Infiniti M35h|インフィニティ M35h LAオートにて再公開
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2015年3月30日

Infiniti M35h|インフィニティ M35h LAオートにて再公開

Infiniti M35h|インフィニティM35h

インフィニティ初のハイブリッドセダン

日産自動車の高級車ブランドであるインフィニティは、10月のパリサロンにつづき、ロサンゼルス オートショーにおいても、インフィニティM35hを公開した。

文=松尾 大

ラインナップ随一のドライバーズハイブリッド

あたらしくインフィニティMシリーズにくわわったハイブリッドモデルは、基本的には日産フーガハイブリッドとおなじだと考えていい。V8のパワーと4気筒の燃費をもつ“ドライバーズハイブリッド”と謳われるM35hは、最高出力225kW(306ps)を発生する3.5リッターV6エンジンと、最高出力50kW(68 ps)のモーターを備える。最終的な仕様は未定だがインフィニティによると、システム出力268kW(365ps)で、7速ATを介してのEPA(アメリカ環境保護庁)による推定燃費は、都市部で25mpg(10.63km/ℓ)、ハイウェイで30mpg(12.76km/ℓ)となっている。

Infiniti M35h|インフィニティ M35h Photo02

Infiniti M35h|インフィニティ M35h Photo03

インフィニティの副社長であるベン・プーア氏は「現在手に入れることができる唯一の350hp&30mpgオーバーのクルマである」と胸をはる。これだけの出力をもちながら、最高速度62mph(100km/h)で1.2マイル(1.9km)の距離をモーターのみで走行可能。これによりさらなる低燃費の実現に成功したという。

また、後席下部に格納された薄型のリチウムイオンバッテリーを搭載することで、実用性も犠牲にはなっておらず、ゴルフバッグなら4つ、スーツケースならふたつ収納できるという。

そのほか、M35h専用にチューニングされたサスペンションのほか、低速走行中において車両の接近を歩行者に知らせる警報音を発生するシステム(VSP)を装備する。

価格、そのほかの情報はまだ詳細になっていないが、春には米国での販売が予定されている。

BRAND HISTORY
本格的に日産自動車の名前でセドリックを作りだしたのが1960年。母体の創業は1937年。太平洋戦争を経て、英オースチンのノックダウン製造を手がけた歴史をもつ。1966年にはプリンス自動車と合併。1983年から87年にかけて伊アルファロメオとの合弁会社を設立し、イタリアでの生産をおこなった。一時期はトヨタとシェア争いをするまでになったが、90年代に経営危機に陥り、1999年に仏ルノーの資本参加を受け、現在にいたる。

日産の特徴は、日本人の身の丈にあったクルマづくりにあったといえる。自家用車をもつ夢、高性能のクルマを楽しみたいという憧れ、世界で通用する価値をもつ日本車へのプライド、高級車志向……。日本人がモータリゼーションの発達とともに時代ごとにもっていたクルマへの思いをうまく製品化してきたのが日産だ。モータリゼーション黎明期である1966年にはスモールカーのサニーで「マイカー」所持の夢をあたえ、1967年には高性能を前面に押しだしたブルーバード、モータースポーツが若者の関心の的になっていることを背景に1968年にスカイライン、くわえて「米国で認められた」スポーツカーとして1969年にフェアレディ Zを、それぞれ発表。さらにいわゆるバブル経済の時期は、市場の高級車志向を背景に1988年のシーマで大きなヒットをとばした。同時に日本車の高性能化を具現したスカイラインGT-Rを1989年を発表。(スカイライン)GT-R神話を不動のものとし、現在のNISSAN GT-Rにまで受け継がれている。

開発者を宣伝の前面に立てるなど、顔の見えるメーカーとして消費者との距離を縮めようとする、いい意味での人間くささは今も健在。走りや技術を喧伝した時代の、生身の人間のように目的をもって先へと邁進していく人格化された企業のイメージこそが日産の持ち味だ。

新世代の技術開発ではトヨタなど他社に遅れをとってきたのも事実。しかし、1999年のルノーとの資本提携のさいにクローズされた多くの事業のなかには、当時他社より進んでいたハイブリッド技術もふくまれていたとか。2010年冬には4ドアEV「リーフ」が発売される予定。環境技術において日産はどこへ向かおうとしているのか。

           
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