Nicholas Taylor(ニコラス・タイラー)a.k.a DJ High Priest インタビュー(前編)

Nicholas Taylor(ニコラス・タイラー)a.k.a DJ High Priest インタビュー(前編)

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ニューヨーク80年代の生ける伝説
Nicholas Taylor a.k.a DJ High Priest インタビュー(前編)

つねに新しいものが生まれていた、80年代のニューヨークのカルチャー・シーン。
そんなシーンの最前線にいて、旋風を巻き起こしていた男がいた。
ジャン・ミッシェル・バスキアやマイケル・ホルマンと組んだ伝説のアヴァンギャルド・バンド”Gray(グレイ)”に参加。その後、ダウンタウン初のヒップ・ホップ パーティにアフリカ・バムバータやジャジー・ジェイとともにDJとして参加。初めてスクラッチした白人DJとして名をのこす。
さらに、ヴィンセント・ギャロらとのバンド”The Generation”での活動や、20年ものときを超えて、いまもなお再活動中のバンド”Death Comet Crew”のビートメイカー。
ニューヨーク80年代の生ける伝説と呼ばれた男、Nicholas Taylor(ニコラス・タイラー)a.k.a DJ High Priest。
彼は、80年代にバスキアとともに活動していた伝説のバンド”Gray”での鮮烈な時代の瞬間を写真として切り取り、残していたフォトグラファーとしても活動していた。その最も印象的な作品は、今は亡きバスキアのエキセントリックなポートレートであろう。
カルチャー激動の時代を送ってきた彼に、音楽と関わったキッカケや、80年代のニューヨークのカルチャー・シーンなどを中心に、簡単に人生をふりかえっていただいた。

文=金子英史(本誌)Photo by Jamandfix

──音楽にかかわるようになったキッカケを教えてください。

69年、16歳のときに、”シアーズ(Sears)”というデパートのカタログで、オモチャのギターを買ったんです。それは10ドルのとても安いモノで、見た目もかなり安っぽかった(笑)。だから、それにペンキで色を塗ったのですが、そうしたらそれがアコースティック・ギターのような音が出はじめたので、それでよく遊んでいましたよ。
じつは、それまで私はギターを弾いたことが無かったんです。なぜなら、本物のギターを買えるような環境じゃなかった。僕の家はとても厳格なカソリック教徒で、音楽をやりたくでも全然やらせてもらえなかったんです。だから本物のギターではなく、そういうモノで我慢するしかなかったんですよね。

18歳になったときに、やっとギブソンのエレキギターを買って、一生懸命練習したんですが、どうやっても上手く弾けませんでしたよ。
その後、20歳のときにアートスクールに通いはじめたのですが、そのときにおなじ大学の学生で、サトウ・ルミオさんという日本人に出会ったんです。彼は、信じられないほど音楽の才能の持ち主で、ギターの演奏がとてもうまいヒトでした。

ボサノバやクラシック、フォーク、ジャズとか、とにかく全部です。だから、彼にギターをおそわって頑張ったのですが、やはりダメでしたね(笑)。でも、それが私が音楽に関わるようになったキッカケです。

ちなみに、サトウさんの実家は仙台にあって、一度、そこに招待してもらったことがあります。それが30年くらい
前かな。
そのときは半年間、日本に滞在したのですが、その間は彼にギターをおそわったり、彼の演奏を聴いたりしたことが日課でした。それに、彼と日本国内を旅して、たくさんの自分の知らない文化に触れることができたので、私のなかでとても重要な経験でしたね。
でも、その経験は、のちのち私をニューヨークへと行く勇気をくれたんですよ。

──それは、まだDJを始める前の話ですか?

そう!まだ。
当時は、マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンとか、ジャズとフュージョンが好きでしたね。

ニューヨーク80年代の生ける伝説<br>Nicholas Taylor a.k.a DJ High Priest インタビュー(前編)

──生まれはどこなんですか?

ベルヴィルという南イリノイ州のセントルイスの近くにある街で生まれたんです。フランスっぽい感じの街並で、美しい街でした。大学はそこのちかくで、そこでルミオさんに出会ったんです。

──日本での半年の滞在のあと、すぐにニューヨークへ行ったのですか?

いいえ、日本での滞在でお金がなくなっていまったので、一度セントルイスに戻って、1年間くらい働きましたね。その間にもヨーロッパを3ヶ月間旅行したりもしてました。そのあとに、ニューヨークに住みはじめたんですよ。
ニューヨークに着いてからはじめにしたことは、パンクバンドに参加したことです。
それはメンバーとしてではなく、そのバンドのリハーサルで何回かギターの演奏で参加させてもらっていたんですよね。

ニューヨーク80年代の生ける伝説<br>Nicholas Taylor a.k.a DJ High Priest インタビュー(前編)

その年に、『マッドクラブ』というナイトクラブで、はじめてジャン・ミッシェル・バスキアと出会ったんです。私は、その時に彼の写真を撮らせてもらいました。
“Gray”というバンドへの参加は、はじめはマイケル・ホルマンとバスキアが組んでやっていたのですが、そこにふたりから誘われて私が参加したんです。

それは、ダウンタウンのイーストビレッジの7th streetに『キエフ』というレストランに、3人で行ったときに誘われましたよ。そのお店が24時間営業だったから、マッドクラブで遊んだあとに”Grey”のメンバーや、ほかの友人とよくそこに行っていたんです。

そういえば、そのレストランで面白いエピソードがありましたよ。
みんなで注文した料理を食べ終えて、皿を片付けてもらったあとにコーヒーを頼んだんです。そこは、毎朝5時にウェイトレスのシフトが変わって、前の人達がほとんどいなくなるんですよ。だから、先に何を食べていたかとかは伝票をみないと分からない。

当時、お金がなかった私たちは、料理の方の伝票を隠して、新しくつけられたコーヒーの伝票だけをレジに持っていっていました。つまりコーヒーいっぱいの値段で、僕らはたらふく食べていたんです(笑)。

じつは、カナルストリート沿いにあった『デイブズ ブランチ・イネット』という別のレストランでも同じことが出来たので、そこと『キエフ』と入れ替わりで、ほぼ毎晩そんなことをやっていました。
当時、コーヒーいっぱいの値段が25セントだったから、食べるだけ食べても4人で1ドル。ときには10人くらいの友達とそんなことを、2ヶ月くらいつづけていたんです。
でも、ある日、さすがに警察が来ましたよ(笑)。

あまりにもお店に来すぎていたので、店員がぼくらの顔をおぼえていて、警察に通報したんです。そのときは、すごくお店の人に謝って、なんとか警察に引きわたされず、お店の出入り禁止だけで済んだんですけれどね。お店のヒトたちには悪いことしましたよ。
でも、あのとき、なぜかバスキアだけすごく怒られていたのを覚えています。

Nicholas Taylor a.k.a DJ High Priest
(ニコラス・タイラー/DJ ハイ・プリースト)

DJ/フォトグラファー。
あのジャン・ミシェル・バスキアやヴィンセント・ギャロ、マイケル・ホルマンなども所属していたニューヨークのアヴァンギャルド・バンド、『GRAY』のメンバー。また80年代後半に活動し、今も精力的に活動を行っている知る人ぞ知る伝説のノーウェイヴ/ヒップホップバンド、Rammelzee(ラメルジー)も所属している『Death Comet Crew』のDJ/ビートメイカーでもある。
そしてN.Y.C.ブレイカーズのDJ、はじめてスクラッチをした白人DJ。
さらにフォトグラファーとしても活動するなど様々な”顔”を持つ、『ニューヨークの生ける伝説』とよばれる男。

http://www.djhighpriest.com/

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