モエ・エ・シャンドン モエ アンペリアル 150年 アニバーサリー(2)| MOËT & CHANDON

モエ・エ・シャンドン モエ アンペリアル 150年 アニバーサリー(2)| MOËT & CHANDON

モエ・エ・シャンドンとシャンパーニュの276年

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MOËT & CHANDON|モエ・エ・シャンドン

モエ・エ・シャンドンとシャンパーニュの276年

モエ アンペリアル 150年 アニバーサリー(2)

モエ家とシャンドン家とシャンパーニュの戦い

ところで、ここまではモエ家の話だ。1833年、ジャン・レミーの引退ともに、モエはモエ・エ・シャンドンとその名を変えた。これはジャン・レミーの息子のヴィクトールと1816年に、ジャン・レミーの娘、アデレイドと結婚した、ピエール=ガブリエル・シャンドンがジャン・レミーの事業を引き継いだからだ。モエ家とシャンドン家だからモエ・エ・シャンドン。ちなみに、モエというのは15世紀にまで遡る伝統ある名前なのだけれど、フランスで正しくはモエ“ット”と最後のTを発音する。だからモエット・エ・シャンドンという人がいても、それは間違いではなく、むしろその人物はモエ・エ・シャンドンのことをよく知っている可能性があるので、ご記憶めされよ。

モエ・エ・シャンドンとなってしばらく、19世紀末から第一次世界大戦までの時代に、シャンパンは苦難の時代を経験する。

それはシャンパーニュ地方に限った話ではなく、ヨーロッパ中のワインに影響する話だけれど、フィロキセラという体長1mmほどの小さな虫によって起こった。ヨーロッパに持ち込まれたアメリカのブドウ樹についていたとされるフィロキセラは、ヨーロッパのブドウ樹に寄生すると、根から栄養を奪い、枯死させてしまうのだ。1863年にフランスで確認され、シャンパーニュ地方では1888年に確認された。当初は対処法がなく、対処法が発見されて以降も、1900年代の初頭まで、被害が拡大し、壊滅的な打撃をワイン業界に与えた。銘醸地では、伝統の土地でのワイン造りを諦める造り手もいた。けれども、このとき、モエ・エ・シャンドンの当主だった、ラウル・シャンドン・ド・ブリアイユは、シャンパンを守るためフィロキセラと戦った。モエ・エ・シャンドンのもつ財力と人脈を投じて、フィロキセラ対策の研究所を設立。これが、いまも続く、モエ・エ・シャンドンのブドウ栽培研究施設の始まりとなる。

ちなみに、フィロキセラを食い止めるためには、フィロキセラで被害を受けないアメリカのブドウ樹を台木にして、ワイン造りにむいたヨーロッパのブドウの枝を接ぎ木すればよい、ということは、1870年代にはわかっていたようだ。しかしこれは、それまでのブドウ樹を諦め、接ぎ木する品種にあった台木を植え、そこに実際に接ぎ木する、という労働力だけでなく、心理的、経済的にも困難な作業を要求した。

これと時をおなじくして、シャンパーニュ地方では、あとを絶たない産地偽装に業を煮やした造り手たちが原動力となって、シャンパンを定義してゆく。つまり、シャンパーニュ地方で収穫されたブドウを、シャンパーニュ地方で醸造した発泡性ワインのみがシャンパンと名乗ることができる、というルールが法的に決まったのだ。いまも、シャンパンは、他のスパークリングワインと比べても、より厳格なルールをもつ。スパークリングワインの同義語みたいな曖昧な存在ではなくなってゆくシャンパン。シャンパンは、シャンパンを守ろうと努力する人が造るワインだ。

その名も「シャンパーニュ大通り」にある、モエ・エ・シャンドンの本拠地。ここに「ホテル モエ」があり、地下にセラーがある。シャンパーニュ地方の経済の中心地である

15分、時に先んじろ

20世紀は市民の時代だ。もはや、シャンパンは、封建貴族だけのものではない。だからこそ、シャンパンをシャンパンとして定義する必要があったともいえるかもしれない。デモクラシーの20世紀、シャンパンは世界のスパークリングワインの王者になった。

そのシャンパンの覇権を確たるものとした人物のひとりに、1930年からモエ・エ・シャンドンを率いた、ロベール=ジャン・ド・ヴォギュエがいる。

ロベール=ジャンは、モエ家の一員であるジズレーヌの夫であり、貴族出身でもあり、そして貴族的精神の持ち主だ。だから、1941年に設立され、現在も続くシャンパーニュ地方でシャンパン造りと販売に関わる人々の利益の調整機関であるシャンパーニュ委員会の初代共同代表を務め、そんな立場でなくとも、労働者や小規模生産者・栽培家のために尽くした愛郷の人だ。第二次世界大戦時には、レジスタンスとして戦って、ナチスに捕まってもいる。

そして、モエ・エ・シャンドンにおいては、ステンレスタンクの導入をいち早く進めた、改革者でもある。

ロベール=ジャンは、保守的な人物ではいささかもなかった。ジェットセッターであり、妻とクルマを愛し、そしてとりわけ、アメリカが好きだった。完璧な英語を話したとされるロベール=ジャンは、アメリカを尊敬し、また尊敬される、チャーミングで、オープンなフランス人だった。アイゼンハワー大統領とゴルフをして、ゲイリー・クーパーとディナーをともにして、そして、フォーマルにもカジュアルにもモエ・エ・シャンドンを楽しんで、ワインの堅苦しいイメージを吹き飛ばした。ロベール=ジャンとともに、モエ・エ・シャンドンは、20世紀をリードするアメリカで愛された。

ロベール=ジャン・ド・ヴォギュエ(1896-1976)

こんな最高のアンバサダーに恵まれたモエ・エ・シャンドンは、1962年、シャンパンの造り手としてはじめて、フランスのストックマーケットに名を連ね、以降、シャンパーニュ発にして初の、インターナショナルプレイヤーとして、ビジネスの世界でも、数々のマイルストーンを打ち立てゆくのだった。とりわけ、1971年、コニャックの造り手、ヘネシーとの合併は今日のラグジュアリーブランドのコングロマリット、LVMHの原型としても、歴史的だった。

1976年.ロベール=ジャン・ド・ヴォギュエは80歳でこの世を去る。しかし、華やかな祝祭の場、それは現代においては映画であり、スポーツであり、芸術であり、政治の場に、いまもモエ・エ・シャンドンはあり続けている。

ロベール=ジャンの残した言葉に、現代での成功を鋭くついた言葉がある。「15分、時に先んじろ」。現代という時代が続く限り、モエ・エ・シャンドンが15分、先をゆく限り、シャンパーニュのリーダーたるその地位は揺るがないだろう。

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モエ・エ・シャンドンとシャンパーニュの276年 第3回へ続く(近日公開予定)

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