特集|OPENERS的ニッポンの女性建築家 Vol.1 乾久美子インタビュー

特集|OPENERS的ニッポンの女性建築家 Vol.1 乾久美子インタビュー

いま、世界が注目するニッポンの女性建築家たち

Vol.1 乾久美子インタビュー (2)

レム・コールハースの出現

──高校は普通科だったのですか?

理系の普通科でした。数学と物理だけは点数がよかったので、先生にも相談したところ、たしかに、それならば建築はいいのではないか、ということになりました。

──当時、身近に建築の仕事をしていた方はいたのですか?

親せきの伯父さんに建築士の方はいますが、そこまで近い存在ではなかった。

──乾さんが小さなころに間取りをデッサンされていたようなものを、伯父さんに見せたり相談したりというようなことはありましたか?

それはないですね。

──その当時描いていた絵を褒められた、ということもないのですか?

ないですね。すごい上手いなあとか、いい間取りだな、と自己採点してひとりで感心していました(笑)。暗い子どもでしたから、わざわざ他人にみせて、ということはしたことはなかったんですよね。いまでも、自分がどういう間取りを描いたかを思い出すことができます。

──それはいまの設計のお仕事に繋がったりしているのですか?

いや、それはないです。当時考えていたのは、オーソドックスな中庭タイプとか、誰でも考えられるような素朴なプランですので、いま思い出してもそれほどおもしろくはないです。

──子どもなりの夢の家、というか、夢の間取りというものですね。

いや、いわゆるファンタジーではないのです。提案としておもしろくはないのですが、ちゃんと現実的なんですよ。つまり、子どもっぽくないことに熱中していたのです。

──そうですね、まず既存の敷地もあってと、そもそもの発想からして実際的でしたね。

そうそう。スケールもありましたし。

乾久美子|建築家 11

『片岡台の幼稚園の改装』 (2001年)
写真=高橋 堅

──では、いよいよ大学で建築を専門に学ぶようになるわけですが、そこではどのようなことをされていたのですか。

運よく芸大の建築科に入ったわけですが、さすがに小学生のころから間取りを描いていただけあって、クラスのなかでも、設計はまあまあうまいほうなわけです。まとめるのがうまい、ソツのないタイプの学生でした。だけど、高校のときにぶち当たった限界とおなじで、自分はやっぱりうまいだけなんじゃないかと、ハッと、気づいたときがあったんです。たとえば、プランはうまくまとまっているけれど、それが本当にいい建築なのかみたいな。あるいは、これは建築としておもしろいのかと。建築がなんとなくわかりはじめた3年生くらいのときに思い悩むようになりました。

おもしろい建築と、おもしろくない建築というのが世の中にはあって、このまま上手いだけの設計をつづけていくと、どう考えてもおもしろくない建築しかつくれなくなるだろうと思ったんです。そこで、このままではいかんと、反省するんですね。とにかく自分の殻を破ることを考えて、いろいろなものを見る努力をしました。

──実際に見ることは大切ですよね。そのなかで、現在につづく、自分にとって影響を与えたものであったり、ひとであったりするものに出会えましたか。

90年代前半あたりに学部時代を過ごしまして、そのころの建築の主流というのは、バブル経済に影響をうけた建築物が建つ最後の時期で、そんななかで妹島和世さんが作品を発表しはじめた、というような時代です。そんな時代でしたので装飾的な建築が多く、思想的にも、表層的なものがむしろもてはやされるような時代でした。もちろん、いまから考えるとそれはそれでおもしろい建築なのですが、学生の身分からすると、ちょっとついていけないというか、これを真似していてもなあ、というようなものに映りました。当時は心をぐっと捉えるようなものというのが、なんとなく少なく感じる時期だったわけです。

どのような時代をすごすのかというのは、学生にとっては死活問題です。自分は悩んでいるのだけど、その自分を救ってくれるような示唆を与えてくれる建築がないわけですから、下手をすると、設計そのものが嫌いになってしまう。私はかろうじて設計への興味をもちつづけることができましたが、とはいっても、ずっと悶々とした気持ちを抱えたまま学部の残りの日々を過ごし、最終的に、海外留学を決めて、アメリカの東海岸にあるイエール大学にいきました。イエールに在籍したのが92年から96年です。90年代も半ばになってくると、オランダの建築家であるレム・コールハースのOMAの活動が活発になってくるんです。その活動をいろいろ見たり調べたりしていくうちに、ようやく同時代の建築がおもしろいと思えるようになったんです。ちょうどそのころは、OMAのつくり方というのが、建築のつぎの時代を切り開いていった、という時期でした。

──それをアメリカで同時代の出来事として熱狂していたんですね。

その熱狂はアメリカだけではなく、オランダを中心に、日本をふくめて、世界中で興奮していたわけですが、それをたまたまアメリカから見ていたという感じですね。この時代、建築を志している学生であれば誰もがOMAから影響を受けていたと思うのですが、私もそのひとりだったのです。