連載・坪井浩尚|第一回 「視座」
Design
2015年3月20日

連載・坪井浩尚|第一回 「視座」

第一回 「視座」

視座とは、物事を見る姿勢や立場、カメラの画角のようなものである。

文=坪井浩尚

身体という乗りものを、ドライブしている感覚

今回掲載する2枚の画像はスケールも素材もまったく異なるが、それぞれ相似の構造として、この画角のなかに立ち上がる表象には別段、差がないように感じられる。

当たり前のようだが、僕たちは頭から足先までの輪郭を自分自身の単一のユニット(物差し)としてこの世界を認知している。

身体という乗りものを、ドライブしている感覚が意識として立ち上がることがそうさせる理由かもしれないが、意識を離れてその画角を疑えば、目に見えないほどの細胞のひとつひとつや宇宙のような広い世界、はたまた『アバター』や『マトリックス』のように実体のない世界であっても、どのようにフレーミング(認識)するかによって、僕たちはまったく別世界の住人にもなることができる。

「私」という意識から、気づきへ

仏道の修行をしていた2004年のある日、こんなことを考えたことがあった。
葉っぱ一枚一枚を人間の一人と仮定すると、一本の木を生命の営みとして見立てることができる。
たくさんの葉が、光合成をし養分をつくりだすことで木の生命は支えられている。
いっぱい栄養をつくる葉もあれば、小さい葉、成長の遅い葉、寿命の短い葉、虫に食われてしまったり、強風で飛んでしまう葉もある。

すべての葉が活動を止めてしまえば、木は簡単に枯れてしまうが、散ってしまった葉も次の生命を宿す養分となり、全体の営みとして循環を持続することで、「木」という生命が保たれる。

もし、葉っぱ一枚が自分の命であったら、散ってしまうこと =「死」だが、ここでの生命の主体は一枚の葉ではなく、生態系そのものとしてなんとなくイメージすることができる。

僕たち人間とそこに違いがあるとすれば、「私」という意識があるかどうかなのかもしれない。木は、ただそこにあって循環し年輪を刻みながら成長をつづけている。
もし、身体の細胞のひとつひとつに意識があれば、髪の毛にとっては抜け落ちることが、僕たちが死に対して思うのと同様の不安や恐怖を感じるのかもしれない。

この世の実体においては、葉の一枚と人間も大差はないのかもしれない……と考えると、なんとなく自分の死=すべての終わりでなくなり、これまで固執していた「自分」という輪郭が少しだけ曖昧になっていった。
自然やこの世界が、操作対象として自分の外側にあるものでなく、その営みそのものが主体で、そこに自分も溶けているようなイメージができたことが、僕のなかで当時、達観にも似たとても大きな気づきだった。

デザインをはじめるときには、まずこのフレームを外すことからはじめるようにしている。
大きさ・主体・意識などなど──様々な視座に浸しフラットに思考することで、モノのありさまや理(ことわり)のようなものを、デザインにおいて体現できたらと思う。

           
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