日産パイクカー誕生秘話 Be-1|NISSAN
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2014年12月25日

日産パイクカー誕生秘話 Be-1|NISSAN

NISSAN Be-1|日産 Be-1

日産パイクカー Be-1誕生秘話

今から25年前のことである。1987年1月、日産自動車から1台の「特別なクルマ」が誕生した。そのクルマはとても小さく、非力なクルマであったが、発売されるや否や、日本にちょっとしたブームを巻き起こし、日産自動車の未来を大きく変えてしまった。発売より四半世紀が経った今もクルマ好きのあいだで語られるほどの「名車」にまでなった1台のクルマ。そんなとある「小さな巨人」の誕生にかかわった人々に、当時を振りかえってもらった。

Text by OGAWA Fumio

「自動車業界ほど商売のやりかたを知らないやつはいない」

坂井直樹さん(以下・坂井) 仕事とおもってやっていても、人生における大事な思い出になることがときどきありますね。僕たちにとって、日産「Be-1」はそういう仕事でした。

山本明さん(以下・山本) 1987年に発売してわずか1万台しかつくらなかったクルマなのに。当時一緒にBe-1の開発をした僕たちは、いまでもときどき同窓会をやっているんですよね。

清水潤さん(以下・清水) そもそもは1985年、「マーチ」を2代目にモデルチェンジしようという頃です。私は1984年にデザイン主管(次長)に昇格し、担当車種のなかにマーチもありました。そこで、マーチのモデルチェンジとはべつに、マーチのシャシーをつかって、いかに多彩なデザインを生み出せるか、その実験プロジェクトを企画したのがきっかけです。私個人が主管として発想した計画でした。マーチのデザインスタジオには常時デザイナーが配置されているのですが、このときは社外に強い発信力のある人たちとのコラボレーションをもとめました。

山本 当時、沈滞気味の社内には「日産はこのままじゃいけない」という意見があったんです。あたらしいことに挑戦しないと、魅力的なクルマがつくれないのではないかと。

清水 そこで、あたらしいモデルの企画にあたって、外部のひともプロジェクトに招きいれようと。誰がいいだろうと人選していたとき、入社同期で友人として日常お互いに親しい間柄であり、全社レベルの技術開発を企画する部署にいた山本さんが、「坂井直樹さんというおもしろいひとがいる」とおしえてくれました。

山本 当時、ワコールの「シェイプパンツ」というヒット商品の成功の秘密を、仕掛け人の三田村さんが語る講演会が東京で開かれたんです。そこで、クルマづくりには他分野の時代感覚も必要だとおもって出かけていきました。それがきっかけになって、三田村さんから坂井さんを紹介してもらったんです。坂井さんはそのシェイプパンツのカラーコーディネーションをプロデュースなさったんですよね。


今回お話を伺った、左から清水氏、山本氏、坂井氏。


「新型車」のベースとなったのは、1982年に登場した初代「マーチ」

坂井 シェイプパンツは1981年に発売して、年間300万枚という大ヒットになった商品ですね。ヒットのひとつの理由は、多くのカラーを設定したところなんです。僕がカラーマーケティング、色で商品の差別化を行うというコンセプトを提案したんです。当時はファッション業界で仕事をしていましたから。

山本 初めて坂井さんを紹介されたとき、開口一番、「自動車業界ほど商売のやりかたを知らない業界はないね」と言われました。「(自動車ディーラーは)地価の高いところに大きなスペースとっているのに、ウィークデイはがらがらじゃないか」などなど。

坂井 ははは。クルマと無縁の仕事をしていたからこそ、そんな大胆なことが言えたんでしょうね。

山本 そのあと、坂井さんから「クルマ(のデザイン開発)に興味ある」との話があって、車両の開発をおこなっている日産テクニカルセンター(神奈川県厚木市)にお越しいただいたんです。お待ちしていたら、入り口の守衛室から私に連絡があって、「へんなひと、来ました」と。

坂井 ははは。

山本 坂井さんは全身まっ黒で、お連れの女性は対照的にまっ赤。日産にはまず来たことのない人種です。坂井さんは坂井さんで守衛のことを指して、「(きびしく誰何されて)まる紅衛兵みたいですね」と揶揄されました。

清水 私の場合は、1984年の春、渋谷の南平台にある坂井さんの「ウォータースタジオ」に出かけたのが、代表の坂井さんとの最初の出会いです。その後ただちに具体的な企画提案書を作成しました。企画書の概要は、1.マーチベースで3種の特徴あるデザインを取りまとめる。 2.第1案は社内チームによるデザイン作成、第2案は社外コンセプトによる社内デザイン作成としコンセプトをウォータースタジオに発注。第3案はイタリアへデザイン発注する。 3.予算を特別に設定する、でした。提案は開発役員会で審議され承認されました。役員会では「こんな提案が欲しかった」との声もありました。ウォータースタジオとのミーティング報告は、開発役員も含め関係部署に配布し興味をもって見てもらっていました。

山本 園田副社長の強い応援があったから、このプロジェクトは進んだんですね。ほかにも、賛同しくれる上司がいまして、「こういうのをまっていた! 日産にはあたらしい提案が必要なんだ。すぐやろう!」と言ってくれたり。

清水 坂井さんと仕事をはじめて衝撃的だったのは、ターゲットとコンセプトを明確に絞りこんでからデザインを制作する、アパレル的なモノづくりの発想でした。ミーティングではマーチのターゲットユーザーをアパレル界の超高感度ユーザーのような人に絞り、これらの人々の感性を体験するために日産のデザイナーをひきつれてタウンウォッチングをくりかえしました。

NISSAN Be-1|日産 Be-1

日産パイクカー Be-1誕生秘話(2)

当時のクルマは四角かったから、その流れを断ち切りたかった

清水 のちに「Be-1」になるクルマのデザインは、3つのスタジオによるコンペ形式で進みました。Aチームは日産社内、Bチームが坂井さんの「ウォータースタジオ」、Cチームがイタリアのパオロ・マルティンでした。マルティンは、ピニンファリーナ出身で、ランチア「ベータ モンテカルロ」、フェラーリ「モデューロ」、ロールスロイス「カマルグ」など手がけたひとです。

坂井 ウォータースタジオは2案提出しましたね。「ノスタルジック・モダン」と「シティ・モダン」ということなるテーマで。

清水 最終的にまとめあげる目標を1984年12月とし、6月、7月、8月はコンセプトづくりとこれにあわせたスケールモデルづくりを一所懸命やりました。12月には社内チームのA案モデル、坂井さんのコンセプトB-1案モデルとB-2案モデル、イタリア外注のC案モデル、計4案のフルサイズモデルが出来あがりました。

山本 坂井さんの案は、2つともクレイモデルまでつくったんでしたね。

清水 2つの提案コンセプトが、あまりにもちがうので、両方ともフルサイズで提案することにしました。

坂井 僕の提案は、当時のクルマは四角かったから、その流れを断ち切りたかったんですね。

清水 「かわいい」というのがキーワードになるデザイン提案なんて、前代未聞でしたね。B-1案、B-2案のプレゼンテーションは坂井さんに担当していただいたのですが、ターゲットとなる人たちのライフスタイルをパネルやグッズであらわし、音楽かけて、これも前代未聞の社内プレゼンでした。

坂井 いまでいうデザインシンキングですね。


清水氏(左)と山本氏(右)


坂井氏

清水 4案のモデルが完成し、社内関係部署に展示するため社内からアンケートを募りました。すると、坂井さんのB-1モデルに誰もが強く惹かれているのがわかりました。「こんなクルマ見たことない。ぜひつくってくれ」と社内から手紙がくるんです。

坂井 「かわいい」という声も出てきましたね。それまで自動車デザインの世界では無縁だった形容詞。

清水 山本さんもオープンマインドで受けいれてくれましたね。

山本 大胆さが当時の日産には必要だとおもっていましたから。

清水 商品担当のS副社長が、そのB-1案モデルの展示説明をうけて、「なんだ、これは!」とすっとんきょうな声をあげたのをおぼえています。でも実現に向けて前向きに考えてくれました。そのあと当時の社長も見て、「おもしろい。つくることを検討しては」と。

坂井 社内の一部では反対も多かったときかされました。

山本 当時は「技術の日産」が謳い文句でしたから、あたらしいテクノロジーが搭載されていないクルマをつくっては、技術者の沽券にかかわる、と言うひともいました。

清水 デザイン部内では「先進性のないデザイン」との意見はありました。しかし私は社内の反対意見には耳を貸さず、「つってほしい」という社内一般の声とS副社長の強いおもいをうけとめて、生産化にむけて努力すると決意していました。そしてこれを世に出すために社内調整に動きはじめたのです。

つづく──

SAKAI Naoki|坂井 直樹(さかい なおき)
現ウォーターデザイン取締役。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス教授。1960年代、渡米してサンフランシスコでファッションビジネスを立ちあげる。テキスタイルデザインが出発点だが、Be-1プロジェクトのあと、プロダクトデザインに広くかかわっている。

SHIMIZU Jun|清水 潤(しみず じゅん)
1962年、日産自動車入社。当時はデザイン部はなく造型課で初代「サニー」を担当。トヨタ「クラウン」を販売台数で上まわった「セドリック/グロリア230型」(1971-75年)のデザインも手がける。デザイン本部長時代は、8年間デザイン部門を統括、全車種のデザイン責任者を務めた。

YAMAMOTO Akira|山本 明(やまもと あきら)
1962年、日産自動車入社。設計開発部門に籍を置き、サスペンション、車体の設計ののち、技術開発企画、商品企画に従事。その間、「フェアレディZ」(Z32)(89年発売)、大ヒットした「シルビア」(S13)(88年発売)などを手がける。その後商品企画室や電子技術本部長などを歴任。

           
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