私もそうなんですが、ものづくりにかならず、ヒトをかえしているんですよね。それが祖父の時代は黒澤さんだったり、父の時代は『VAN』のメンバーだったり。(吉田)克幸はビームスさん、コム・デ・ギャルソンさんとかだったり、ヒトとヒトがつながっていくんですよね。 いまの日本のファッション界の先駆けのヒトたちと父は一緒にやっていたんですよ。アメリカに行ったときにアイビーリーグというか、ボタンダウンとか、半袖のシャツとか、新しいファッションの動きがあったらしいんですよね。 ![]() 泉|イギリスのトラッドよりスポーティというか。 吉田|そうです。 いわゆるアイビーとかプレッピーと呼ばれるブームのはしりなんですが、そのシャツとかを日本に戻ったときに、石津さんやくろすさんたちに見せて、かれらもアイビーをやりたかった人たちですからそれにかなり反応していたみたいですね。 それで「カバンをつくってほしい」ということになって、アタッシュケースをつくりはじめたんですよ。ただ、父の場合は、"自分でデザインするという時代ではなかった"と、言っていました。イタリアでの製品とか材料をみて、「こんないい革が日本でもできないか」っていって、外国製品をマネたような時代でしたからね。 私が生まれた1964年のころは東京オリンピックの時代だったので、高速道路はできるし、新幹線もできるはで、日本が高度成長期の真っただ中の時代で、材料にしても何にしてもイケイケだった時代ですからね。 (後編へつづく)
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